第20話 姫

「わたくしの名はジェ・ファラン」

 赤い衣の幼女は、ベイオの目を見据えて名乗った。その黒目がちな切れ長の目は、先ほどの言葉通り、興味津々といった輝きを宿している。

「そなたがベイオですね」


「はい……僕です」

 何とはなしに、返事をしないと不味い気がした。

 ゾエン……国王直属の監察使と名乗った青年と、この子は対等に話していた。ならば、親族か同等以上の身分か、その両方と言うことだろう。丁重に接するしかない。


 その時、一人の女官が座布団を手にして現れた。ファランと名乗った幼女は、一度立ち上がるとその上に座り直した。

 女官は幼女に一礼すると、ベイオの方を一瞥して立ち去った。


 ベイオが女官と見なしたのは、その女性の衣が若草色に染められていたからだ。白一色しか許されない下民とは違う。


「この村で見かけた荷車も、あなたが製作したのですね?」

「……はい」

「木の板をあんな風に湾曲させられるなんて、存じませんでしたわ」

「はぁ、どうも……」


 ベイオとそう変わらない年齢のはずだが、彼女の言葉は洗練されていた。それに、やけに丁寧だ。

 これが英才教育ってやつかな、と思った矢先だった。


 彼女はベイオから右後方に向かって言った。


「老師、あなたも興味おありあんでしょう。こちらにいらしては?」


 振り返ると、柱の影からこちらを伺っていた老人がこちらにやって来た。頭に手をやってるが、禿頭なので掻くと言うより撫でるに近い。


「姫様にはかないませんのう」

 鷹揚にそう言って、老人は臍まである白い顎ひげをしごきながら、幼女の左に立ってこちらを向いた。

 座るかと思ったが、立ったままだ。かなりの高齢だが、足腰はしっかりしているらしい。


「わしはシェン・ロンと申す。ファラン姫の教育係を賜っておる」

 皺の刻まれた笑顔だが、細い双眸に宿る光は好奇心の表れだろうか。


 ……この人が英才教育の担当者か。


 ベイオがこの世界に生まれてから出会ったうちで、最も高齢の人物。「姫」と呼ばれる娘の師であるなら、相当な知識を蓄えているだろう。それなのに、好奇心はいささかも衰えていないらしい。


 目の前の三人は三様だが、等しく並々ならぬ興味をベイオに注いでる。


「さて。これで役者はそろったようだな」

 沈黙していたゾエンが声を上げた。

「ベイオ、お前は明日から毎朝、ここに来るがよい」


 ……え?


「ファラン姫と共に、ロン師から学ぶが良い」


 ……ええ?


「わたくしも、色々と伺いたいことがありますの」


 ……えええ?


「わしは逆に、お主からモノ作りの秘儀を教えて欲しいのう」


 ええええー!?


 あまりのことにベイオは言葉を失った。

 そのせいで、ゾエンの傍らで苦虫を噛み潰している代官、ヤンドンのことは目に入らなかった。


 ヤンドンがこの村の代官として赴任してから、十年たつ。その間、この村は何も変わらなかった。人口は増えも減りもせず、都に納める年貢の量も、年ごとに多少の変動はあっても同じまま。

 出世のチャンスが無いかわりに、変に目を付けられることもない。


 そもそも、彼は代官でしかない。この村や村民を含めて、この国の全ては国王の所有物であり、彼も含めた官吏たちはその運営を代行しているにすぎない。

 代行なのだから、無難にそつなくやればそれでいい。無理して開墾などさせても、働き手が足りなければ収穫は増えない。むしろ、減ったりしたら大問題だ。


 だから、村民の暮らしぶりなど、意識に上ることも無かった。精々、羽振りの良さそうな者がいれば難癖を付けて搾り取り、私服を肥やすぐらいだ。


 先日のベイオに対してしたように。


 この春、都から戻る際に、上司から伝えられた。秋に監察使が使わされると。

 国王直属の監察使は、代官として地方を納める官吏の不正や治安を査察するのが務めだ。面倒ではあるが、大抵は形だけだ。一年ほど酒色でもてなせば、何事もなく次の土地へと異動していくのが普通だ。


 一つ違ったのは、その監察使が一人の客人を伴うと言う事。高貴な身分の者で、都から離れた彼の村に数年留まるという。

 そのためか、命じたのは直接の上司である郷司ではなく、はるかに上の道令であった。


 この国は八つの行政単位に分かれており、日本の県に該当するそれぞれを「道」と呼ぶ。道令は道全体を治め、代官の最高職と言える。これに対して、最小の行政単位である町や村は「荘」が正式名称であり、そこの代官は荘長と呼ばれる。


 そんな最上位の道令が、底辺の荘長でしかない自分に直接命じたのだ。こうしたことは滅多にないが、前例はいくらでもあった。そのうち、国の上の方で政変でもあるのだろう。その際に家族を避難させかくまうのは、珍しいことではない。


 しかし、村に戻ってみたら話は全く違っていた。

 田畑は今までにないほどの豊作。それはいい。所詮、収穫は天候次第なのだから。

 しかし、村民に活気が満ち溢れてるのはどうしたことだ。代官である自分の留守中に、かつてないほど村内や外との物々交換が盛んになっている。


 そして、あの荷車。村の活況の原因の一つに違いない。

 それらをもたらしたのがベイオだ。

 たった六歳の下民の幼児が、中民とは言え代官である自分を差し置いて、この村を発展させつつあるのだ。


 さらに、その事実を監察使が、連れて来た姫が、その教育者である老師が、目撃している。その張本人であるベイオに注目しているのだ。


 実にまずい。これではまるで、自分の無能さが奴の引き立て役になっているようではないか。


 代官ヤンドンのそうした妬みが、ベイオの感じた「厄介ごと」の正体……いや、その一部にしか過ぎないのだが。


 ベイオはまだ、気づいてすらいなかった。


* * *


 翌朝。朝食を終えると、ベイオは母親と共に代官屋敷に向かった。母親は仕事、ベイオはファラン姫と共にロン老師から学ぶためだ。


「午後には戻るからね」

 そう言葉をかけたが、見送るアルムが寂しそうだった。

 しかし、ゾエンら三人の命令だ。ベイオに拒否権は全くない。


 屋敷に着くと、母親は母屋へ、ベイオは離れへと向かう。

 そして、例によって丸洗いだ。

 一応、他の村人に比べたら、ベイオは身ぎれいにしている方なのだが、流石に「姫」と呼ばれるような貴族ともなると違うらしい。


 そして、洗い立ての木綿の服で、昨日と同じ部屋に座る。そこには文机が置かれ、分厚い書籍が載っていた。


 ……困ったな。読めないや。


 縦書きで墨書された題名は、漢字のように見えるが全く違う表意文字だった。

 ベイオが読み書きできるのは、母親から教わった表音文字だった。日本語における仮名に当たるもの。下民や、貴族であっても女性が学ぶことを許されたのはこちらに限られる。

 日常会話を記す程度なら充分だが、学問を学ぶには語彙が少な過ぎるし、同音異義語が多すぎる。


 例えば、ファラン姫は「荷車を作った」ではなく「製作した」と言った。日本語で言うところの「選ぶ」と「選択する」みたいな違いだが、「選択」と「洗濯」は音で聞ても仮名で書かれても区別できない。

 より高度な内容になれば語彙が増えるし、そうなれば表音文字だけ書いていては混乱してしまう。だから漢字のような表意文字が必要となる。

 一方、英語のようにアルファベットだけだと、同じ音を何通りもの綴りで書いたりすることになる。


 そんなことを考えていると、女官数名を引き連れたファラン姫が現れた。


「ごきげんよう、ベイオ」

「ご、ごきげんよう……です。ファラン姫……さま」


 使いなれない言い回しに戸惑うベイオにファラン姫はくすりと笑い、彼のすぐ右隣に立った。すかさず、女官の一人が座布団を敷き、その上に姫が座ると文机が据えられた。


 ……え? 隣?


 まさか「姫」と呼ばれる人と並んで座ることになるとは。この国に生まれて六年、身分制度の厳しさは嫌と言うほど目にしているのに。

 姫の世話が終ると、女官たちは部屋を後にした。


 困ったのはベイオだ。沈黙が重すぎる。かと言って、果たしてとなりの姫様に、おいそれと話しかけて良いものかどうか。


 ……さっさとロン老師が来て、授業を始めてくれれば良いのに。


 そう思っていると、ようやく老師が入って来て、正面の一段高くなった場所に座る。


「では、本日の学びを始めるとしよう」

 穏やかな口調で、老師は宣言した。


 ……貴族であっても、学びの時には師に上座を譲るんだな。


 なんとなく、先ほどの重圧が和らいだ気がした。

 その矢先。


「まず初めに、ベイオ。お主はこの国に生まれ育って、なにかおかしいと感じてはおらぬか?」


 いきなりの爆弾発言だった。

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