第9話
人混みを掻き分けながら走る。最近、体育の授業以外で全く運動していなかったのが祟ったか、思った以上に速度が出ない。 バザーの参加者達の合間を縫って、時に人とぶつかりながらも足を動かしているのだから、なおのこと前に進まず、気持ちだけが先走る。
今日彼女を誘ったのは僕だ。
白雪が本当にストーカー被害に遭っているのか確かめようとした。あわよくば、相手の顔を見れたらいいとも思った。
迂闊と言わざるを得ないだろう。少しでもその可能性を疑っていたのであれば、白雪を外に出すべきではなかったのだ。あの時に掛けるべき言葉は、家の中でジッとしておけとか、そう言ったものが良かったはず。
けれど、過去のことを悔いても意味はない。それは身を持って知っている。ならば今なにをするべきなのか。
あの時のように諦める?
違う。諦めていいはずがない。だってこれは僕自身の話ではなくて、白雪桜の話なのだから。まだ、取り返しがつくのだから。ならばやはり走るしかない。
女性用トイレに続く道へと出た。息が整うのも待たず、前方を確認。手を膝につけている場合ではない。
視線の先にはここ数ヶ月で見慣れた黒い髪が。そしてその背後には、先程見たキャップ帽の男が。僕もその男の後ろに立っているので、マスクはおろか顔も見えないけれど。
白雪の歩き方はどこかぎこちないものに見える。恐らく、背後まで差し迫っている追跡者に気づいて恐怖しているのだろう。
未だ息は荒いまま。今朝、グローブに触れようとした時と同じくらいには。それでも構わず、肺に残った酸素を全て吐き出す勢いで、叫んだ。
「白雪!!!」
「······っ!」
「なつ、め······」
男が肩を震わせて驚く。その奥にいる白雪はこちらに振り返り、今にも泣きそうな目を向けてきた。
途端、胸の奥に激情が沸き起こるのを自覚する。だが意外にも、頭の中はクールだ。マウンドの上に立った時と、どこか似ていた。
僕の声は背後の人混みに届いていないのか、はたまた喧騒に掻き消されたのか、誰一人としてこちらに気づいた様子はない。
長く息を吐き、ここで漸く息を整えることが出来た。大股で近づくと、男はキャップ帽を目深く被り直し、焦ってここから逃げ出そうとする。
「待てよ」
僕の隣を急ぎ足で去ろうとするそいつの腕を掴んだ。勢い余って足を縺れさせ、体勢を崩した男の腕をグッと引き寄せて、逆の手で胸倉を掴み上げる。
マスクと帽子を乱暴に外すことでその顔が露わになるが、僕には見覚えのない顔だ。歳が近いと言うことくらいしか分からない。そこそこ整った容姿をしているのだろうが、今はそれが恐怖に歪められている。
「だ、誰だよお前······」
ワナワナと震える唇から漏れたのは、そんな情けない声。大方、白雪に振られた哀れな男の一人なのだろう。例の罰ゲームのせいで、いつかの僕もそこに名を連ねるのだと思えば、こんな状況でも自然と漏れてしまう笑み。
それを嘲笑と受け取ったのか、男が叫ぶ。
「お前、白雪さんのなんなんだよっ!!」
「黙れ」
「ひっ······」
選ぶべき言葉はシンプルに。ただし、こいつに最大限の恐怖を植え付けるように。そこに自身の激情全てを乗せて。
「二度と彼女に近づくな。彼女は、僕のだ」
突き飛ばすように胸倉から手を離すと、男は無様にも尻餅をついて倒れる。そして情けない声を出して、這いずるようにしてこの場から逃げて行った。
一発くらい殴っておけば良かったかと思うも、男は既に人混みの中。そんな事よりも優先すべきことがある。
以前何かあった時のためにと連絡先を交換していた中岸さんに、解決の旨と改めて謝罪をメールで伝えた後、未だ呆然と立ち尽くす白雪に近づいた。
「大丈夫か?」
「え、ええ。それより、あなたどうしてここに······」
「中岸さんが、さっきの男を見つけてくれたんだよ。君が席を立って歩いて行くその後ろに、怪しい奴がいる、ってね」
「そう、だったの······」
「後でお礼はしといた方がいいぜ」
「分かってるわ」
白雪の体はまだ少し震えている。それも当たり前か。場所は周囲の死角。そして迫って来るストーカー。なにをされるのか分からない恐怖に耐えろと言われても、無理な話だろう。
震える自分の体を抱く白雪に、いつもの強気で高圧的な態度は見えない。彼女だって普通の女の子なのだと、当たり前の事実を改めて見せつけられている。
「悪かった」
そんな姿を見せられていると、謝らない訳にはいかなかった。腰を折って謝罪する僕に、しかし白雪はそれを疑問に思ったようで首を傾げる。
「どうして、あなたが謝るの?」
「君が口でなんと言っていても、実際ストーカーされているのはある程度察せられた。だって言うのに君を誘ったから」
誰のせいで彼女がこんな怖い目にあったのかと問われると、それはあのストーカー男のせいだろう。しかし状況を作ってしまったのは、紛れもなく僕だ。
そう言う意味での謝罪だったのだが、白雪からはなにも返事がない。やはり怒っているだろうかと思ったのも束の間、はあ、と呆れたようなため息が聞こえた。
「頭をあげなさい。寧ろあなた程度に頭を下げられるなんて、逆に不愉快だわ」
酷い罵倒だった。けれどそれを聞いて、どこか安心する自分もいる。彼女がいつもの調子に戻ってくれたんだと安堵できる。
言われた通りに頭を上げると、白雪は体の震えも止めていて、本当に呆れたような顔をしていた。
「私が謝ることはあれど、あなたが謝ることはないのよ?」
「いやでも」
「最初から、あなたに正直に言っていれば良かったのよ。この前指摘された時に。でもそれをしなかったのは私。一人でどうにかしなきゃって思ってたから」
一人でなんて、解決できるわけがない。ただの女子高生が、全くの未知と言う恐怖を相手に立ち向かうなんて。そんな事が出来るのは、彼女の好きなライトノベルの世界だけだ。
「だから、ごめんなさい。それと、ありがとう。お陰で助かったわ」
言葉こそ殊勝なものだが、その態度はいつも通りの白雪で。本当に感謝してるんだか分からないような言い方だ。だからこそ、僕もそれを正面から受け取ることはせず、いつものようにこう返した。
「君が僕に謝るなんて、明日は雪でも降るのか? しかも二度目のお礼とまで来た。もし僕の身に不幸なことが降りかかれば、それは君のせいだぜ」
「あらそう。なら精々夜道には気をつけなさい。後ろから刺すから」
「君が刺すのかよ」
「と言うよりも」
「ん?」
なんだか体をモジモジとさせている白雪。何か言いにくい事でもあるのだろうか。
「その、そろそろ本当にお手洗いに行かせてもらっても、構わないかしら?」
ポッと頬を赤らめて、とても恥ずかしそうにそう言った。そう言えば、彼女はお手洗いに行くと言ってたか。まあ、ここトイレの前だし。て言うかそれって僕の許可取らなくてもいいだろ。
「ダメって言ったら?」
「あなたを殺してトイレに行くわ」
「そこは私も死ぬわ、じゃないのかよ······」
結局僕の言葉なんて関係なかったようで、白雪はスタスタとトイレに向かった。
ふぅ、と息を吐き出す。どっと疲れが押し寄せて来た。ここまで走って来たのも、ストーカーに凄んだのも、体とか心とかに色々鞭を打ちすぎた。トイレの壁に背を預けようと思ったが、あまりにも汚いのでやめる。
こんな時コーヒーでもあれば格好がつくんだろうが、生憎と今は手元にない。
ふと、右の掌を見つめてみた。さっきストーカー男の胸倉を思いっきり掴み上げた手だ。
「『ボールを投げられなくなった彼の右手は、けれど大切なものを守ることが出来たのだった』 なんてな······」
あまりにもキザったらしいフレーズだ。僕じゃなくても、小説に使おうとは思わない。けれど実際、もう二度と役に立たないと思っていた右手は、存外に役に立ってくれた。
「握力鍛えといて助かったな」
自慢のフォークボールはもう投げられないけれど。どうせ落とすなら、ボールじゃなくて彼女の心を落とす方が、今の僕には優先されるのだろう。
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