第108話 血と旗
……速く。もっと速く!
ジュルムの心は
ナルイチの戦は容赦がない。抵抗するものは女子供でも皆殺しだろう。無抵抗でも、うち捨てられる。
そして、略奪の餌食となるのだ。
……何としても、それだけは!
騎乗するラガダイの前に座り、ジュルムは思い詰めた表情で前方を睨んでいる。
本音を言えば、一人で自力で走った方が速い。しかし、自分一人でできることは限られる。そのための猛虎団だ。
しかし、だからといって今まさに虐殺が起きていたら。
そんなジュルムを見上げながら、ギョレン老師はジーヤの引く車の上で思案にくれていた。
……荒事には慣れていても、大規模な戦は初陣、ということか。
この少年を
戦場に焦りは禁物だ。彼自身も、シェン・ロンとの対決で思い知らされたことでもある。
「ジュルム」
伝声の呪法で語りかける。すぐ耳元で響いた声に、少年は一瞬、身を固くした。
「落ち着くのだ。救援であれば、早さ以外にも大事なものがある」
暫し間があり、ジュルムが問い返してきた。
「他の大事なもの?」
「選択、集中、持続だ」
言葉を噛み締めるための間をおいて、ギョレンは続けた。
「まず、助ける相手を選ばねばならぬ」
「!? 俺は、全員を救いたい!」
「それでは、本来の半数も救えんぞ」
再び間をおき、続ける。
「よいか、まずやるべきは虐殺を止めることだ。死んだものは助からんからな」
「当たり前だ」
憮然とするジュルム。
「だが、焦りはその当たり前をできなくさせる。お前が殺されたら、誰も救えんぞ」
「……わかった」
まずは一歩。
「問題はその次だ。今まさに死にかけているものと、放置したら死ぬものと、どちらを助ける?」
「そんなの……死にかけてる方だろ!」
「違う。放置したら死ぬものだ」
「バカな! 死にかけてるのに、見捨てろと!?」
「そうだ。何故かわかるか?」
「……」
考えても、わからないものはわからない。黙っていると、ギョレンが口を開いた。
「助けるためには、薬や治癒呪法が必要だが、どちらも限りがある。しかも、死にかけているものには、とりわけ大量に必要だ」
「……だから、見捨てるのか?」
「そうだ。手に余る者を見捨て、助けられるものを選び出す。これが選択だ」
「じゃあ……その助けられる者に、薬や呪法を集中……する?」
「それで初めて、支援は継続できる」
「だけど、見捨てるなんて、俺には――」
「ジュルム」
ギョレンは
「お前が救いたいのは人々か? 傷つく自分の心か?」
ブルッと金黒の髪を振るい、ジュルムは答えた。
「そんなこと、決まってる!」
「ならば選べ。救うことのできる相手を。見つめ直せ。自分の手の大きさを」
ジュルムは自分の手を見た。小さな子供の手だ。呪力を込めれば鉄をも切り裂く手だが、小さい。確かに、小さい。
さらにギョレンは続けた。
「この猛虎団も、携行している糧食は数日分に過ぎん。それを過ぎれば、今度は我らも飢えることになる」
言われてみれば、全くその通りだ。そして……。
「……俺は、本当に何も見えてなかった」
「それに気づいただけでも、今は充分だ」
* * *
「そろそろよかろう。次へ向かうぞ」
ナルイチはそう命じて、燃え上がる町を見渡した。ジュルシェン族の数ある支族のうち、南部連合として固まっていたやつらの中心だった町だ。ヒト族がほとんどで、獣人に排他的だった。
しかし、何より許せなかったのは、中つ国と共謀しようとした事だ。そんなことをされたら、南の大麗帝国と分断されてしまう。そうなったら、ベイオが約束した支援が得られなくなる。
だから、殺した。殺し尽くしてはいないが、二度と逆らう気など起きないほど、徹底的に。
傍らで女の悲鳴がした。部下のひとりが、子供を抱いた女を物陰から引きずり出したのだ。その娘だろう、幼女が女の腰にしがみついている。
「おい、やめておけ」
「なんでえ、お
「……
凄みのある声に、その部下は顔色を失った。
……下らん。
立ち去るナルイチの背後で、女と子供の悲鳴が響いた。腹立ち紛れに殺したのだろう。
気にも留めずに愛馬にまたがると、部下を率いて走り去った。
* * *
目の前には幼い少女とその母親。母親のそばでは乳飲み子が泣いている。
我が子を必死にかばったのだろう、うつ伏せの母親は背中をザックリと切り裂かれていた。少女は腹部を突かれ、苦痛にうめいている。
ジュルムたちは間に合わなかった。殺戮はすでに起きた後だった。
ナルイチの軍勢の進撃が、予想よりかるかに速かったのだ。
「どちらを選ぶ?」
冷徹なレンギャの声。
「母親」
感情の抜け落ちた声で、ジュルムは答えた。
「理由は?」
「母親が死んだら、乳飲み子も死ぬ。こっちの子も一人では生きていけない」
「よろしい」
うなずくと、老師は母親に向かって治癒呪法の呪文を唱えはじめた。
ジュルムは苦痛にうめく少女のそばにかがみ込んだ。
「すまない。お前を助けられない」
「いいの……お母さんと弟を、助けて……」
消え入りそうな声でそう言うと、また苦痛に顔を歪めた。
「楽に……なりたいか?」
その言葉にうなずく彼女の瞳は、その意味を理解しているのが見てとれた。
青白く光る爪が、少女の苦痛と命を刈り取った。
「なんとか持ち直したな。明日には起き上がれるだろう」
老師の声に、ジュルムは立ち上がった。
「こっちも終わった」
この地にはまだ何人も、彼の選択を待つ
……ベイオの感じていたのは、この苦しみだったんだ。
無抵抗の者の命を奪う。戦であっても辛いのに、一方的に被害にあった者たちだ。
……優しい子たちだった。
彼がその手で
……あと何人、俺はコニンを殺せばいい?
こんな酷い役目を負わせたギョレンを恨みたくもなるが、彼は額に脂汗を浮かべながら、ジュルムが選んだ重傷者に治癒の呪力を注ぎ込んでいる。ジーヤや猛虎団の者たちは負傷者を探しだし、二人のところに運んでくる。傷の軽いものは、生き残った者たちが薬で治療していた。
誰もが自分のできることで手一杯だった。
「若。負傷者はこれで全員のようです」
戻ってきたジーヤが報告した。それを聞いて、ギョレンは額で玉になっていた脂汗を拭いた。顔色が悪い。ぎりぎりまで呪力を振り絞ったのだろう。
ジュルムも、ほう、と息を吐いた。
しかし、現実はさらに残酷だった。
「悪い知らせです」
ジーヤの沈痛な声に、ジュルムは叫びそうになった。もう、聞きたくないと。沢山だと。
しかし、そうはいかない。
「話せ」
疲れた声で命じると、絶望的な知らせが告げられた。
「家畜が全て殺されてます」
「……そんな!」
ジュルムは飛び出した。
* * *
文字通りの、死屍累々だった。柵に囲われた広い土地が、死骸で埋め尽くされている。馬も、羊もヤギも、一頭残らず。
ジュルムは平板な声で傍らのジーヤに問う。
「穀物なんかは……」
「全て奪われ、運びきれない分は焼き払ったようです。麦一粒も残っていません」
その言葉に、ジュルムはがっくりと膝をついた。
「助けたのに……選んで助けたのに」
乳飲み子を持つ母親は、最優先だった。しかし、食糧が無くては授乳できない。家畜がいれば、その乳を与えることができるのに。
ナルイチの進撃が速かったのは、糧食の持参を最低限にしたせいだった。帰りの分は、ここから奪ったのだ。
「生き残った者と猛虎団で、出来るだけ蓄肉を加工しますが、この陽気ですから……」
ジーヤは西の空を見上げた。夕日は流された血の色だ。大地を暖めるその温もりは、短時間で肉を腐らせる。
「チクショウ! チクショウ!」
拳を何度も、地面に打ち付ける。身体強化はせずに。すぐに、ジュルムの手は血まみれになった。
……弟を助けて、とあの子は言ったんだ!
そして、死を受け入れた。あんなに幼いのに。
その犠牲が、彼女の最期の願いが、踏みにじられようとしている。
「まわりの集落に頼んで、食糧を集めたら」
「ほとんど集まらないでしょうし、運んでくる間に死者が出るのは覚悟しませんと」
死ぬのは、幼い子供からだ。
そもそも、穀物はこの地では貴重だ。耕作に適さない気候だから、遊牧に頼るのだ。まして、季節は春。僅かな秋の収穫は底を尽き、秋蒔き麦の収穫はずっと先だ。
家畜は命だ。なおさら手放せないだろう。しかも、生きたまま連れてくるなら、歩かせるしかない。一番近い集落からでも、何日もかかる。
「手持ちの食糧を、分け与えよう」
ジュルムは決断した。
「しかし、それでは――」
「飢えぐらいなんだ!」
これ以上、
それから数日。僅かな食糧を怪我人を優先して分け与え、猛虎団の面々は腐りかけた家畜の肉を塩漬けにしたモノをかじり、何とかして食糧を分けてもらおうと東奔西走した。
しかし、ジーヤが予想したとおり、ほとんど集まらなかった。
そして、ついに食糧が尽きた。
母乳が出なければ、乳飲み子はすぐに死ぬ。今までですら、充分に出ていたわけではないのに。
ぐったりとした赤子を抱いた母親が、諦めきった顔でジュルムに訴えた。
「もう十分です。どうか私たちのことはお構い無く……」
「ダメだ」
金黒の髪を振り乱し、拒絶する。
しかし、もう打つ手はない。
一旦回復した者も、ここへ来て体調を崩すものが増えた。治療呪法にしても、飢えそのものを癒すことはできないのだ。
ギョレン老師がつぶやいた。
「麗国からの物資さえ届けは……」
「いつだ?」
その問いかけに、老師は疲れた頭を酷使して計算した。ジュルムと再会してすぐに伝令を出から、早ければもう都に報せは届いてるだろう。しかし、ここまでの距離を考えれば、まっすぐ北上してきたとしても……。
「早ければ十日後に……」
ジュルムは乳飲み子の青白い顔を見た。どう考えても間に合わない。
だが、その時。
「南の方から、大きな隊列が!」
その声にジュルムは幕屋を飛び出した。
焼け残った町の見張り櫓に駆け登り、南の地平線を食い入るように見つめる。
見えた。
若草色に「麗」一字が描かれた旗が。
ジュルムの目から涙がこぼれた。目の前で何人死んでも泣かなかった彼が。
……いったいどんな呪法を
そう思いかけて、激しく
……いや、そんなもんじゃない。ベイオが使うのは、知恵だ。アイツはいつだって、それで全部をひっくり返すんだ。
ここまで先を読んで、窮地を救うべく力を尽くしてくれた親友に、ジュルムは涙した。
……ベイオ。お前はやっぱり、すげえよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます