第3話
白雪桜と言う女子生徒の事は、入学当時から知っていた。入試の成績でトップを収め、当然のように新入生代表として入学式の挨拶を務める。一見してどこか儚げな印象を持たせながらも、力強い意思のこもった声と言葉で蘆屋高校にその存在を知らしめた。恐らく、校内の全生徒が彼女のことを知っているだろう。
そんな彼女と知り合ったのは、一年の三学期の頃だった。
彼女はたった一度だけ、定期考査の順位、その一位を逃したことがある。人伝に聞いた話では、それを知った時の彼女は随分と間抜けな顔をしていたらしい。今でこそ、その面を拝んでやりたいと思うが、当時の僕はそれどころではなかった。
なんの間違いか、彼女をトップの座から引きずり下ろしたのは、夏目智樹。他の誰でもない僕自身だったのだから。
白雪もどこからかその事を知ったのだろう。定期考査が終了して、その時の成績表が配られてから三日もしないうちに、彼女は僕の前に現れた。
『気に食わないわね』
まだ文芸部に入る前で、一人で帰ろうと思っていた矢先、突然目の前に現れた美少女にそう言われたのだ。
彼女が僕のなにを指して気に食わないと言ったのか。それは理解出来た。この頃の僕は、高校に入学して半年以上経つと言うのに、中学の頃に起きたとある出来事を引きずっていた。三枝曰く、空っぽだったそうだ。その自覚は当時の僕にもあったし、だからこそ、それを埋めるべく色々なことをやっていた。その一環で一度ちゃんとテスト勉強をしてから定期考査に挑んだのが運の尽きだったわけだが。
それから数ヶ月の間、僕が下校する時、殆ど毎日彼女は現れた。白雪本人は、自分を差し置いて一位になったやつに興味がある、みたいなことを言っていたが。果たしてそれがどこまで本気なのかは分からない。
まあ、その後の学年末考査でいつも通り二位に落ち着いたことも、彼女に付きまとわれている原因の一つではあると思うが。
「どうしたの夏目君? なんだか心ここに在らずだけど」
「ああ、神楽坂先輩。ちょっと前のこと思い出してただけですよ」
降ってきた柔らかい声音に、意識を現実へと引き戻される。今は放課後の部活中。僕に声をかけてくれた神楽坂先輩は心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「そっか。なにかあったら相談してね。後輩に相談されるの、夢だったから!」
「はい、ありがとうございます」
ニコリと可愛らしい笑顔を浮かべるその様を見ていると、なるほど確かに、三枝が恋に落ちるのも理解出来ないでもない。なんというか、こう、癒しの波動みたいなのが出てる。
ただ、そんな可愛らしい先輩に心配をかけるのも心苦しいと言うものだ。一つ伸びをしてから、僕は目の前のパソコンと再び向き合った。
「進捗はどう?」
「悪くはないかと。少なくとも、文化祭には余裕で間に合いますよ」
「そっか。なら良かったよ」
僕が今パソコンに打ち込んでいるのは、六月の末に開催される、我が校の文化祭に出品する小説だ。
文芸部の主な活動は小説やエッセイなどの作成である。主に一年、二年が作成、三年が受験勉強の片手間にその編集を担ってくれる。文化祭は文芸部の作品が日の目を浴びる、唯一の機会らしい。こちらは件の罰ゲームと違って、正しくこの部の伝統なのだろう。
今年は僕が小説を、三枝がエッセイを書くことになっている。神楽坂先輩も去年一昨年は作品をいくつか仕上げたらしく、部室に残してあるそれをつい先日拝見させてもらった。
「それにしても、三枝君遅いね」
「ああ見えて優柔不断なところがあるやつですから。題材にする本をなににするか、まだ悩んでるんじゃないですか?」
三枝はエッセイを書く上で題材となる本を探しに、図書室へ向かった。あいつはどちらかと言うと理系よりの人間なのだけど、どうやら神楽坂先輩に良いところを見せたいらしく、えらく気合が入っている。
さて、一方の僕も人の心配をしている場合ではない。なにせ物語を創ると言うのは、今回が初めての体験だ。本はよく読む方だと思うし、三枝と違って文系な僕は文章を書くと言うことも苦手ではない。ただ、創作となれば話は違ってくる。
小論文は受験の時に書いた経験があれど、小説を書くなんてのはやったことがない。先日終了したプロット作りでも、神楽坂先輩に何度も助けてもらった。
そして今現在僕が躓いているのは、書き出し。うまい書き出しが思い浮かばない。
つまり、原稿は未だ真っ白と言うことである。
神楽坂先輩に進捗状況を尋ねられた時、素直に助けを求めれば良かったか。しかし勉強の手を止めてまでのことではないと思うし、これ以上神楽坂先輩の手を煩わせるわけにはいかないだろう。
なんとか捻り出した一文を打ち込んでは消してを何度か繰り返していると、部室の扉が開く音がした。漸く三枝が帰ってきたのかと思い顔を上げると、そこには苦笑する親友の姿が。
「あっ、三枝君おかえり!」
「ただいまです、先輩。あー、それと智樹、すまん」
「ん? どうした三枝。君が僕に謝るなんて珍しいじゃないか。ついに今までの僕に対する数多くの酷い仕打ちについて──」
「へぇ、ここが文芸部なの。悪いところじゃないわね」
聞こえるはずのない声がした。居るはずのないやつの影を見た。
身長の高い三枝の背後から黒いカーテンが揺れて見える。まさかと思うがそのまさか。ピョコリと顔を覗かせたのは誰あろう、我がクラスの図書委員、白雪桜であった。
「······おい、どうして彼女がここにいる」
「そう睨むなよ親友。文芸部に用があるってんでお姫様をエスコートしただけだ」
肩を竦める三枝は取り敢えず無視するとして、視線を白雪の方に移した。彼女は物珍しそうに、部室の本棚を物色している。ここにライトノベルは一つも置かれていないのだが、どうやらそれ以外の本にも興味はあるようで。
「で、君は何をしに来たんだ?」
白雪が文芸部の部室に来訪する理由は、誠に遺憾ながら僕にあるのだろう。彼女と神楽坂先輩がそこまで仲が良いとは聞いたことがないし、三枝は言わずもがな。
僕が尋ねると白雪は露骨に不機嫌そうな顔になる。なんでだよ。
「あなた、昼休みに私が伝えたことをもう忘れたの? もしかして三つ以上のことを同時に覚えるのが出来ないのかしら」
「あー······」
言われて思い出した。今日の昼休み、白雪に図書室へと呼び出されて、文芸部名義で借りてる本を返せと言われたのだったか。完全に頭から抜け落ちていたので、彼女の毒舌に返す言葉もない。
「悪い、忘れてたよ」
「この私に足を運ばせておいて出てくる言葉がそれだけ? もっと無様に見っともなく言い訳をしていいのよ?」
「言い訳をしたところで君は許してくれないだろう。どうせその全てを完全論破されて僕が泣きを見るに決まってる」
「よく分かってるじゃない。偉いわね。褒めてあげる」
「褒めてくれるならもう少し相手が喜ぶ言い方をしてくれ」
「つまり、もう少し汚物を見るような目をしたらいいのね。努力が足りなくてごめんなさい」
「誰がドMだっ!」
思わず大きな声で突っ込んでしまった。僕は断じてドMではないのだ。女の子からそんな目で見られた日には、ガラス細工のように繊細な僕のハートは粉々に砕け散るだろう。
僕とのやりとりに一通り満足したのか、白雪は再び部室の本棚に目を向ける。
文芸部の部室はそう広いわけではない。10畳ほどの間取りに本棚を敷き詰め、長机を二つくっ付けている。それ故にそれなりの圧迫感はあるものの、それで居心地が悪いわけでもない。
ただ流石に、普段いないやつ、それもどちらかと言うと苦手なやつがこの場にいると、多少なりとも違和感と言うものは感じてしまう。
「あった。これね」
白雪は本棚の一角からごっそりと本を取り、それを長机の上に置く。その数十二12冊。見ればその全てに図書室の本である証のシールが貼られていた。
「あっ、ごめんなさい白雪さん。借りてた本、返すの忘れてたね」
「いえ、問題ありません。紛失していたわけでもなく、こうして回収出来ていますから」
おい。白雪おい。どうして神楽坂先輩にはそんな丁寧な言葉遣いが出来るんだ。それをもう少し僕に向けようとは思わないのか。
まあ、彼女にも先輩を敬う心くらいはあると言うことなのだろう。そんな白雪の姿にある種の感心を抱いていると、唐突に神楽坂先輩が声を上げた。
「そうだっ。夏目くん、この本を運ぶの手伝ってあげて?」
「えっ。いやこれ元はと言えば先輩が借りて来たんですよね?」
「なんだ智樹、神楽坂先輩の頼みを断るのか?」
三枝がムカつくようなニヤケヅラをして言う。神楽坂先輩と三枝の意図はなんとなく察しがつく。罰ゲームの件があるから、ちょっとでもポイント稼ぎして来いとか、まあそんな所だろう。しかし僕にはここを離れるわけにはいかない理由があるのだ。
「いや、僕は原稿を仕上げないとダメなんで······」
「さっきから真っ白のままのなんだから、気分転換も兼ねて、ね?」
バレテーラ。
「はぁ······。分かりました。じゃあちょっと行ってきます」
「うんっ。お願いね夏目くん!」
まあ、僕が部室を出ることで三枝と先輩の二人きりと言う状況を作り上げることが出来るのだ。親友の淡い恋心を応援している身としては、少しお節介するつもりでいようではないか。
「夏目はこっちをお願い。軽い方は私が持つわ」
「そこは重い方じゃないのか」
「か弱い乙女に重い荷物を持たせるつもり?」
「か弱い乙女?」
軽口を叩き合いながらも、積み上げられた8冊の本を持ち上げて、二人で部室を出る。心の中で三枝にエールを送っておこう。
第三校舎二階の部室から図書室まではそれなりに距離がある。そんな中、女子にこの重い本を持って歩かせるのは、酷と言うものだろう。
グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえてくる。中でも野球部の声や金属音は、嫌でも耳に響いてしまう。
「あなた、なにか書いてるの?」
「ん?」
第三校舎を出たあたりで、白雪が口を開いた。
「さっき、神楽坂先輩と原稿がどうやらと言っていたじゃない」
「ああ、そのことか。文化祭に出品する小説だよ。最も、先輩が言っていた通り、まだ一文字も書けてないんだけど」
白雪がそこに関心を持つとは意外だった。本好きなのは知っていたが、僕のような素人が書くものにも興味があるのだろうか。
「それも、本気で取り組んでるわけではないの?」
「真剣には取り組んでいるさ。ただ、本気で頭を悩ませようとは思っていない」
「なにが違うのよ、それ」
「さあな。僕にも分からないさ」
話しながら、おかしなことに気づいた。先程から白雪が、チラチラと後ろを気にしているのだ。誰かいるのかと思い振り返ってみるも、誰もいない。
「なあ、さっきから後ろを気にしてるみたいだけど、どうしたんだ?」
「あなたには関係ないわ」
「後ろ、誰もいないけど」
「気にしないで頂戴」
「と言われてもな」
「それよりも」
その話題はあまり広げたくないのだろう。白雪は無理矢理話を切る。まあ、彼女が気にするなと言うのであれば気にしないことにしよう。詮索するとモテない、と昼休みに言われたばかりだ。
背後を気にしなくなった代わりに、白雪は僕を見つめてくる。透き通った綺麗な瞳は、まるでこの青空をそこに写しているかのようで。
「私、あなたが本気で書いた小説を読んでみたいわ」
艶やかな桜色の唇からは、そんな言葉が発せられた。笑みを形作ったその顔は、どうしてか、これまで見てきた笑顔とは別種のものに見えてしまう。
白雪姫と言う仇名に似つかわしくない、花のような笑み。そう言えば下の名前は桜だったか。なんて考えがよぎる。
このタイミングでそんな表情を浮かべていることに疑問は湧き上がるが、しかし僕の心に叩きつけられる彼女の魅力がそれを上回る。
「期待に添えられるようにはしてみるよ」
「ええ」
美人ってのは本当に卑怯だ。ただの言葉、ただの微笑み。それを聞かされ見せられただけで、その気にさせてしまうのだから。
ちょっとくらい、本気で頑張ってみるか。
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