第10話

 女性のお手洗いは長い。僕は男だから、それがどうしてだとかは分からないけれど、女性には女性の事情とやらがあるのだろう。だからそれを咎めるつもりなんて毛頭ないし、待ってやるのも男の甲斐性なんだろうな、なんて適当なことを考えていたりする。

 しかし白雪にそれは当て嵌まらないのか、彼女は1分も経たずにトイレから出て来た。


「なんだ、随分早かったじゃないか」


 まさかさっきの独り言を聞かれてはいないだろうかと内心とてもビビっているのだが、どうにかして表面上は取り繕って声をかけた。

 白雪は何故か仏頂面をしている。どうやら聞かれていなかったようで一安心だけど、これでは白雪姫じゃなくて雪の女王だ。お城作りそう。


「場所を変えるわ」

「そりゃまたなんで。別にどこでも変わらないだろう?」

「汚すぎるのよ!」


 あぁ、うん。まぁ......。

 そんな魂からの叫びに、僕は苦笑いしか返せない。そもそも、ここが周囲の死角になっていて、ストーカー男が行動に移したのも、このトイレが汚すぎて誰も近寄らないからだ。怪談話の一つや二つ出来ていそうなくらいに。

 男性は気にしないかもしれないが、年頃の女の子である白雪にここを使えと言うのは、少々酷な話ではあったか。


「一番綺麗な場所はどこ」

「球場か陸上競技場のとこだと思うぜ」

「なら球場の方に行きましょう」

「え、いや、陸上競技場の方で良くないか?」

「ダメよ」


 キッと睨まれた。これは少しミスったかもしれない。今球場の方に行けば、絶対にあの後輩二人とかち合ってしまう。それはなんとしても避けたい。なにより、野球の試合そのものを見ることを、心が拒んでいる。

 しかしそんな僕の思いを白雪が汲み取ってくれるはずもなく、彼女は球場へと足を向ける。一緒に行動する必要性はないのだが、あんなことがあった後だ。出来る限り一人にはさせたくない。

 先を行く白雪を急いで追って、その隣を歩く。球場のトイレは球場本部の方に設置されているので、バックスクリーン側にある文芸部のスペースや記念公園のトイレからはグルリと回り込まないといけない。


「どうして、そうまでして頑なに観に行こうとしないの?」


 球場へ向かうには、バザー会場から一度離れなければならない。だから周囲の喧騒もない道の上では、彼女の綺麗な声はしっかりと耳に届いた。


「あの後輩二人と顔を合わせづらいから?」

「違う」

「ならどうして?」


 純粋な疑問なのだろう。その声になにかを企んだような色は見えない。だからこそ、返答に困る。何か意図があっての質問であれば、僕も適当にはぐらかしていたはずだ。けれど、そんな聞き方をされてしまっては、そうしようなんて思えない。

 彼女は僕を知っていた。

 テレビの向こうにいつもいた父から知恵と技術の全てを教えてもらい、僕が産まれてからずっと家にいた母に見守られていた頃の僕を、白雪桜は知っていたのだ。

 そして、今ここにいる、あの頃の僕の残りカスのような存在のことまで知っている。

 だから、はぐらかす事は出来ない。


 理由になり得ていないかもしれないけれど、それが僕の脳が出した結論だ。そこに誰かの理解は求めない。でも、言葉は喉でつっかえてしまって出てこようとしてくれない。

 彼女に告げるのが怖いのか。

 それはどうしてだろう。

 失望されるかもしれないから?

 裏切ってしまうかもしれないから?

 分からない。最早、どうしてそんな思考回路になっているのかすらも。


「答えたくないなら、無理には聞かないわ」


 いつの間にか目的地に辿り着いていたらしい。白雪は足を止めて、変わらぬ無表情で僕を見る。その美しい顔は、ともすれば睨んでいるようにも見えてしまう。


「夏目には夏目の理由があるんでしょう。誰にだって、言いたくないことや言えないことはある。私があなたにストーカーのことを話さなかったようにね」

「白雪······」

「お手洗い、行ってくるから。ちゃんとそこで待ってなさいよ」


 釘を刺されるまでもない。球場本部へと入って行く白雪を見送って、すぐ近くにあったベンチに腰掛けた。漸く腰を落ち着かせることが出来ると、思考にも余裕が生まれてくる。

 あれ以上詮索しないでくれたのは、正直ありがたかった。なにせ自分でも理解不能な思考やら感情やらに行き当たるのだ。なんだかモヤモヤしたものを抱え込んでしまったような気もするが、それを無理に解明しようとも思わない。

 ふと球場に視線を向ける。ここからグラウンドの様子はちゃんと見えるわけではない。精々見えるのは応援席くらいのもので、そこに蘆屋高校の制服を発見した。とすると、今はうちの高校の試合をしているのか。さっき文芸部のスペースにいた時の歓声やバットの金属音は、どちらのチームのものなのだろう。

 どちらであっても、僕には関係ないが。なにより、試合中だと言うなら、あの二人と遭遇してしまう可能性も


「夏目先輩?」


 無きにしも非ず、のようだ。

 声が聞こえた先を見れば、そこにはジャージ姿の後輩がいた。三年前には何度も見ていた格好だ。ご丁寧に、あの頃と同じジャージまで着ている始末。


「来て、くれたんですね······」


 半ば驚きを含んだ声音で、小泉綾子は呟いた。観に来てくれと言った彼女自身も、僕がこうして現れるのは信じていなかったようだ。


「別に試合を観に来たわけじゃない。そこでバザーをやってるだろ。文芸部でそれに参加しているだけさ」

「そうですか······」


 小泉の後ろをちらりと見てみるも、樋山の姿は見受けられない。やはり、今は試合中で、樋山は一年生にしてベンチ入りすることが叶ったのだろう。小泉はあくまでもマネージャーだから、ベンチには入れてくれなかったか。


「修二なら、今頃素振りでもしてるんじゃないですか? さっき、ベンチの中で監督から声を掛けられてるの見ましたから」

「そいつは良かったじゃないか」

「試合、観ないんですか?」

「観ないよ。そのつもりで来たわけじゃないって言っただろう」

「怖いから、ですよね」

「······っ」


 全く、この後輩は。どうしてそこまで分かってしまうのか。そしてどうしてそれを、僕に突きつけて来るのか。


「だから今も、野球から逃げ続けてるんですよね」

「······」

「なんとか言ったらどうなんですか」


 違う。逃げてるわけじゃない。そう思ってもやっぱり言葉は出なくて。小泉は僕の座ってるベンチまで近づき、怒りとも悲しみともとれない目で睨んで来る。

 最近はどうにも、女子から睨まれることが多い。罰ゲームが決まった日には神楽坂先輩に、殆ど毎日のように白雪に、そして先日の自販機前と今日この場で小泉に。

 ここは追い返すのが吉だろう。これ以上追及されたくないし、小泉自身も仕事は何かあるはずだ。あまり言いたくはないが、突き放したような冷たい言葉で。すぅ、と小さく息を吸って、心持ち鋭い視線で小泉を睨み返し。


「邪魔よ」


 しかし言葉を放ったのは、僕ではなかった。

 球場本部の建屋から戻ってきた白雪は、自分よりも身長の低い小泉を威圧的に見下ろす。まさかの闖入者に驚いているのか、小柄な後輩は一歩も動けないどころか一言も発さない。ただ、驚きに目を丸めているだけだ。


「聞こえなかった? 邪魔だって言ってるんだけど。それとも、そこにいる私のボディーガードに何か用でもあるのかしら」


 誰が君のボディーガードだ。


「白雪桜先輩、ですよね······。どうして夏目先輩と······」

「あなたには関係ないことね。そうやって無遠慮に他人に踏み込んで楽しい? さっき夏目にも色々言っていたようだけど、それが迷惑なことだとどうして分からないのかしら。底が知れるわね」


 白雪は僕に色々と聞いてきたりはしたけれど、それでも無理に答えを吐かせようとはしなかった。対して小泉は、こちらに答えを強要してくる。どちらが迷惑なのかは一目瞭然。しかしなにも、小泉が悪いわけではない。この後輩をそうまでさせているのは、他の誰でもない僕自身だ。


「白雪。もういい」


 その自覚があるなら、小泉を責めてはいけない。責めさせてはいけない。糾弾されるべきは僕であり、僕を裁くべき権利を小泉は有している。


「もういいから、戻ろう」


 まだなにか言いたげな雰囲気ではあったが、僕の言葉には従ってくれた。白雪を伴ってバザー会場に戻ろうと小泉に背を向けた時、ジャージ姿の小さな後輩はこう呟いた。


「なるほど。どこかで見たことがあると思ったら、そういう事ですか」


 その呟きに反応したのか、一歩踏み出そうとしていた白雪の足が止まる。数歩後ろの彼女を見てみれば、そこに浮かんでいるのは無表情。しかしどうやら小泉にとっては、たったそれだけの反応でも満足なようで、気になって視線を移した先の後輩は、ニンマリと笑顔を浮かべていた。


「白雪先輩。以前どこかでお会いしたことありましたか?」

「下手なナンパかなにかかしら。それならもう少し気の利いた口説き文句でも考えて来なさい、おチビさん。行きましょう、夏目」

「あ、ああ······」


 誰がチビですかー!! と言う怒りの叫びを背に受けながら、僕と白雪はバザー会場へと戻って行く。小泉の呟きの意味、そしてその小さな後輩は白雪姫と会ったことがあると言うことの真偽。

 聞きたいことはあるけれど、隣を歩く白雪の冷たい無表情を見ていると、どうにも聞く気にはなれなかった。

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