第116話 旅とインク

 翌朝、アルムは目を覚ました。


「ベイオ、おはようだ……」


 そして、自分一人だと思い出す。

 北都の城であてがわれた部屋は、さすがに子供が一人で寝るには広すぎた。昨夜も寂しくてなかなか寝付けず、布団にくるまって枕を濡らしていた。おかげで目の横がカピカピだ。

 起き上がって部屋を出て、中庭の水盤で顔を洗う。既に日は昇っていて、気温も上がりだしていた。パチン、と両手で頬をはたくと、アルムは朝日に向かってガッツポーズを取った。


「よーし、今日は残りの半分まで走るだ!」


 城では獣人の下女が世話をしてくれた。ベイオが電信で伝えておいたので、アルムを受け入れる準備が整っていたのだ。

 彼女が用意した簡素な朝食を食べ、お弁当を受け取ると、アルムは元気よく北都を駆け抜け東北へと向かう。


 ヤノメたちの住む東北部、ハムギョウ道オラン郡は、北都から約六百キロ。山道を駆け抜けるので、獣人の脚でも途中で一泊となる。上手いこと町や村があればいいが、最悪でも光通信の中継所があれば泊めてもらえる手はずになっている。

 ちなみに、途中に中継所があれば必ず立ち寄るよう、ベイオから言われていた。このおかげで、アルムがどこまで進んだか、逐一ベイオに報告が届くわけだ。


「おっちゃーん! おら、アルムだー!」


 ちょうど、その一つのやぐらの下から見上げて、アルムは手を振って声をかけた。上からは獣人の通信士が見下ろしてきた。


「おう、嬢ちゃん来たな。話は聞いとるぞ。次の中継所は、向こうの尾根だ」


 ヒト族より遠目が効く獣人は、光通信士として非常に有利なので多数採用されていた。なので、同じ獣人のアルムには親しみやすい。

 するすると櫓に上り、アルムは通信士の指さす方向を眺めた。尾根の上に、こことよく似た櫓が立っているのが見えた。


「間には深い谷間があるから、北の方から回っていきな。切り開いたばかりの道だから、迷うことはないだろう」

「ありがとう、おっちゃん!」


 ピョコンとお辞儀をして、ヒョイと櫓から飛び降りると、そのまま走り出す。それを見送る通信士は、アルムのことを次の中継所へ、そして王都へ向けて伝えるのだった。


* * *


「凄いな、もうここまで進んだんだ」


 電信機から出てきた電文を読んで、ベイオは感心した。八百キロの道のりだ。道が整備された今でも、徒歩では三週間はかかる。そこを、既に半分近く来ているのだ。今は二日目の昼頃。明日の夕方には到着するだろう。丸三日、七倍の速度だ。

 小さなアルムだが、疲れを知らぬ脚力は絶大だ。


 もっとも、獣人族の飛脚ならさらに早い。もともと夜目が利くため、昼夜もリレー式に走り続けるので丸一日程度。

 ただ、休憩所となる「駅」の設置が難しいため、東北部まではやはり光通信が頼みの綱だった。


「僕もがんばらないと」


 気を引き締めて、ベイオは印刷機の設計図に向かった。

 活字の量産は既に目途がついた。あとは印刷するために活字をはめ込む、組版のための仕組みだ。土台となる枠、文字間や行間を空けるためのスペーサーとなる細々としたもの。

 こうして組み上がった「版」にインクを塗って、紙を押し付ければ印刷ができる。


「……やっぱり、インクを塗るのは、刷毛よりもローラーの方が機械化しやすいな」


 そう、つぶやいた時だった。


「その『インク』や『ローラー』というのは、やはりお主の前世の記憶とやらかの?」

「うわぁ、びっくりした!」


 背後から突然かかった老師の声に、ベイオは飛び上がった。


「いつの間に研究室に入ってきていたの? 声をかけてよ」

「戸口から声をかけたんじゃが、気づいておらんかったか」


 今朝、ベイオは一番に老師とイロンへ前世の話をした。結果は拍子抜けするくらい、あっさりと納得されてしまった。


「俺も生まれ変わったら、お前のいた世界に行きたいぜ!」


 イロンなどは、機械を走らせ空を飛ばすという「エンジン」なるものに心を奪われてしまったようだ。当代随一のメカオタクだけのことはある。


 閑話休題それはさておき

 ベイオは老師に説明する。


「インクってのは塗料の一種だよ。ここでは、その代わりに膠を多めにした粘り気の多い墨汁を使うつもり」

「なるほど。で、ローラーとは何じゃ?」


 ベイオは描きかけの設計図を指さす。


「この図の丸いやつだよ。円筒に厚手の布を巻くんだ。それを並べた活字の上に転がせば、インクが塗れる」


 刷毛で均一にペンキなどを塗るのは、手首の返しなど結構熟練を要する。一方、ローラーなら前後に動かすだけなので、素人でも簡単だ。

 そして、動きを単純化した方が自動化しやすいのは言うまでもない。


「この辺も、前世の木工の授業で塗料を塗った経験からだよ」

「なるほど、授業か。お主が作った技術学校は、そこが元になっておるんじゃな」


 そう。工業化こそが、この世を苦しめる魔王「貧困」を打ち滅ぼす唯一の手段だ。そのために必要なのが教育。知識の普及。

 だから、印刷・出版が重要になる。


「して、機械化ということは、お主はこの印刷も機械にやらせるつもりなんじゃな?」

「うん。初めのうちは人手でやるけどね」


 それでも、作業が単純化できれば効率も上がるし、誰にでもできるようになれば人員も増やせる。


「しかし、これは……書写業がすたれるのぅ」


 今までの書物は、すべて人が書き写したものだ。これを専門に行う人を、この国では書写業と呼んでいる。

 印刷が普及すれば、確かに書写の需要は激減するだろう。そうした業種の興廃は、工業化の過程で必ず起こるものだ。


「そうした人たちを受け入れる、新たな業種が生まれれば良いわけですよね」


 例えば教師。書写業をしていた人たちなら、読み書きを教える教師への転職は適しているはずだ。

 国民すべてに読み書きと四則演算を習わせる。これは工業化で避けて通れない課題だ。そうでないと激しい格差が生じてしまう。ベイオが建設する工場でも、マニュアルを読んで理解できない人ばかりでは作業にならないから、読み書きは必要だ。


「若い人だけじゃなくて、中高年の人たちも学んで欲しいんです。そうすれば雇えるから」

「なるほど。働く意欲があるもの全員に教育か。確かにこれは、教師がいくらいても足りんな」


 そんな会話を重ねながら、ベイオは設計図の細部を詰めていくのだった。


* * *


 背後の西の空が茜色に染まるころ。

 アルムが最後の峠を越えると、ふもとには草原が広がっていた。その彼方に寄り添うように住宅が固まっている。そこが、ヤノメやボムジンがいる町に違いなかった。


「やっと着いただ~!」


 ピョンピョンとスキップをしながら、山道を下っていく。

 やがて、アルムの鼻が懐かしい匂いを捕えた。


「ボムジンとヤノメの匂い、するだ!」


 さらに町へ近づくと、町の入口にたたずむ人影が見えてきた。大きなのと、小さなのが。


「ボムジンと……誰だ?」


 同時に、嗅いだことの無い匂い。無いんだけど、良く知ってるものに似ているような……。


「おとうや、ジュルムやジーヤに似てる気がするだ……」


 要するに、純血種の匂い、である。

 さらに走り進むと見えてきた。大柄なボムジンと、そのそばにたたずむ小柄な少女。縦長の三角形の耳。

 アルムは二人の前に駆け寄り。


「ボムジン、会いに来ただ!」

「うん、よく来たね。会えてうれしいよ、アルム」


 次に、そのボムジンの服の裾をつかんで引っ付いている、獣人の娘へ。


「おら、アルムだ」


 そう言って、返事を待つ。


「わたし……コニンです」


 純血種のはずなのに、獣人語の名前は無く、ヒト族向けの名前だけだった。

 しかし、アルムはその点に気づかない。


「コニン、だか。仲良くするだ」


 差し出したアルムの手を、コニンはしばらく凝視していた。それでも、意を決したのか、彼女はその手を取って握りしめた。

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ゼロから始める異世界工業化 原幌平晴 @harahoro-hirahare

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