第58話
合宿二日目は、実に合宿らしかったと言えた。午前中は殆どの時間を客間に集まっての執筆に割り当てられ、お陰で二万文字は書けただろうか。そこには昨日と同じように、小梅ちゃんのピアノによるBGMがあって。
けれど白雪は、いつもの無表情で執筆を行なっていた。そこになんらおかしな様子など見せず。本当に、いつも通り。今朝の会話なんてなかったかの様に振る舞い、僕や三枝に遠慮なく毒を吐いて、神楽坂先輩や小梅ちゃんと笑い合う。
いつも通りの白雪に、いつも通りの文芸部。
だからこそ。そこに微かな違和感を感じてしまう。歪な『いつも通り』が見えてしまう。
その違和感と正体を掴めぬままに時間だけが過ぎて行く。
午後からは山で虫取りをしようと神楽坂先輩がはしゃいでいたけど、残念ながら外は雨が降っていて、屋敷の中で自由時間を過ごすこととなってしまった。
雨の日はどことなく憂鬱な気分になってしまって、思考も進まない。部屋のベッドに仰向けで寝転がり、天井を見つめる。
どうして僕は、白雪一人のことでこんなにも頭を悩ませているのか。簡単だ。僕が彼女を好きだから。
なら、そんな白雪に対して、僕は何ができるのか。
今、白雪は、なにを思い、なにを感じているのか。
つい昨日まではそれらを漸く理解出来てきたと言うのに、今ではなにも分からない。
何故だか急に、彼女との距離がとてつもなく開いてしまったような気がする。
思い浮かんでくるのは考えても仕方のないことばかりだ。ネガティブな思考に囚われて、そのせいで気分がより沈んでしまう。どうして夏休み、それも合宿に来てまで、こんなことを考えなければならないのか。
はぁ、とため息を漏らすと同時、部屋の扉がコンコンとノックされた。返事を待つまでもなく部屋に入って来たのは、神楽坂先輩だ。
「お邪魔しまーす」
「先輩? どうかしたんですか? ここに三枝はいませんけど」
「あはは、秋斗君は今下で他のみんなとウノしてるよ」
「そうなんですか」
待ってなにそれ僕呼ばれてないんだけど。
「今、ちょっといいかな?」
「まあ、大丈夫ですけど」
ベッドから立ち上がり、机の椅子を引いてそこに座る。先輩はソファの上に腰を下ろした。
そこに座っているだけで、なんだか先程までの鬱屈とした思考が吹き飛んでしまう。流石は神楽坂先輩。その癒しオーラは三枝と付き合ってもなお健在のようだ。
本当、三枝には勿体ない人だと改めて思う。
「それで、どうしたんですか?」
「うん、ちょっと夏目君に聞きたいことがあって」
はて、神楽坂先輩が僕に聞きたいこととは。部誌のことだろうか。それくらいしか思い浮かばないのだけど。
もしくは三枝のことについてとか? うん、この可能性も十分考えられるな。一応僕は、あのバカの親友をやらせてもらってるわけだし。先輩と三枝は付き合い始めたばかりだ。それに、昨日三枝から聞いた話もあるから、先輩もなにか悩みが──
「夏目君さ、桜ちゃんのこと好きだよね?」
「ちょっと待ってください」
いきなり160キロど真ん中ストレートの質問が飛んで来た。
いや、バレてるとは思ってたけどさ。別に隠そうと思ってたわけじゃないけどさ。こんないきなり直球で聞かれるなんて、思ってもみなかったわけで。
「違うの?」
「いや、違わないですけど······」
先輩の邪気がない純粋な瞳に、思わず素直に肯定してしまう。妙な恥ずかしさがやって来て、頬も少し熱い。
「で、そんな桜ちゃんが大好きな夏目君に聞いておきたいんだけど」
大好きとは言ってないけど。
「罰ゲーム、どうする?」
「······」
即答できなかったのは、何故なのだろう。
例えば、四月時点の僕だったら、今すぐにでも辞めたいと言ったはずだ。
そして昨日までの僕なら、罰ゲームがいい口実だとばかりに、続行を望んだはずだ。
では、今の僕は?
白雪桜が好きだ。それに嘘偽りはない。
罰ゲームを口実に使うなんて、誠実さに欠けるんじゃないかとか、そんな事を考えているわけでもない。
ただ、触れてしまったから。
白雪が抱える心の闇。その片鱗に。
僕は果たして、それに触れてもいいのだろうか。
僕は自分の抱える心の闇を、トラウマを、彼女に曝け出して、救ってもらったけれど。
彼女のことを知りたいと願ったけれど。
そこまで踏み込んでも、いいのだろうか。
「どうしたら、いいんでしょうね······」
漸く出てきた言葉は、そんな情けないものとなってしまった。本当に好きなんだったら、告白すればいい。それで玉砕しようが、所詮は学生時代の思い出として、大人になれば笑い話になるようなものだ。
けれど神楽坂先輩は、そんな情けない僕でも笑顔でその言葉を受け止めてくれる。
「うん、悩んじゃうよね。自分の気持ちと、相手の気持ち。その両方と向き合おうとすればするほどに」
「先輩もですか?」
「わたしも、かな。今でこそ、夏目君と桜ちゃんのお陰で、秋斗君とこういう関係になれたけど。ううん、今でも、たまに悩む時があるんだ。わたしはもっと秋斗君と色んなことがしたいって思ってるけど、秋斗君はどうなんだろう、って。どこまで踏み込んでいいのかなって」
例えば過去のこと。例えば家族のこと。人間関係において、超えてはならない一線と言うのは明確に存在する。
それを越えることが許される、許せる人と言うのも、同時に存在する。
神楽坂先輩は三枝にとって、それが許される人間なのか。これは恐らく、イエスと言えるだろう。三枝本人でもない僕が言っても、説得力のカケラもないが。
ならば夏目智樹は白雪桜にとって、それが許せる、許される人間なのか?
「でもさ、そのことを怖がってたらダメだと、わたしは思うんだ」
「······」
「怖がって、一歩も踏み出さなかったら、秋斗君との関係は今以上進むことはなくて、わたしはきっと後悔するから」
「後悔、ですか······」
「うん。だから、怖がってたらダメなんだと思う。わたしも、夏目君も」
僕も、怖がっているのだろうか。
もし拒絶されたら。ああ、確かにそれは怖い。でも、そうやって拒絶されないと進めない関係だって、あるかもしれない。
拒絶されて、許されなかったのだとしても。
「······先輩。僕、罰ゲームやりますよ」
それでも、僕は許されたいと思っている。もう一歩、彼女に踏み込んでみたいと。
「いいの?」
ここで僕が早々に結論を出すとは思っていなかったのだろうか。先輩は少し驚いた様子で目を丸くしている。
「いいも悪いもないでしょう。発案したのは先輩なんですから。それに······」
それに、この罰ゲームがなければ、僕の恋は始まらなかったのだから。
彼女との関係を深めようなんて、思いもしなかったのだから。
「それに?」
「いえ、文芸部の恒例なんでしょ? その罰ゲーム」
「え? ······ああ! そう! そうだったねそう言えば!」
おい。この人今完全に忘れてたぞ。やっぱり恒例行事って言うのは嘘だったか。
「うん、そう言うことなら。頑張ってね夏目君。応援してるからっ!」
「はい。神楽坂先輩の方も、三枝と何かあったら相談くらい乗りますよ」
最後にまた、いつもの柔らかい笑みを見せて、神楽坂先輩は部屋を出て行った。
さて、これで逃げ場はなくなったわけだ。
未だに一線を超えてもいいのか、悩んでいるけど。それが許されるのかは分からないけど。
出来ることを、やるしかないか。
そんな決意から一夜明けた今日。合宿終了日。家に帰る日だ。
忘れ物がないか入念にチェックして、各々が使用していた部屋を掃除し屋敷を出た。
合宿としては、それなりの成果があったと言えるだろう。なんだかんだで一日目に海で遊んだのは楽しかったし、原稿も半分ほど進んだ。この調子なら、夏休み中に書き終えることが出来るかもしれない。
だけど、それと同時に考えるべきことも増えた。
合宿中、様子のおかしかった白雪。そんな姉を案じる小梅ちゃん。
そこから見えた、二人の間にあるなにか。
小梅ちゃんには、白雪を助けてあげてくれと頼まれた。
神楽坂先輩には、怖がらずに踏み出すと宣言した。
ならば僕のやるべきことは。
「よっしゃ、着いたで」
行きと違って中岸さんと運転を代わっていた大黒先生の声で、思考に沈んでいた意識が浮上する。
車の外を見ると、待ち合わせ場所にしていた浅木市のコンビニに到着していた。僕以外のみんなは寝てしまっていたから、先生の声で続々と目を覚ます。
「ほれ、さっさと降りい」
先生に急かされ、まず中列に座っていた僕と三枝が、続いてその後ろに座っていた女子三人が車を降りる。
車内は窮屈だったからか、三枝が外に出た開放感ででかい体を伸ばしていた。
「やっと帰ってきたなー」
「だね。二泊しただけなのに、随分久しぶりな感じがするよ」
試しに首をほぐすように回してみれば、ポキポキと関節が鳴った。隣に視線を動かしてみると、白雪も体を伸ばしている。ちょっと猫みたいだ。
「まさか帰りは君も寝てるとはね。お陰で話し相手がいなくて退屈だったよ」
「疲れてたんだから仕方ないでしょ。退屈だったなら一人大富豪とかしてたらよかったんじゃない?」
「そんな悲しい遊び、するわけないだろ」
なんだ一人大富豪って。相手の手札丸わかりだからなにも面白くないじゃないか。それだったら三枝を無理矢理起こして一緒にやるよ。
「よーし、んじゃここで解散や。神楽坂は車やから、残りの四人。特にこっから遠い白雪姉妹は気いつけ帰れよ」
運転席から降りてきた大黒先生の号令で、解散となった。これで、本当に合宿は終わりだ。
「それじゃあ、わたしはこのまま車で帰るね!」
「皆さま、お疲れ様でした」
バイバーイと手を振る神楽坂先輩と中岸さんに頭を下げ、去っていくハイエースを見送る。先輩には宿と車の両方を提供してもらったから、後日改めて礼を言った方がいいだろう。
「あたし達も帰りましょうか」
「そうね。早く帰ってカフェオレを浴びるほど飲みたいわ」
「白雪さん、向こうでも結構飲んでなかった······?」
「白雪にとってはまだまだ足りないってことだろ」
白雪も僕のことを言えないくらいには飲みすぎだと思うんだけど、今はそんなこと言っても仕方ない。僕だって人のこと言える立場じゃないし。
「じゃあ、俺の家あっちだから」
「あら、そうだったの? 夏目の家と反対なのね」
「おう。そういう事だから、また今度な」
「さようならー」
「お疲れ三枝」
僕の家がある方向とは逆側に歩いていく三枝。そんな彼を見送り、残されたのは僕達三人と、喫煙所でタバコを吸ってる大黒先生だけとなった。
このコンビニは駅の目の前で、僕の家は自然と改札方面と逆方向となる。けれど、二人を改札まで送っていった方がいいだろう。まだそこまで遅い時間ではないとは言え、女の子二人では心配だ。
そう提案しようとした矢先、白雪にそれを制されるように声をかけられた。
「じゃあ、私達も帰るわ」
「いや、改札まで送るぜ?」
「別に大丈夫よ。すぐそこなんだし」
「と言っても、女の子二人じゃ心配するだよ。素直に送られといた方がいいと思うけど」
「あんまり長い事一緒にいると、名残惜しくなっちゃくから」
「は?」
「お姉ちゃん?」
意図の掴めない白雪の言葉に、脳内を疑問符が占領する。小梅ちゃんも、姉の顔を心配そうに覗き込んでいる。
そうして笑顔を浮かべた白雪の姿は、とても儚く、今にも消えてしまいそうに見えて。
「だから、さよなら、夏目」
それだけ告げると、踵を返して駅へと歩いていった。小梅ちゃんも僕に一礼してから急いで後を追いかける。
ただの別れの挨拶、のはずだ。そのはずなのに、僕の耳にその声と言葉が反響して。
なにか、嫌な予感が、胸の内で燻っていた。
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