第2話 母親
木で囲っただけの窓の外で、空が白々と明けていく。
ベイオが目覚めて目にしたのは、そんな見慣れた風景だった。
すごく長い夢を見ていた気がする。
見知らぬ遠い国で生まれ育ち、学校に通い、家を建てるための勉強をする夢だ。家だけではない、もっと大きな建物。
……見たこともない、巨大な建物だった。
眩暈がする。寝床に半身を起こし、ベイオは目の上を両手で覆った。
怒涛のように記憶が流れ込んで来る。見たこともない街の景色。見たこともない人混み。見たこともない乗り物。
そして、自分は知っていた。あの建物をどうやって建設するのか。どんな「機械」を使うのか。「鉄筋」の溶接。「セメント」の混合比。
道を走る乗り物。空を飛ぶ乗り物。どれも、大まかな仕組みがわかる。
そのどれも、「学校」と言うところで教わった。十二年かけて。
目を覆っていた両手を顔から離し、しげしげと見つめる。
幼い子供の手だ。溶接や木工の実習での、火傷や切り傷の痕などない。
夢とは、どちらのことだろう。
あの国に生まれて過ごした十八年。
この国に生まれて過ごした六年。
質素で平凡なここでの暮らしの記憶は、あの国での圧倒的な記憶に飲み込まれて行った。
「ベイオ、起きたのかい?」
戸口から母親が声を掛けてきた。四角い手桶で汲んできた水を、土間の隅の
「おはよう、お母さん」
見慣れた日常に返事をして、すぐに非日常が襲い掛かってきた。
お母さん。
目の前のベイオの母。
記憶の中の、日野清の母。
お母さん。
どちらの母も、自分を一人で育ててくれた。
お母さん。
夢だと思った、日野清としての記憶。それは、激しい爆発と衝撃で終わっていた。
……僕は、あの時死んだんだ。
そして、なぜかは知らないけど、この国でベイオという名で生まれ変わった。その記憶が、突然戻ってきた。
なんとなくだが、実感がわいてきた。どちらも夢ではない。
……そうだとしたら。
お母さん。
疲れたとか言いながらも、よく笑ってた。毎日、美味しい弁当を作ってくれた。就職が決まって、誰よりも喜んでくれた。
お母さん……。
ごめんよ。僕は死んでしまった。
どんなに悲しんだだろう。泣いただろう。
折角、就職が決まったのに。これからは楽をさせて上げられるはずだったのに。
ベイオの目に、涙が溢れてきた。嗚咽が止まらない。
「どうしたんだい?」
手桶を置いて、母が狭い寝床に近寄った。その縁に腰を下ろし、ベイオを胸に抱きよせる。
「夢を……見たの」
泣きじゃくりながら、ベイオは答えた。
「僕が死んじゃって、お母さんが泣いちゃうの」
その言葉は、ここで生まれてからの年相応で、幼い。
「ずっと一緒にいるから。お母さん、泣いちゃだめだよ」
うんうん、そうだね。
母親はベイオを抱きしめながら、言い聞かせるようにつぶやいた。
ベイオの中で、二人の母親のイメージが重なり、融け合った。
恰幅のよい、肝っ玉母さん。
年若く、はかなげな感じのする母親。
そう、年齢はむしろ、アキナさんに近いのだろう。
おそらくは、もう二度と会えない人たち……。
今度はせめて、この「お母さん」を泣かせることが無いように、生きよう。
涙の止まったベイオは、そう心に誓った。
********
戸口から、ひょっこりと小さな人影が覗いた。
「ベイオ、起きているだか?」
少し訛りのある、幼い言葉。
ベイオや母のような、いかにも東洋人という顔立ちとは異なる、赤毛に琥珀色の瞳。
西洋風の顔立ちだが、それだけに留まらない。オカッパに切り揃えた燃えるような赤毛の両脇からは、茶色い毛で覆われた狼の耳が立っている。
「おはよう、アルム。今、起きたよ」
この家の裏に父子で住み着いた、獣人の女の子だ。
ベイオが返事をすると、短い着物の裾から伸びたフサフサの大きな尻尾が、パタパタと振られた。
「ベイオ、遊ぼう」
うん、とアルムにうなずくと、寝床から降りた。
この家は、小屋と呼んだ方が近い。八畳ほどの一間で、寝起きする部分だけが少し高くなっていて、
「それじゃ、これ食べて行きなさい」
母親が籠の中から取り出したのは、夕食の残りだった。雑穀の粉を練って塩水で茹でた、具の無い大福のようなもの。
一つ受け取って
くぅ、と腹の成る音。アルムが真っ赤になっている。
「アルムちゃんも食べる?」
微笑みながら、母親が籠からもう一つ取り出し、アルムに手渡した。
「……いいの?」
問いかけるアルムに、母親はニッコリ笑ってうなずいた。
雑穀餅を両手に持って、はぐはぐと食べる赤毛の幼女。
その可愛いらしい姿を見ながらも、ベイオは母親の笑顔を見て心が痛んだ。
……あれは、お母さんの分だ。
母親はこれから仕事に出る。空腹を抱えたまま、農家の手伝いや代官の屋敷で下女として夕暮れまで働く。
昨日までは幼児だった。しかし、社会人一歩手前だった今ならわかる。母親がどれだけ、身を削って自分たちを食べさせてるのか。
「ごちそうさまでした!」
食べ終わって、アルムは笑顔でお辞儀した。
「ベイオ、遊びにいこう!」
そう言うと、彼女はベイオの両手を掴んだ。
「じゃ、お母さん、行ってくるね」
「はい、気を付けてね、ベイオ」
二人は戸口から走り出た。裏山の方へ。
手を繋いで走りながら、ベイオは考えた。
僕も働こう。子供じゃ誰も雇ってくれないだろうけど、何か便利な道具とか作れるかもしれないし。
そう。工業高校卒は伊達じゃないのだから。
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