第67話 算木

 八月。ベイオの学校が、一部分だが始まった。表音文字での読み書きと、簡単な四則演算を教える講座だ。


 この国での算術は中つ国で生まれたものだ。算木さんぎという、長さ三センチ位の小さな木の棒を組み合わせて、数字を表す。

 一から四までは棒を横に並べ、五は縦棒を置く。六からは縦棒に横棒を足して表す。

 これを、算盤さんばんと呼ぶ枠を描いた紙の上に並べて、数を表す。算用数字のように位取りをするので、十とか百という記号はない。何も置かない枠は、ゼロを表す。

 足し算は下の桁から算木を加えていく。枠に入らなければ桁上がり。引き算はその逆だ。


 前世のソロバンの方が操作が速いし、携帯性にも優れるが、算木には利点があった。

 まず、算木は表が黒、裏が赤く塗られてて、黒はプラス、赤はマイナスを表している。つまり、正負の数が扱える。

 また、算木全体を左右にずらすだけで、十倍や十分の一にできる。さらに、一の位がどこか決めておけば、小数も表せる。

 これを使って、平方根の計算をすることもできるというのだ。

 そして、算木の並びをそのまま紙に書けば、記録もできる。

 単純な仕組みで、中一程度の数学までカバーできるのだ。


「良くできてるよなあ」

 感心するベイオだが、持ち前の作りたがりが頭をもたげた。


 まず、算木が九を表す、縦棒一本と横棒四本のサイズで、浅い箱というか枠をを作った。この枠の中に算木を並べれば、桁を間違えずにすむ。

 次に、横長の板の上下に、枠がぴったり挟まる間隔で角材を貼り付ける。角材の内側には溝が掘ってあって、枠の上下の突起がはまるようになっている。

 角材の間で枠をスライドさせれば、桁をずらすことができる。板ごと引っくり返せば、算木は落ちるが、枠は落ちない。


 そして、算木をしまう細長い箱も作り、枠を滑らせる板が蓋となるようにした。これなら、持ち運びが楽になるし、片付けも一発だ。算盤の板を引っくり返して載せるだけ。


「あ、蓋を蝶番にすると便利だな」

 板が斜めの方が、算木の横棒が揃いやすい。一体化すれば携帯性も上がるし、立ったままでも使える。


 試作品をシェン・ロン師に見せたら、大変な喜びようだった。早速、ジョ・レンギャ師に見せびらかしに行く。


「ギョレン殿、見なされ。ベイオがこのようなものを!」

 回復が遅れていたギョレンだが、ようやくとこの上で起き上がれるようになっていた。

 中つ国の生まれだから、算木には慣れ親しんでいる。しかし、スライドする枠に納めるというアイディアは斬新だった。


「これは確かに、算術がかなり楽になるな。しかも、誰でも使える」

 その、「誰でも」が重要だった。


 ベイオから、「読み書き算術をすべての民草に」という構想を聞かされた時は、絵空事としか思えなかった。現に、表音文字での読み書きは、同音異義語のためにかなりの制限が出ている。

 しかし、この改良された算木は違う。長年、算木を使ってきた自分が感じるのだ。何より、枠があるというだけで、桁の繰り上がり、繰り下がりが明確になる。

 しかも、この改良された算木は、量産ができるという。


「誰もが、当たり前のように読み書き算術ができる国か。想像したことすらなかった」

 感銘を受けると共に、そら恐ろしくもある。


 無知な相手を支配するのは容易い。相手が読めもしない書状や、確めるすべのない数字を突き付ければ事足りた。

 しかし、相手が書状を読んで理解し、数字を検算できたら?

 一切の誤魔化しは効かなくなる。ただ、冷徹な事実だけが、全ての者を支配するのだ。

 地位も位も関係なく。


「ベイオは、何をやろうとしてるのだ? これは、この世のこれまでを完全に覆してしまう……」

 ジョ・レンギャ、あざなはギョレン。よわい九十を越すこの身を、ここまで震わせているのは、恐れなのか期待なのか渇望なのか。……いや、そのすべてに違いない。


「さながら、初恋に打ち震える乙女じゃの」

 からかうような口調だが、シェン・ロンの目は笑ってはいない。凍てつくほどに怜悧でありながら、噴火口からほとりばしる溶岩より熱い。


「これが、そなたの秘めたる奥の手であったか」

 その言葉に、呵々と笑いながら、シェン・ロンは答えた。

「秘めてなどおらんよ。初めからのう」

 そもそも、ベイオはこの案を国王に上奏したことにより、ゾエンと共に死罪を宣告されたのだ。


「どうじゃな? おちおち、死んでなぞおれなかろう」

「確かにな。五年後……いや、十年後にはどうなっているか」

 その頃、自分は百歳か。

 例えこの身が朽ち果てようとも、見届けたい。そんな思いが、ギョレンに芽生えた。


* * *


 改良された算木の量産が始まった。

 川辺に建てた水車小屋で、木材が切られ、削られ、溝を掘られていく。そうして出来た部品を、都中から集めた人たちが貼り合わせ、組み立てていく。

 これから国中に建てられる、工場のプロトタイプだ。


 完成したうちの二つを、ベイオはファランとアルムにプレゼントした。

 ファランが喜んでくれたのは期待通りだが、意外にもアルムが夢中になった。

 算木での計算はパズルのようなものだ。子供の遊び道具にもなる。気がつくと、何やらあれこれ計算しているのだが。


「この年に子どもが三人生まれて、次の年は四人生まれて……」

 何の試算なのか、聞かない方が良さそうだった。


 そして、ベイオの母親も喜んでくれた。


「ありがとう。助かるわ、これ」

 屋敷の女主人から帝国宰相夫人にジョブチェンジとなったエンジャは、さらに忙しくなった。

 頻繁に行なわれる会合と、その度の接待、寄付をしたりされたり。沢山の数字が毎日動く。女官たちを総動員して計算し、帳簿につけて行くのだが、月毎の集計が追い付かない。しかし、この算木なら誰でもすぐに計算を覚えて使えるようになる。


 その夫であるゾエンにとっては、起死回生の最終兵器であった。宰相として、帝国の予算編成という、決戦に備えていたからだ。


「これで……何とか来年までに死なずにすむ」

「大丈夫? ゾエンさん。顔色悪いけど」

 まだ父と呼ぶには馴れないベイオだが、ゾエンの仕事を山盛にした張本人なので、やつれようが気になってはいた。


 ディーボンによって進められていた検地を、これからは自国で行わなけれはならない。それには測量が必要で、これだけでも膨大な計算が必要だ。

 その数字をもとに秋の年貢を予測し、来年度の予算を作る。歳入も大変だが、歳出はさらに困難だ。ベイオの「やりたい政策」が特盛りだからだ。

 特に、光を使った通信網。試験的に、帝都と北都の間に開設したのだが、効果は絶大であった。一度など、帝都で強盗を働いた者が北に逃げたので連絡したところ、北都の衞士が捕らえることが出来たことがある。

 早馬を飛ばしても、間に合ったかどうかわからない。光より速いものは無いのだから、効果は絶大だ。


 水車を使った灌漑用水や、堤防などの治水工事。街道の整備も、毎年補修が必要だ。


 しかし、問題はやはり金だ。世の中、金が全てではないが、全てに金がかかる。

 年貢だけでは足りないので、ファラン硬貨を大量に鋳造した。

 


 お陰で物価が上がり、インフレが加熱し出している。

 しかし、悪いことではない。農産物などの生産力を上げれば、作っただけ売れるのだから。

 ベイオが開こうとしている技術学校と、水車動力の工場。ここから生まれる職人や、桶や樽、馬車や荷車なども、さらにそれを推し進めるだろう。


 課題はメガ盛りだが、ひとつこなすごとに国が発展し、民草の豊かな暮らしが近づいてくる。

 ベイオもゾエンも、そう感じて日々働き通しだったのだが。


 二つの強大な嵐が、生まれたての帝国を襲ったのだった。

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