第57話

 大丈夫、上手くやれる。

 上手く隠せる。

 今までだってそうして来たんだから。

 今までちゃんと頑張れたんだから。

 彼に、必要とされたい私がいて。

 彼を、必要としている私がいて。

 だから、今まで通りでいいんだ。

 抱いてしまった劣等感は心の奥底に封じ込めて。

 今日もまた、私はあの子を寄る辺にする。


 ──卑怯者。


 誰かの声が頭に響いた。

 そんなの、とっくの昔から知ってるわよ。








 枕元のスマホがけたたましく鳴る。バイブ機能もオンにしていたので、振動がベッドを伝って僕の脳みそを揺らす。

 いつも使ってるアラームと、いつもとは違うベッドと寝室。枕が変わると寝れない、なんて繊細な性格はしていないから、昨晩はぐっすり寝ることが出来た。懸念していることがないことはないのだけど、それ以上にこのふかふかベッドの持つ魔力にやられてしまったのだ。

 さて、現在時刻は午前五時。こんな早い時間に起きたのは勿論理由がある。すっかり日課となってしまった朝のランニングだ。

 ベッドから起き上がって服を運動着に着替え、顔を洗って部屋を出る。屋敷の灯りは既についているので、中岸さんも起きているのだろう。

 外に出る前に、食堂を経由してキッチンへ向かう。ランニングするのなら、まずはコーヒーを飲んでおかなければ。そう思って踏み込んだキッチンには、すでに中岸さんが立っていた。


「おや、おはようございます夏目様」

「おはようございます、中岸さん。早いですね」

「白雪様に頼まれごとをされてしまいましたので」

「白雪から?」


 優しい微笑みを見せた老紳士は、手元のコーヒーメーカーにセットしてあったマグカップをこちらに差し出してきた。

 まさかとは思うけど、白雪の頼みごとってこれか?


「夏目様が朝の五時からランニングに向かうだろうから、コーヒーを用意してやってくれと」

「あいつ······」


 思わず苦笑が漏れる。僕が朝からランニングに行ってるのは、白雪と小泉しか知らない。そして白雪は、合宿中である今日も僕がランニングに向かうのを分かっていたと言うことか。

 見透かされてるようでなんだか恥ずかしくなってしまうものの、こうした気遣いがありがたくもある。まあ、自分で起きて自分でやれよって話ではあるんだけど。

 羞恥心を誤魔化すようにマグカップの中身を一気に飲み干した。


「コーヒー、ありがとうございます」

「いえいえ。仕事ですから」


 中岸さんに行ってきますと伝え、柔和な笑みを背に受けながらキッチンを出る。

 玄関ホールの扉を開いて外に出ると、太陽はまだ完全に昇っておらず、空は薄暗く染まっていた。それでも、昨夜のような真っ暗闇よりは随分とマシだ。

 取り敢えず砂浜まで出て、軽くストレッチをする。端から端まで大体四百メートル。五往復したら丁度いいくらいかもしれない。


「さて、と」


 ストレッチを終えて走り出す。

 砂浜はアスファルトの上と違い、足が重く感じる。だからトレーニングには最適だ。

 そして一度走り始めたら思考に余裕が生まれてしまうもので。どうしても、彼女のことを考えてしまう。

 白雪のこと。小梅ちゃんのこと。あの姉妹のこと。

 今まで白雪が周囲と距離を取っていたのは、小梅ちゃんのせいだと言う。それは何故なのかと考えてみれば、昨日の昼間、この砂浜で白雪が見せた表情が頭に思い浮かぶ。

 常に自分の上を行く妹。それに対して嫉妬や羨望などの感情がないわけがない。ともすれば、劣等感すらも抱いてしまうだろう。

 だけど、そこから周囲と距離を取ることの因果関係が分からない。僕の知っている白雪桜は、負けっぱなしで終わるようなやつじゃない。

 それすらも、捉え方の問題、なのかもしれないけれど。

 考えれば考えるほど分からなくなる。白雪はなにを思って、実の妹と接しているのだろう。白雪が小梅ちゃんを溺愛しているのは事実だし、それに嘘は感じられない。きっと二人は、お互いがお互いのことを大切に思っているんだろう。

 だからこそ、白雪のことが分からない。

 昨日様子がおかしかった理由は。

 必要以上に周囲と距離を取っていた理由は。

 知りたいと言えば、教えてくれるだろうか。


「ふぅ······」


 思考がひと段落したと同時に、砂浜を五往復し終える。

 いつものランニングと対して距離は変わらないはずだが、やはり砂浜のせいか、いつもよりも足に疲労が溜まっている。

 座り込んで空を見上げると、いつの間にか太陽が昇って来ていた。けれど空を覆う雲のせいで、あまり明るくなったとは言えない。

 結局、考えたところで分からないことだらけだった。小梅ちゃんにもしもの時は白雪を助けてくれと言われたけど、こんな調子じゃ自信が無くなる。


「お疲れ様」

「わぷっ」


 不意に視界が暗くなった。頭に何かがかぶせられる。それを手で取って後ろに振り返ると、メガネをかけたピンクのパジャマ姿の白雪が立っていた。僕の視界を塞いだのは、タオルのようだ。


「おはよう白雪。随分早いね」

「おはよう夏目。どっかの誰かさんが朝から元気に走ってるから、様子を見に来てあげたのよ。感謝しなさい」


 久し振りに見たメガネを掛けている白雪は、僕の鼓動を加速させる。きっと、ランニング直後だからだろうけど。

 腕を組んで偉そうに僕を見下ろす白雪は、いつも通りの無表情。そこに、昨日のようなおかしな様子は見受けられない。僕と小梅ちゃんの勘違いだったのだろうか。


「て言うか、メガネなのによくここまで歩いてこれたね。途中転けたりしなかった?」

「するわけないでしょ。あなたとは違うのよ」

「いや、僕も転けたりしないから」

「あら、今まさしく疲れからか不幸にも砂浜に身を投げ打ったところじゃないの?」

「違う。疲れてるのは違わないけど、普通に座り込んだだけだ。君も見てただろ」


 やっぱり、いつもの白雪だ。いつも通りの無表情。いつも通りのトゲのある言葉。いつも通りの、こちらを労うような声色。

 昨日のあれが勘違いだったとしか思えないような、完璧にいつも通り。

 だからこそ、違和感を感じてしまう。


「なあ白雪」

「なに?」

「なにか、あったのか?」

「······」


 演技が得意な白雪でも、僕の目までは誤魔化せない。そんな、完璧ないつもの自分を演じている彼女は、見ていてどこか痛ましい。

 傷を必死に隠すようで。弱みを絶対に見せないとばかりに。


「······別に、なにもないわよ」

「なにもないなんてことはないだろう。君、昨日から様子がおかしいの、自分で気づいてるか?」


 問い詰めるような口調になってしまった。それが意外だったのか、白雪は目を丸くしている。でもその直ぐ後に、今にも泣きそうな顔で笑って。


「夏目は、優しいわね」

「え?」


 悲哀を滲ませた声色で、そう漏らした。


「その優しさに何度も救われてるのは事実だけど、私にそれは眩しすぎるわ」

「白雪?」

「私みたいな卑怯者には、それを向けられる資格なんてないのに······」


 やっぱりなにかあったんじゃないか。僕には言えないようななにかが。

 それを問うてみようと思っても、白雪はすぐに元の無表情に戻ってしまった。


「さ、戻りましょうか」

「いや、君······」

「そうだ。ここまで転ばずに来れたとは言え、視界があまり良くないのは変わらないから、屋敷までエスコートしてくれるかしら?」

「······分かったよ」


 立ち上がり、差し出された手を取る。

 握った白雪の手は、何故かとても冷えているように感じられて、なにを考えるでもなく力を込めてしまう。

 白雪はそれに気を悪くするでもなく、僕に手を引かれるがままにしていた。





 ──卑怯者。


 頭の中に、私を罵る言葉が響く。

 そうよ、私は卑怯者よ。

 色んなものから目を逸らして、見て見ぬ振りをして。

 小梅のためだなんて言いながら、結局は自分のためで。

 必要とされないように、なんて言いながら、こうして彼を求めてしまう。

 本当に必要とされるべき人間は、私ではない。私は、誰かを求めていいような人間じゃない。

 醜い嫉妬心。浅ましい劣等感。

 それらを隠すために、小梅に尽くして。

 それを寄る辺に生きるような、卑怯者。

 そんな私に、彼の優しさを受け取る資格なんて、あるわけがない。


 だから、これが最後。

 この合宿が最後だ。これが終われば、私はまた前と同じで、一人に、ひとりに、独りに戻る。

 上手くできると思っていたけど。

 彼に優しくされただけで、もうダメだった。

 諦めたくない感情がある。でも、それは諦めなきゃいけないもので。

 本当に必要とされるべきあの子のために。

 私はお姉ちゃんだから。

 誰からも必要とされてはいけないから。


 ──ありがとう。あなたに二度も恋することが出来て、幸せだったわ。


 口の中で呟いた言葉は、目の前の彼に届くこともなく。

 ただ、繋がれた手の感触だけは、覚えておこう。



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