第61話

『さっき桜ちゃんから連絡があって、いきなり文芸部やめるって······夏目君、何か聞いてない?』


『おい智樹、お前、白雪さんとなんかあったのか? 紅葉さんが白雪さんと連絡つかないって泣きそうになってたぞ』


『確かに、白雪から退部届けは受け取っとる。でも、まだちゃんと受理したわけやない。なんかやることあるんやったら、はよした方がええで』


 ここ数日の色んな人との会話が、脳内を駆け巡る。正直、情報過多で僕は未だに整理しきれていない。なにがあったのかなんて、僕が聞きたいくらいなんだから。

 だから頭を振ってそれらを無理矢理脳内から追い出し、小さく深呼吸をした。

 目の前には樋山が構えるキャッチャーミット。意識を全て、そこに集中させる。

 左のバッターボックスに立っているのは、部長の新井だ。彼はバッティングのセンスも中々のものらしいから、雑念を持ち込んでしまえば確実に打たれてしまう。

 ランナーは一、二塁。セットアップの構えから、思いっきり腕を振る。サインはストレート。ミットは外いっぱいに構えられている。けれど、ボールは僕の狙いと裏腹に、ど真ん中へと向かってしまい、軽々とライトの頭を越してしまった。

 当然のように二塁ランナーはホームに帰り、一塁ランナーも三塁へ。打った新井は二塁へと進んでいる。

 ただの実戦形式の練習とは言え、こうも思い切り打たれてしまえば凹んでしまう。


「ピッチャー交代ですね。練習になりません」

「だな。山本、お前投げろ」


 その経験とマネージャーとしての能力の高さから、練習の指揮を執っている小泉が、二塁ベースにいる新井に声をかけた。

 二人のお陰でマウンドから降ろされた僕は、山本と言う一年生にボールを渡してベンチに戻る。


「はい、智樹くん」

「ああ、ありがとう理世」


 ベンチに座って練習を眺めていると、理世がスポドリを紙コップに入れて持ってきてくれた。それをありがたく受け取り、一気に呷る。


「白雪さんのこと、まだ考えてる?」

「······うん、まあね」

「本当なら今日だったもんね······」


 そう。今日は八月の十五日。本来なら、白雪の誕生日を祝うために、二人でどこかへ出かけていたはずの日だ。

 この際、それが流れてしまったことはどうでもいい。ただ、納得いかないのは。


「白雪さん、本当に文芸部やめちゃうのかな?」

「どうだろうね。僕も、本人から聞いたわけじゃないし。でも、大黒先生は退部届けを受け取ったって言ってたから」


 いきなり文芸部をやめると、神楽坂先輩に連絡があったらしい。その真偽を確かめようと思っても、白雪はラインのアカウントを消してしまっていた。だから大黒先生に連絡して聞いたのだけど。退部届けを受け取ってはいるが、受理したわけではない。つまり、先生も白雪には文芸部に残って欲しいと思っているわけだ。ただ、教師という立場上、生徒の意思は尊重しなければならないだろう。

 合宿中、折角色々と決心したと言うのに。近づこうと思えば離れていってしまう。


「どうにかして、引き止めたいんだけどね。ラインのアカウントは消えてるし、電話は着拒されるし。夏休み中はもう打つ手なしだよ」

「そっか······」


 だからと言って、二学期に入ってからどうにかなるのかと聞かれると、首を縦に触れないのが現実だ。白雪がなにを考えてやめるなんて言い出したのか、僕は全く分からないのだから。

 いや、心当たりなら、ないわけではないのだけど。それを確かめようとするにも、小梅ちゃんと連絡を取る必要がある。そして僕は小梅ちゃんの連絡先を知らない。

 完全に手詰まりだ。


「ねえ智樹くん」

「······っ」


 考え込んでる内に俯いてしまっていた僕の顔を、理世の整いすぎた顔が覗き込んでくる。あまりにも突然な事だったので、つい顔を上げて後ずさってしまった。そんな僕の様子を見て、理世は楽しそうにクスクスと微笑む。

 なんかからかわれてるような感じがする。悪くない。


「今日練習終わった後、時間あるかな?」

「まあ、あるけど」

「じゃあ、白雪さんの代わりに、私とデートしよっか」

「はい?」


 僕が? 理世と?

 なぜ、と考える頃には、なんだか周囲から視線を感じた。見ると、野球部員達が僕のことを睨んでいる。はっはーん。これ、前にも似たようなことがあったぞ。白雪の時もこんな感じだったぞ。

 つまり、今まさしくこの瞬間、僕は野球部員達を敵に回してしまったと。


「断ってもいいですか······?」

「だーめっ」


 にっこり微笑まれてしまっては、僕に拒否権なんてないも同然だった。


「どうでもいいですけど、夏目先輩はそろそろ練習復帰してください」

「あ、はい」


 僕、野球部じゃないんだけどなぁ······。





 練習が終わると、僕は部室棟にあるシャワー室で軽く汗を流し、持ってきていた制服に着替えて校門まで向かった。

 その時の野球部員達からの視線が痛かったけど。理世が野球部のマドンナとか言う小泉の言葉は、どうやら事実らしい。

 校門に辿り着くと、練習中と同じジャージ姿の理世と小泉がいた。小泉は樋山を待っているのだろう。相変わらず仲のいい二人だ。


「あ、智樹くん!」


 こちらに気がついた理世が手を振ってくる。他の部活の生徒達も見ているから、ちょっと恥ずかしい。


「ごめん、待たせたね」

「そんなに待ってないから大丈夫だよ」


 シャワー浴びたりしてたからそれなりに待たせたと思うのだけど、理世は笑顔で首を横に振ってくれた。白雪にもこれくらいの愛嬌があればなぁ、なんて思ってしまう。


「修二、まだでしたか?」

「樋山なら新井と色々話してたぜ。練習についてじゃないか?」

「そうですか。じゃあ私もあっち行きますね」


 うちの野球部は、正直言って弱小と呼んでも差し支えない。顧問は野球経験者じゃないし、高校から野球部に入ったやつも結構いる。昔は強かったみたいだから、ゴールデンウィークの招待試合なんかは呼ばれるけど、今は本当に弱い。だから今年のチームはまだ一年の小泉が新井と相談しながら練習メニューを考えたりしてるし、僕が参加して練習を手伝ったりしているのだけど。

 部員のやる気自体はあるのだ。じゃないと、夏休みのこの暑い中で殆ど毎日練習しようだなんて思わないだろう。


「では、私はこれで。夏目先輩、理世先輩に手出ししたらどうなるか、分かってますよね?」

「分かってるよ。分かってるからそんな怖いこと言わないでくれ」

「ばいばい綾子ちゃん」


 部室棟の方へと戻っていく小泉を見送ると、必然的に理世と二人きりになってしまう。この前の買い物の時やさっきまでなんかは、小泉に部員のみんながいたけど、こうして二人きりになるのは初めてだ。

 デートしようなんて言われてしまっているものの、さて、どうしたものか。これは僕からどこかへ誘った方がいいのだろうか。でも僕、本屋とかラーメン屋とかしか知らないんだけど。少なくとも、どちらも女の子とデートするのに行くような場所ではない。


「よし、じゃあ行こっか」

「悪いんだけど、僕はデートに行くような気の利いた場所は知らないぜ?」

「いいのいいの。誘ったのは私だしね。今日はお姉さんにどーんと任せなさい!」

「そう言うなら、お言葉に甘えようかな」


 まあ、誘われた側の僕が場所を提案するというのもおかしな話ではある。ここは理世に任せてしまおう。

 と言うわけで学校から駅まで歩き、蘆屋駅から隣町の四宮駅まで電車で移動した。その間理世とは、他愛のない話で盛り上がっていた。

 好きな食べ物とか、最近見たテレビとか、野球のこととか、学校のこととか。

 友達になったのはいいけど、お互いがお互いのことをなにも知らない。だから、その会話はちゃんと意味があるものだった。誰かのことを知ろうと思えるようになったのも、きっと彼女のおかげなのだろう。

 四宮駅は例のモールがある駅だ。ここから南に歩けば辿り着く。しかし今日は駅から北側に出て、そこから十分ほど歩いたところで、案内役の理世の足が止まった。


「ここだよ」

「散髪屋······?」


 そう、理世の案内で辿り着いた先は、散髪屋だった。美容院なんて上等なものではなく、古くから大衆が利用しているような。店の前にあのなんかくるくる回ってるやつがある、ごく一般的な散髪屋。

 いや、なんで散髪屋? あれか、僕の見てくれがあまりにも無様だから、まずは髪の毛から整えようってか? だったら美容院に連れてかれそうなものだけど。


「ここ、私の家なんだ」

「え」

「ただいまー」


 その言葉に驚愕する暇も与えてくれず、理世は店の中へと入っていく。慌ててその後ろを追う僕。

 店の中には鏡が二つと、その前に洗面台と椅子がそれぞれ置かれている。待合場所にはソファがあって、本当にどこにでもあるようななんの変哲もない散髪屋だ。

 そして、理世の声に反応して奥から出て来た、四十代半ばに見えるメガネをかけた男性が一人。


「おお、帰って来たか愛しい愛しい我が娘よ! いやあ、夏休みは午前中で帰って来てくれるから、もうずっと夏休みでいいのになぁ!」

「お父さんうるさい。お客さんいるんだからちょっと静かにしてよ」

「客?」

「そ、お店のじゃなくて、私のね」


 ギロリ、と。そんな擬音が実際に聞こえて来そうな程の動きで、理世にお父さんと呼ばれた男性が僕を睨む。怖い。白雪に睨まれるのとは別種の恐怖がある。


「お、お邪魔します······」

「誰だあんた?」


 待って、なんでそんなドスの効いた声出てるの? さっき理世と会話してた時はそんな声じゃなかったですよね?


「友達の夏目智樹くん。ほら、ちょっと前に夏目祐樹って野球選手いたでしょ? その息子さんだよ」

「ほほぉ?」


 メガネの奥の瞳を光らせ、まるで値踏みするように僕を睨んでいる。とても居心地が悪い。

 暫く僕を睨んでいたと思うと、理世のお父さんはこちらに近寄って来た。その間もずっと睨まれているもんだから、これから一体どんな仕打ちが待っているのかと気が気でなかったのだけど。いきなり破顔したと思ったら、背中をバシバシ叩かれた。


「いやぁ、あの夏目祐樹の子供とは! そんな有名人の子供を連れてくるなんて、さすが理世だな! しかし、あんたも両親を亡くしちまって大変だろう? ゆっくりして行け!」

「あ、ありがとうございます······」


 思いの外いいだった。


「ただし」

「······?」

「理世に手を出したら、分かってんだろうなぁ?」


 前言撤回。めっちゃ怖い。だから、そのドスの効いた低い声はどこから出してるんですか。落差が半端ないんですけど。


「もう、余計なこと言わなくていいから。智樹くんはただの友達。それ以上でもそれ以下でもないから、お父さんは変な勘違いしないで。ほら、智樹くんこっち」

「あ、うん」


 なんだろう。いや、分かってるんだけど。そもそも理世とは知り合ったばかりだから彼女の言う通りではあるんだけど。こんな可愛い子にここまでばっさり言われると、男として悲しいものがあると言いますか。

 未だ睨んで来ているお父さんを置いて、理世の先導で店の奥から二階へと上がる。階段を上がって直ぐのリビングを通過し、更にその奥の部屋へ。


「はい、ここが私の部屋ね」

「う、うん······」

「ふふ、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」


 通された理世の部屋は、一見して小綺麗な、言い方を選ばずに言えば、ものの少ない寂しい和室だった。けれど所々には女の子らしく可愛らしい小物が置いていたりしている。それもどこか安っぽい物に見えるから、節約に節約を重ねながら買ったのだろう。流石守銭奴。


「女の子っぽくないでしょ?」

「いや、そんなことはないと思うよ。僕からしたら、綺麗にしてるだけで凄く感じちゃうからね。ちょっと前までの僕の部屋なんて、それは酷いものだったんだぜ?」

「これくらいは当たり前だよ」


 当たり前なのか。ちょっと謎にショックだ。


「じゃあ、悪いんだけど先にお風呂入って来てもいいかな?」

「ああ、お構いなく。練習終わって直ぐだしね」

「うん、だから、目、瞑っててもらってもいい、かな?」

「え、な、なんで······?」


 少し頬を染めて、そんなことを言ってくる。いきなりそんな可愛い表情をされたもんだから、僕も狼狽えてしまって。あるはずもない期待を抱いてしまう。

 まさか、なんてバカは思考を浮かべていると、理世は一層頬を赤くして、まるで一生の恥を告白するかのように言葉を発した。


「し、下着······」


 ······。

 ············。

 ··················。


「ご、ごめん!」


 その場で勢いよく回り右して力強く精一杯目を瞑った。

 とたとたと背後から足音が聞こえ、タンスを開く音も聞こえる。それがいけない妄想を掻き立てて、自分の頬を自分で思いっきりビンタした。


「えっと、智樹くん?」

「大丈夫、僕は今何も考えてない、無の境地に達してるから。だから理世はなんの心配もせずお風呂に入って来ていいよ」

「う、うん。じゃあ、適当に部屋で寛いでてね?」


 またとたとたと足音が聞こえ、どこかの扉が開く音が聞こえてから、目を開いた。

 そして改めて、部屋を見回す。


「······っ」


 ゴクリと生唾を飲んでしまったのは致し方ないことだろう。女の子らしくない部屋、なんて本人は言っていたけど、ここは紛れもなく理世の部屋なのだ。

 同年代の女子の部屋なんて、これまで入ったこともなかった。白雪の部屋ですら。だから、こんなに緊張しているんだろう。しかも理世は今、お風呂に入っていて······。


「ダメだろ、これ······」


 言いながら吐き出したため息。それと一緒に、この煩悩まで吐き出せたら良かったのに。

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