第22話 涙
泣きはらした目をした自分が悪い。
そう、ファランは自分に言い聞かせた。
それでも、ベイオの話は衝撃的だった。
人頭税に含まれる五歳になる子供が、春になると消えていることがある。
数えで八歳の自分から見れば、弟や妹くらいの年齢だ。実際にはいないけれど、もしいたらどれだけ可愛がることか。直接の血縁は無くても、その年頃の子供は可愛いのに。
いけない。また鼻の奥がツンとしてしまう。
昼でベイオやロン老師と分かれ、自室に引き上げてきた途端、女官たちが殺気立った。
なぜか知らないが、自分が泣いたのはベイオが乱暴をしたからに違いない、と決めつけられかけたのだ。
「違います。わたくしが涙したのは、下民たちの辛く貧しい生活について聞いたからです」
懸命にそう訴え、弁護したが、残念ながら女官たちには通じなかった。
「姫さまのような高貴な身分のお方が、そのような下賤なもののことで心を痛める必要はありません」
女官たちの長であるイスルなど、にべもなかった。
しかし、ファランは納得できない。ベイオはその下賤な身分の一人だ。その彼と机を並べて学ぶ事を望んだのは自分だ。許したのはロン老師だし、命じたのはゾエン、国王直属の監察使だ。
身分で言うなら、中級官吏である緑衣の女官たちより、上の位階である。
それでも、ファランが抗議しても彼女らには通じない。父上からじきじきに、幼い姫のわがままを抑えるように命じられているのだから。
「今日は疲れたので、午睡を取ります」
そう言って部屋着に着替えさせると寝台にあがった。しばらくすると寝息を立て始めたので、そば仕えの女官は一旦下がった。
そこで静かに目を開くと、音を立てぬように寝具の形を整え、人が寝ているように見せかけて部屋を抜け出した。
この離れはかなり大きいが、女官たちは暇なときはその一角に集まってお喋りに興じている。宮城に居た時から変わらぬ習慣だ。なので、その死角を縫って移動するのは慣れている。
人目の少ない北側の廊下を通り、引き戸の隙間から広間を覗く。思った通り、ベイオはそこにいた。文字の書き取りをしながら、老師の歴史に関する講釈に聞き入っている様子だ。
その姿が様になっている。背筋はピンと伸びていて、筆の持ち方も筆運びも洗練されている。今日初めて筆を取ったとは思えない。
それも当然で、ベイオは前世の日本で習字を習っていたのだ。小学生の頃だが、母の友人が書道教室を開いていたので、授業料免除だった。丸六年間だから、今生の彼の人生より長い。
そんなことは知らぬファラン。感心すると同時に、思わず見入ってしまっていた。
やがて書き取りは終わり、ベイオは老師に一礼すると部屋を出て行った。
隣の部屋を覗くと、ベイオは自分の服へ着替える所だった。
……え、あ、ちょっとそんな!
思わぬところで男子の裸体を目撃してしまい、赤面しながらも目が離せない姫さま。逆光なのが酷く残念だ。
着替え終わると、ベイオは脱いだ着物を丁寧に畳んで部屋から出て行った。
……なんなのでしょう。講義の時の話しぶりもそうでしたけど、年下の子には思えませんわ。
彼には、幼い外見に不似合いな落ち着き、思慮深さが感じられる。
自分の部屋着を見る。白い生地なので、一見すると彼の着る下民の服と見分けがつかない。これならいける。
ますますベイオへの興味が増したファランは、彼の後を付けてそっと離れから出るのだった。
屋敷の外は埃っぽく、不潔だった。
狭い路地には所々、汚物すら落ちている。家畜のものだとは思うが。
ベイオは器用にそれらをひょいひょいと避けながら歩く。自分もまねようとするが、なかなか難しい。気が付くと、彼と距離が空いてしまい、見失ってしまった。
ついでに言うと、帰り道を覚える余裕もなかった。
つまり、完全な迷子だ。
しばし途方に暮れていると、背後から野太い男の声がした。
「どうしたお嬢ちゃん」
振り向くと、雲を突くような大男が立っていた。太い角材で作られた、頑丈そうな荷車を引いている。
「ん? ここらで見ない顔だな。もしかして、代官屋敷に来た女官たちの一人か? お使いに出されたか?」
外見や言葉遣いは粗野だが、人は悪くない。
そう見て取ったファランは答えた。
「はい、あの、道に迷ってしまいまして……」
そうかそうか、とうなずくと、男はファランを抱き上げた。
「ひゃ!?」
思わず変な声が出てしまったが、男は気にせず彼女を荷車の荷台に乗せた。
「あとで俺も屋敷に顔を出すから、送ってやるよ。その前にちょっくら用事を済ますんで、乗っててくれ」
そして、荷車を引いて路地を進んで行く。
意外な事の成り行きに、ファランは混乱してしまった。迷子になったと思ったら、知らない男に車に乗せられ、知らない所へ連れて行かれる。
危険を感じて当然の状況なのに、なぜかそうは感じない。
その理由を、彼女はすぐに知ることになった。
「よう、ベイオ」
村の外れの小川のそばに建つ、壁のない奇妙な小屋に向かって、男は声をかけた。
「ボムジンさん、久しぶりだね」
中から出て来たベイオは、荷車に乗せられてるファランに気が付き、目を丸くした。
「姫さま……なんでそんなところに?」
意外な再会にファランも動転していたが、心を落ち着かせて答えた。
「……遊びに来ました」
話が見えないのは、木こりのボムジン一人。
「姫さま? なんだそりゃ?」
いや、もう一人いた。小屋の中からファランを睨んでる、赤毛の獣人娘が。
* * *
……困った。アルムが不機嫌だ。
内心、ベイオは頭を抱えていた。彼に親し気なファランに対して、あからさまなライバル心を燃やしている。
……こんな時に限って、ジョルムは出かけてるし。今度はまた、長い山ごもりだな。
おそらく、冬に備えて食料を採集しているのだろう。
村は作物の取入れが始まっており、もうじき収穫祭だ。
「えーと、なんかすまんな」
微妙な雰囲気を感じ取ったのか、ボムジンが顔を寄せてささやいてきた。
「もしかして、このお嬢ちゃん、お前のコレか?」
立てた小指はこっちでも同じ意味らしい。変なところで、世界をまたいだ人類の共通点を見せつけられた。
「それだから、お母さんに振られちゃうんだよ」
ベイオもなかなか手厳しい。
代官屋敷の離れが完成した時に、ささやかな打ち上げがあった。そこで酌をしてくれたベイオの母に、ボムジンは思い切ってプロポーズしたのだが、結果は玉砕だった。
一晩、泣き上戸で明かした彼だが、翌日には次の仕事を求めて村から去って行った。
報酬の一部として、荷車をもらい受けて。
「その荷車なんだが、ちょっと左の車軸を見てくれんか?」
「いいけど」
ベイオは荷車の下に筵を敷いて、潜り込んだ。
「軸受にひびが入ってるね。交換しないと」
「どのくらいかかる?」
「時間なら一刻だね」
「じゃあ、小ベイオ券一枚だな」
ボムジンは懐から小さな木札を出した。
「それ、なんですの?」
ファランの質問に、彼は答えた。
「これを渡すと、ベイオがものを作ったり直したり、そこのお嬢ちゃんらがものを運んだりしてくれるんだ」
最近では結構、通貨としても使われ出している。日本で言うところの地域振興券のような位置づけだ。
ファランは手に取って木札に見入った。綺麗に磨かれた板に、判で押したような整った文字で「ベイオ 一刻」と書かれていた。表面につやがあるのは何か塗ってあるのだろうか。
その傍らでは、ベイオがてきぱきと仕事をこなしていた。獣人の娘がそれを手伝っている。慣れた手つきで、息もぴったり合っている。
……なんだか羨ましい。
そう思う自分に、驚いている。身体を動かして働くことに憧れるなんて。
労働は卑しい身分の者が行なうことで、高貴な身は高尚な学問や文化に勤しみ徳を積むべき。そう教わって来た。
あちらの世界の中国の格言だが、この国にも似た言葉がある。世を治めるなら優れた人材を得なくてはならず、それには人徳が必要だ、という意味だ。
今朝、ロン老師がベイオに投げかけた質問は、徳を積むための学問の形骸化と、政治の腐敗を憂いてのものだ。少なくとも、普段の教えからファランにはそう取れた。
しかし、ベイオは全く違う視点から物事を見ている。
彼は働くことを、手ずからものを作り出し、直すことを、心の底から楽しんでいる。愛している、と言ってもいいだろう。
……なんて生き生きとしているのかしら。ベイオも、彼がアルムと呼ぶあの娘も。
なぜか急に、胸が苦しく感じた。
すぐ目の前の二人が、なぜか凄く遠くに感じたのだ。
それが、切ない。
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