第56話
海で一通り遊んだ後、中岸さんにお願いして写真を撮ってもらった。みんな水着姿の写真だ。言わば半裸。そう言うのが写真として残るのは少し恥ずかしい気もしたけど、他のみんなはなにも言わなかったし、そう思っていたのは多分僕だけなんだろう。
神楽坂先輩のスマホで撮影されて写真は、直ぐにその場の全員に送信された。なぜか小梅ちゃんが真ん中で、その両サイドを白雪と先輩が固めて、先輩の隣に三枝と、白雪の隣に僕。みんな、笑顔を浮かべている。
海から戻ったのは夕方と呼べる時間だった。中々長い時間遊んでいたものだ。しかし今日は一応合宿でもあるのだから、ちゃんと部としての活動もする。
「んじゃ、今から二時間くらいやな。十九時まで各々原稿を進めるように。神楽坂はその間勉強しとけ。なんかあったら、今日は俺に聞くように」
小梅ちゃんを含んだ全員が集められた客間で、原稿の執筆は行われることとなった。
いつもと違うのは、部室じゃないことと、大黒先生と小梅ちゃんがいることくらい。大黒先生はまだしも、小梅ちゃんはどうするのかと思っていると、ポーン、と音が聞こえた。
客間に置かれたピアノの音だ。
「紅葉さん、これ弾いてもいいですか?」
「うん、いいけど。小梅ちゃん、ピアノ弾けるの?」
「小梅はピアノだけじゃなくて、楽器ならなんでも弾けるわよ。しかも凄い上手いんだから」
それに答えたのはなぜかドヤ顔の白雪。神楽坂先輩も白雪のシスコンぶりには慣れたのか、苦笑を浮かべている。
「BGMがあった方が捗るかもしれないですし、ちょっと何曲か弾かせてもらいますねー」
そんな軽い調子で言いながら椅子に座り、小梅ちゃんの小さな指が鍵盤を押し込んだ。
瞬間、力強くも優しい旋律が響き渡る。
僕はこの手の音楽に詳しいわけではないので、今弾いている曲がなんて言う曲なのかは知らない。けれど、そんな素人の僕が聞いても、小梅ちゃんの演奏は有り得ないくらい上手かった。
ピアノの演奏なんて、たまにテレビで聞くくらいだけど。小梅ちゃんが掻き鳴らす音は、今まで聞いてきたそれらの演奏が霞むほどだ。思わずそれに聞き惚れてしまいそうになるも、気を持ち直してパソコンに向き直る。
スラスラとなんの引っ掛かりもなく打ち込まれていく文字。このピアノの旋律のお陰だろうか。気がつけば執筆に没入していて、頭の中にストーリーが次々と湧き上がる。それが文章へと変換されていく。
ひと段落ついた所で意識を浮上させると、三枝も神楽坂先輩も、それぞれ勉強と執筆にいつもより集中出来ているようだった。小梅ちゃんの奏でるメロディーはさっきと違い、アップテンポなものに変わっている。
「夏目様、こちらをどうぞ」
「ああ、ありがとうございます、中岸さん」
絶妙なタイミングで、中岸さんがブラックコーヒーの入ったマグカップを差し出してくれる。それを一口飲んで、隣に座る白雪に目をやった。
彼女はパソコンの画面を見つめて眉を顰めており、手も殆ど動いていない。こんな極上のBGMがあるのに。
「白雪、手ェ止まっとるみたいやけど、大丈夫か?」
「大丈夫です。なにも問題ありません」
僕と同じく白雪の様子に気がついた大黒先生が声をかけるも、色を感じさせない声でそう返事をする。けれど、表情は相変わらずで。
結局その時間中、白雪の原稿は全く進んでいないようだった。
小梅ちゃんのピアノのお陰ですこぶる執筆が捗り、予定通り十九時に切り上げた後は、直ぐに夕飯となった。
中岸さんの作った料理はどれも絶品で、食べ終えた後に白雪がレシピを聞いたりもしていた。多分また、小梅ちゃんのためとかなんだろう。
夕飯の後は各自部屋に戻り自由行動となる。日付が変わる頃には屋敷全体を消灯すると言われているので、みんなそれまでの間に寝るのだろう。
三枝はどうも神楽坂先輩の部屋に行ってるらしいし、手持ち無沙汰なので外に出てみることにした。
「なんや夏目、外出るんか?」
「はい。ちょっと、星でも見ようかと」
玄関ホールには、備え付けられた来客用のソファに座って、大黒先生が中岸さんとワインを飲んでいた。これが旅行における大人の楽しみ方と言うやつなのだろうか。ちょっと憧れる。
「外は街灯もなくかなり暗くなっているので、お気をつけください」
「なんかあったらすぐに電話せえよ」
「分かってますよ」
顔が赤くなった大黒先生と、その相手をさせられている中岸さんに見送られ外に出る。
一歩踏み出すと、中岸さんの言う通り、外は真っ暗闇に包まれていた。屋敷の灯り以外には、月と星の光が地上に届いているだけ。街灯なんてひとつもない。
さて、外に出たのはいいけど、どこに行こうか。この暗闇ではあまり遠くまで行けそうにないし、そもそも山の方は未踏だから、下手すれば遭難してしまうかもしれない。
となれば、選択肢はひとつだけか。
「お兄さん?」
屋敷の前の砂浜に向けて歩き出そうとした時、不意に背後から声をかけられた。振り返るまでもなく、それが誰なのか分かる。
「小梅ちゃん?」
屋敷から出てきたのは、寝巻き代わりのジャージに着替えた小梅ちゃんだ。
「どうかしたの?」
「お兄さんが外に出るのが見えたんで。ちょっと、お話したいこともありましたし」
「そっか。歩きながらでもいいかな?」
「はい」
改めて、小梅ちゃんを連れ添って砂浜まで歩く。そのスピードは至極緩やかで、けれどお互い、なにも言葉を発さずにいた。僕も小梅ちゃんも、言葉を探っているようで。
そんな静寂を破ったのは、僕の方だった。
「星、綺麗だね」
「都会よりも綺麗に見えるって言うのは、本当みたいですね」
綺麗に見えるどころではない。まるで、手を伸ばせば届いてしまうような。そんな錯覚を起こしてしまうほどに、空との距離が近く感じる。
そんな僕の心情を察したわけではないのだろうけど、小梅ちゃんは夜空にその右手を伸ばした。ピンと立った人差し指は、その夜空に瞬く星を指している。
「あれがデネブ、アルタイル、ベガ」
「君が指差す夏の大三角?」
「知ってたんですね」
「まあ、白雪の影響かな」
彼女と関わるようになって、彼女のことを知って、気がつけば今まで知らなかったような知識が脳内に蓄積されている。そのどれもが、無駄と言って差し支えないようなものばかりだけど。
それでも、それが彼女と繋がってるものなのだと思ったら、どれもかけがえのないものに感じる。
「お姉ちゃんは、凄いんですよ」
空を見つめたままに口を開く。その顔には笑顔が浮かんでいて、姉を本気で尊敬しているんだと、なにも言われずとも分かった。
「あたしは、いつもお姉ちゃんに助けられてたんです。そんなお姉ちゃんの背中を追いかけて、それは今でも同じです。でも、多分、それがダメだったんでしょうね」
「ダメ、だった?」
「はい」
俯き、睫を揺らす小梅ちゃんを見て、昼間の白雪の言葉が思い返される。
小梅ちゃんは、いつも白雪の先を行っていた。ただでさえ優秀な白雪の、その更に先を。
「お兄さんは、なにかを諦めたことってありますか?」
前の会話からはなんの脈絡もない質問。
だけど、顔を上げて僕を見る小梅ちゃんの目は至って真剣だ。姉とよく似た、澄んだ瞳。ともすれば、吸い込まれてしまうのではと錯覚するほどに。
「······あるよ。僕の全てと言っても過言じゃなかったものを諦めてた。もう無理だって、心が叫んでたんだ。でも、それを取り戻してくれたのは、他の誰でもない。君のお姉さんだったけどね」
まるで昨日のように思い出せる。あの日の、あの時の、白雪の言葉を。僕が彼女にどれだけ救われたのか、きっと白雪本人も分かっていない。
「お姉ちゃんも、同じです」
「僕と?」
「はい。お姉ちゃんも、諦めてたんですよ。誰かとの関係を。人との繋がりを。あたしのせいで······」
気がつけば、砂浜に辿り着いていた。昼間はあんなに透き通って綺麗に見えた海も、この闇夜の中では恐怖の対象にしかならない。
あの海に一度入ってしまえば、こちらに戻って来られなくなるのではないだろうか。そんな風に思ってしまう。
けれど本当は、そんなことはないのだ。昼間、僕達はこちら側に戻って来れている。
捉え方の問題だ。
いつかの白雪の言葉が脳裏を掠めた。
「でも、お兄さんと会ってからのお姉ちゃんは、それまでと違って見えたんですよ。だからあたし、お姉ちゃんに言ったんです。諦めることを諦めて、って。誰かからの好意を、誰かへの好意を諦めるなんて、人間である以上土台無理な話なんだから、って」
初めて小梅ちゃんと会った時にも、似たような話をした。白雪は意図的に周りと距離を取っているから、僕がちゃんと見ててやってくれ、と。
そして今の小梅ちゃんの話は、どうして白雪がそんな風になってしまったのか。その核心に迫るものだ。
それは、小梅ちゃん自身のせいだと言うけれど。それが何故なのかは、僕には分からない。
「でも、今日のお姉ちゃんは······」
「······ちょっと、様子がおかしかったね」
「はい······」
昼間、落ち込んでいた時の白雪の言葉、表情。そして夕方、執筆中のあの顔。
最初は、ただ落ち込んでいるだけなのだと思っていた。ただ、執筆に詰まっているだけなのだと、思い込んでいた。
捉え方の問題なのだ。僕は彼女の事情も心情も知らないから、そう見えるだけで。本当はそうじゃないのかもしれない。それらを知っている小梅ちゃんには、別の見え方をしていたのかもしれない。
「だから、お兄さん」
「うん」
海を見つめる小梅ちゃんの姿は、今にも泣きそうに見える。きっと、大好きな姉のことを想っているのだろう。
月の光と、星の瞬き。それらを反射して輝く海に彩られた、小さな女の子の姿は、とても幻想的だ。
「お姉ちゃんになにかあったら、助けてあげてください」
「······うん。必ず助ける」
約束だ。姉思いの妹に託されたのだから。その時が来たら、絶対に。
見てしまった。見えてしまった。
妹と彼が、二人で夜の海に出掛けるところを。
少し外の風に当たろうと思ったのが間違いだった。
あの二人に限って、おかしなことはなにもないはずだ。
自分の妹と、友人とも呼べる彼が仲良くしているのは、いいことのはずだ。
だけど。
見てしまう。見えてしまう。
心の奥底にしまいこんだはずの、嫉妬、羨望、憎悪。
そして、劣等感が。
なにを話しているのか、聞こえたわけではない。
些細な世間話かもしれない。
もしかしたら、私について話していたのかもしれない。
けれど、いつも私の先を行くあの子が、彼と一緒に、二人きりでいるだけで。
どす黒い感情が胸の内で渦巻く。
これはダメだ。
ただでさえ、今日一日で、また。
思い知らされたと言うのに。
あの子と私との差を。
私は、どうしようもなくあの子に劣っているんだと。
あの子は、どうしようもなく私より優れているんだと。
だから。
真に必要とされるべきはあの子で。
──必要とされていないのは、私なのだと。
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