第98話 ナルイチ
その男は、肉を食う。
一度に牛一頭。羊なら二頭を。
その時、彼は人であることを止め、巨大な熊へと
部族の者たちも、直属の部下でさえも、そんな彼に恐怖し、それゆえに従った。
なぜなら、この地では強さこそが正義だからだ。
「族長! 魔獣です! 牛飼いが三人もやられました!」
ナルイチの住むひときわ大きな天幕に、伝令が駆けこんで来た。
返事の代わりに、巨大な熊男は血まみれの口から咆哮を放った。
気圧された伝令は、その場にへたり込み失神する。
食べかけの半裂きになった牛を放り出し、天幕を引き裂いてナルイチは突進した。
……臭う。臭うぞ!
ひとたび魔獣の臭いを嗅ぎつければ、案内も何も必要ない。集落の外れ、放牧から帰る牛の群れの中に、そいつはいた。
その魔獣をベイオが見たならば、
だが、その体躯のサイズは段違いだ。体長は三メートル、肩までの高さは一メートル半あった。その太くて強い前脚の爪も鋭く、まさに今、一頭の牛を引き裂いたところだ。
……おのれ、よくも俺様の肉を!
ナルイチは一声吠えると魔獣に跳びかかった。
* * *
魔獣に殺された牛飼いたちを弔うことを部下たちに命じると、大熊の姿のまま、ナルイチは天幕に戻った。食い散らかされた牛の死骸を担いで。
もちろん、食べるためだ。肉を無駄にする事は許さない。
頭を捻切った魔獣の体は、その場に残した。いつものように部族のものが解体して、毛皮や牙などを取って処分するだろう。牙などは交易品になる。結構良い取引になるはずだ。その上がりは、働き手を殺された家族へ配るよう、命じてある。
そうした配慮で民の忠誠度が上がる位の事は、ナルイチにも分る。そして、忠誠心は強い力となる。
この秋、ナルイチは馬賊……いや、部族の兵を率いて、近隣の集落を襲い、支配下に置いてきた。その中で純血種の娘が生れたことを知り、手に入れると心に決めた。
多くの集落を、町を、力でねじ伏せ、支配をもぎ取った。そして、その地位を受け継がせる子をなすことで、支配を盤石にする必要があった。
自分と同じ、純血種の力を持つ子供を。
そのための娘だ。それ以上の意味は無かった。
娘の居所はすぐにわかったが、娘の養い親である集落の長は、引き渡しを拒絶した。だから、いつものように敵対集落と見做して滅ぼした。それだけだ。
娘を引き渡して恭順すれば良かっただけなのだ。そうすれば、今回のように魔獣が襲ってきても、中つ国がちょっかいを出してきても、蹴散らしてやる。
守ってやるのだ……なのだが。
その脳裏に、あのときの言葉がよみがえる。
……「それで民は豊かになるのか?」だったな。
豊かさとは何か。
この部族の者たちは、今は飢えていない。しかし、異常な寒波や干魃が草原を襲うことは、ままある。家畜が大量に死ねば、次は人の番だ。
それに備えて食料を蓄えることが豊かさか?
それとも、中つ国のやつらのように、町を築いて畑を耕すことがか?
きらびやかな衣をまとい、うまい酒を片手に美女を抱く。そんな暮らしを、誰もが送れることが豊かさか?
考えても、答えは出なかった。確かに、そんなことを考えたことは無かったのだ。
肉の残りを部下に払い下げると、彼は人の姿に戻り衣をまとった。またもやベイオなら、「食べた肉はどこへ行った?」と頭を悩ますところだ。しかし、当然そんなこと誰も気にするはずがない。
天幕から出て口笛を吹くと、愛馬が駆けてくる。ひらりとまたがると、部下が追いすがってきた。
「族長、どちらへ?」
「腹ごなしだ。しばらく空けるぞ」
そして、供も付けずに集落から走り去った。
南へ。山脈の向こうへと。
* * *
町の手前で馬を降り、その尻をパンと軽く叩く。次に口笛を吹くまで、愛馬は野山を駆け巡る自由を満喫するだろう。
ナルイチは徒歩で町に入った。
遊牧民の装束は、左右の裾から腰のあたりまで切れ目がある。馬に乗るときに脚を出すためだ。ベイオの生前の世界で、チャイナドレスと呼ばれた服装の元となった物。
特徴があって目立つし、馬賊の被害を覚えているものはあからさまに警戒する。しかし、厳寒期で人通りが少ないため、大きな騒ぎにはならない。彼が徒歩で、武器も持っていないこともある。
が、仕事帰りのボムジンは、流石に見過ごすわけにいかなかった。
「何しに来た?」
愛用の斧を肩に担ぎ、温厚な普段とは違う、剣呑な雰囲気を巨体から醸し出している。
ナルイチは両手を上に掲げた。この世界でも、万国共通のポーズだ。
「話があってきた。あの獣人の小僧はいるか?」
ニヤリと笑って見せる。
この男なら、その笑顔のままで相手を引き裂いたりしそうだ。そう、ボムジンは確信した。
「ジュルムにか? うちの子に何の用だ」
「戦うつもりはない」
「どうだか」
ボムジンは誰もが認めるお人好しだが、流石に殺されかけた相手までやすやすと信用する気にはなれない。
「ふん、まあいい。向こうから来てくれたようだしな」
ナルイチが振り向いた先では、藪の中からジュルムが立ち上がるところだった。
「話とはなんだ?」
警戒の光を金色の瞳に宿らせて、獣人語でジュルムは問いかけた。
「もうじき、うちの奴等がここへ来る」
対するナルイチは緊張の欠片もない。
それがさらに、ジュルムの警戒心を高めた。
「ここを襲うのか?」
吐き出した息が白く流れる。
「いや、交易だ」
しばし、ジュルムはナルイチの瞳を凝視した。
「……なら、いい」
そう言うと、ジョルムはボムジンに向きなおった。
「ここは大丈夫。コニンを頼む」
うなずいて斧を担ぎ直すと、ボムジンは立ち去った。
「なあ、坊主」
「ジュルムだ。教えただろ」
少なくとも、今は敵意はない。そう理解はしたが、成れあう気にもなれなかった。
ふふん、と鼻をならして、ナルイチは問いかけた。
「ジュルム。お前は言ったな。俺が王になれば民は豊かになれるのか、と」
「ああ」
「お前たちと交易すれば、豊かになれるのか?」
「知らん」
にべもない。
「……おいおい」
あまりのそっけなさに、ナルイチは苦笑いした。
だが、ジュルムは腕組みしてその顔を見上げた。
「その辺を考えてるのはペイオだ」
また、ペイオか。
「じゃあ、そいつに聞くさ。どこにいる?」
「都だ」
「都と言っても広いだろ」
「皇帝だ。探すまでもない」
「それもそうか」
再び苦笑い。
「では、引き上げるとするか」
町の外に向かって口笛を吹く。甲高いその音が野山に響き渡ると、蹄の音が近づいてきた。
「また来るぜ、ジュルム」
愛馬に跨ると、国境の山へと駆け去った。
* * *
数日後、遊牧民の一隊が町を訪れた。
同行していたナルイチは、部族の者たちが町に迎えられるのを見届けると、馬首をめぐらして都へと向かった。
ただ一人で。
彼が獣人族の仲間たちを見限り、山にこもってからどれだけの年月が流れたか。
十年とか百年では足りないだろう。
しかし、山を下りて向かったこの地でも、北の土地でも、何度か攻め入った中つ国でも、何の変化も無かった。
一切、何の変化も無かったのだ。
ヒトも獣人も、ただひたすら、かつてと同じ日々を送っているだけだった。そのように見えた。ディーボンからの侵入があったにもかかわらず。
しかし。その時は見えていなかったところで、小さな変化が芽吹いていたらしい。そして、それらの芽はあちこちで葉を茂らせていた。
……いつの間にか、面白い奴らが出てきていやがったぜ。
獰猛な笑みをその顔に浮かべ、やがてナルイチは都へたどり着くのだった。
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