第73話 上洛

「……解せぬ」


 都へと上る車上で、リウ・シスンは納得がいかずそう呟いた。


 全てをつぎ込んだ決死の追撃戦であったが、残念ながらめざましい戦果とは行かなかった。洋上の荒波に揉まれる自軍の軍船は、平底であるため激しく揺れた。加えて、沿岸から離れた沖合での訓練も不足し、潮流に流されて脱落する船も出る始末。

 それでも、ディーボンの船に数発は命中させた。全くの無傷で取り逃がしたわけではない。

 が、ディーボンの反撃は予想外だった。散発的ではあるが、火縄銃で撃ち返してきたのだ。その一発が不運にも、共に出撃した右水使のイ・オギの命を奪った。そして、シスンもまた右肩に被弾する。出血多量で死を覚悟した彼は、崩れかけた艦隊を何とかまとめ、撤退を命じた。


 薄れ行く意識を叱咤し、混乱に陥りそうな部下たちを激励しつつ、なんとか拠点としていた軍港にたどり着くことができたのだが……。

 桟橋で待ちかまえていたのは、女人。驚くほど長い黒髪の美女が、軍港とは名ばかりのさびれた港で出迎えたのだ。

 身にまとう衣は、色とりどりに染められた薄絹の重ね着。明らかに、麗国女性の装束ではない。

 そして、負けいくさ帰りに向けられるには余りにも場違いな、あでやかな笑顔。

 もはや、大量出血による幻覚だとしか思えなかったのだが……


「わたくしの名はミミガ・ヤノメ。皇帝陛下の勅使として参りました」

 そう言うと彼女は、桟橋から甲板へフワリと飛び移った。その優美な動きに気をとられ、着地の際に船が揺れるどころか、音すらもしなかったことは見逃された。

 そして、女は血に染まったシスンの右肩に手を当てた。暖かい何かが傷口から流れ込み、痛みが引いて行く。

 幻覚ではない証拠に、掻き消えそうだった意識がしっかりとしてきた。


「これは……呪法による癒しか?」

 先ほどまで、刻一刻と衰えるばかりだった体が、にわかに活力に満たされていく。今までにも呪法師による治療は受けたことはあったが、ここまで効果的なものではなかった。

 だがそれにもまして、聞き捨てならぬ言葉があった。


「しかし……皇帝だと? 一体、国王陛下はどうされたのだ?」

 峠が崩れて連絡が途絶してから、ひと月も経っていない。その直前に、国王が都から逃亡したという噂は聞いたが、そもそもディーボン軍が撤退しているのだ。まさか、逃げたままと言う事はあるまい。


「前国王は中つ国に亡命しました」


 まさにその、まさかであったとは。宰相として、あのル・セイロンが補佐していながら。


「では……皇帝とは、いったい誰が?」

 唖然として問いかけるシスンだが、ヤノメと名乗った女はそれには答えず、微笑んで告げるだけだった。


「陛下がお待ちです。ご出立の準備を」

 ヤノメは峠の方へと手をかざした。

 見ると、車を引いてこちらへ誰かがやって来る。


「……獣人?」


 麗国での獣人の身分は低く、賤民扱いだ。しかし、車を引くその姿は、賤民とはとても思えない。

 顔を上げ、こちらをまっすぐに見据えて、胸を張って歩み進んで来る。虎の耳が覗く髪と左右に割れた唇の、壮年の獣人。誇りに満ちたそのありようは、常に身を低くすることを強要される賤民の態度ではなかった。

 そのまま桟橋を渡り、シスンの前で車を止め、獣人は膝をついてこうべを垂れた。

 卑屈になることなく、礼節をわきまえる獣人。あり得ない組み合わせだ。

 その彼の引いてきた車へと、ヤノメはシスンはいざなった。

 そして、台風の被害を免れた営舎のひとつに入り、そこで血まみれの軍服を脱ぎ、与えられた青い朝服に着替える。外に出ると、ヤノメが待ち構えていた。

「では、参りましょう」

 再び獣人の引く車に乗せられ、その隣にヤノメが乗り込むと、車は走り出した。


 ……速い! それに、揺れない。


 獣人の体力は知識としては知っていたが、これほどのものとは。にもかかわらず、揺れの方は驚くほど少ない。街道とは名ばかりの、石ころだらけの田舎道なのに。

 シスンは、傍らで笑みを浮かべるヤノメに問いかけた。

「このような車は、見たことも聞いたこともない。もしや、ディーボンから? それとも、南蛮渡来?」

 謎めいた微笑みのまま、彼女は答えた。

「いいえ、これを作ったのはベイオです」

「ベイオ? 誰だ、その者は?」

「皇帝陛下であらせられます」


 ……皇帝の命令で開発されたと言うのか。ならば、さぞかし優秀な職人を擁しているのだろう。


 ……しかし。

 王族どころか、シスンの知る限りでは、貴族の中にも、ベイオと言う名に心当たりはなかった。

 さして交遊範囲が広いとは言えぬシスンではあったが、国王を玉座から追い落とせるほどの実力がある者となると、それなりの存在感を持つものだ。


 ……一体、何者なのだ。そのベイオとは。


  やがて、車は台風で崩れた峠に差し掛かった。そこでは、多数の男たちが土砂を手押し車に積み上げ、運び去っている。既に、車一台なら余裕で通れる道幅に整地されていた。

 その男たちの半数以上が獣人であることに、シスンは気づいた。奇妙なのは、皆一様に表情が明るいことだ。


「皇帝とやらは、ずいぶんと獣人を寵愛しているようだな」

 多少、皮肉を込めたつもりなのだが、ヤノメはうなずくと答えた。

「はい、陛下は身分で人を判断するようなことはなさいませんから」


 ……身分でないと言うなら、実力が全てか。


 家柄が上と言うだけの上司のもとで、長年不遇に甘んじてきたシスンとしては、ありがたいことではあるのだが。


 ……こたびの戦で、目立った戦功が無いと言うのは、良い材料とは言いがたいか。


 皇帝ベイオとやらに対する危惧が募る。そもそも、こうして急き立てるように都へと召喚されるのは何のためなのか?

 瀕死に近い状態から治癒されたことで、油断していたのかもしれない。


 やがて車は峠を越え、山間の平地を進む。その至るところで目にするのは、台風の爪痕だった。

 シスンが左水軍の根拠地としていた軍港は、複雑に入り組んだリアス式海岸のため、幸いにも台風の直撃は免れた。

 しかし、山ひとつ越えただけで、被害のほどは大きく変わっていた。

 車はやがて、ムジュ郡に入る。先の台風で、大きな被害の出た地域だ。


「おや、あれは?」

 水害で壊滅した村のそばに、見慣れぬ集落が生れていた。ほとんどは天幕だが、板壁で囲われた大きめの建物もあった。

「ファランが被災者のために作らせた、仮の住まいです」

「ファラン?」

 さすがに、その名には聞き覚えがあった。

「ジェ・ファランか? 王弟殿下の公主の……」

「はい、皇后陛下です」


 ……なるほど、そうか。


 ファラン姫はまだ幼かったはず。そのベイオという男は、年端もいかぬ姫を娶ることで皇帝の座に着いたのか。


 ……歴史に前例がないわけではないが。


 シスンは曲がったことが大嫌いで、上官ともめては位をはく奪され、一兵卒に落されたことが何度もあった。そんな彼だから、実力者義と言いながら王族との婚姻を利用する、この新しい皇帝とやらに良い印象を抱くはずもない。


 やがて日が落ち、車は郡守の屋敷に入った。


「今夜はここにお世話になりましょう。旅の疲れを癒してくださいまし」

 車から降りると、ヤノメはそうシスンに告げた。

 郡守自らが二人を出迎え、奥へと案内した。


 客間へと通され、シスンは室内を見回した。土壁の色が変わっているところまで、この屋敷も浸水したのだろう。しかし、床は張り替えられたのか、乾いていて反り返っていもいない。


「ひと月足らずで、よくぞ復旧したものだ」

 腰を降ろすと、思わず感想がこぼれた。

「はい。嵐の収まった直後に、ベイオとファランが救援活動を行いましたので」


 耳を疑った。


「皇帝と皇后が、自らここへ?」

 ありえない。少なくとも、常識で考えるならば。被災地の治安がどれ程悪化するかは、軍人として何度もこの手で鎮圧してきたのだから、知り抜いている。

 ベイオという男は、どれだけ肝が据わっているのやら。シスンの脳裏には、筋肉質な偉丈夫のイメージが浮かび上がった。

 その横にはべらされる、いたいけな幼女。なんとも、憐れみを誘う構図だ。


「はい、陛下はディーボンの部隊を借り受けて――」

「ちょっと待て」

 シスンはヤノメの言葉を遮った。

「皇帝ベイオは、ディーボンと通じているのか?」

 敵国と通じ、戦乱に乗じて王位を簒奪する。歴史をひもとけば、うんざりするほど出てくる事例だ。

 しかし、謹厳実直なシスンから見れば、卑怯な裏切り者でしかない。


 ……皇帝ベイオ、許しがたし。


 敵軍に寝返り、その武力で国王を追い出し、幼き姫を名ばかりの妃とするなど。


 ……となれは、俺は見せしめに処刑されるのだろう。


 それならば、良いだろう。

 直接、謁見できるのは幸いだ。せめて、一矢報いなければ。


 悲壮感溢れる決意を胸に、リウ・シスンが都にたどり着いたのは、三日後の夕刻であった。

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