第44話
目覚まし時計のけたたましい音で、僕の一日は始まる。それは今日から始まる夏休みにおいても例外ではなかった。
時刻は朝の六時。いつも学校に行く時と同じ時間。ベッドから起き上がり部屋を出て、洗面所で顔を洗う。その後適当にトーストを焼いてブラックコーヒーと一緒に朝食として、食べ終えたらジャージに着替えて家を出る。
「さて、行きますか」
マンションの下でストレッチをしてから、僕は走り出した。最近始めた朝のランニングだ。
昨日の終業式の日。樋山と小泉から対決の日は八月四日だと伝えられた。八月の第一土曜日。今からちょうど二週間後だ。それまでに体を動かす勘を取り戻さなければならない。
運動なんて体育の授業以外でしていなかったから、当然のように体力も筋肉も落ちている。その辺りは走り込みやら筋トレやらでどうにかすればいいのだが、いかんせんキャッチボールの相手が不足している。
当初は三枝に頼もうかと思ったけど、神楽坂先輩と付き合い始めた彼に頼むのは忍びない。昔はよく父さんか樋山が練習に付き合ってくれていたけど、父さんはもういないし、樋山は今回敵だ。
となると、本当に相手がいない。交友関係の狭さがこんなところで裏目に出るとは。
「ふぅ〜······」
暫く家の近くを流れる川沿いを走ったところで、一息ついて足の動きを緩めて歩く。大体二キロくらいは走っただろうか。それだけで根を上げてしまうとは、やっぱり体力はかなり落ちているみたいだ。
朝とは言っても気温は夏らしくそれなりに高い。額に流れる汗を拭い、急な運動で暴れていた心臓が落ち着くのを見計らって再び走り出そうとしたその時。
「あれ、夏目先輩?」
背後から声をかけられた。右足を勢いよく踏み出していたから、急ブレーキをかけたせいで前につんのめりそうになる。なんとかバランスを取ってこけてしまうのを避けた後、声の方に振り向くと、そこに立っていたのは昔から変わらないジャージを着ている小泉だった。
「おはようございます」
「おはよう。奇遇だね。今から部活?」
とてとてと小走りでこちらに近づいて来る。小泉や樋山とは同じ中学だから、偶然ここで出会ってもなんらおかしなことではない。小学校は僕と違ったみたいだから、僕の家からはちょっと離れているけど。
「はい。夏目先輩は?」
「見ての通り、朝のランニング中だよ。想像以上に体力が落ちてて自分でも驚いてるとこさ」
戯けたように肩を竦めてそう返すと、小泉はじろじろと僕の総身を眺める。突然黙って見つめてくるもんだから居心地が悪くて、半歩後ずさってしまった。
「ど、どうした?」
「先輩、修二に勝つつもりなんですか?」
「そりゃ、やるからには勝ちに行くけど」
「なるほど······」
なにに納得したのか、うんと一つ頷いてから、またなにか考えるようにして顔を少し俯かせる。
やがて考えが纏まったのか、顔を上げた小泉は更に一歩距離を詰めてきて、突然僕の体にペタペタと手を当てだした。
「ちょ、小泉······⁉︎」
「体力だけじゃなくて、筋肉もそれなりに落ちてるみたいですね」
「いきなりなにをっ!」
「姿勢のバランスも悪いです。これじゃ走る時のフォームもおかしかったでしょうね」
なにやら分析しだしたが、遠慮なしに体を触られる僕は狼狽えるばかりだ。どうして公衆の面前で後輩女子にこんなことをされているんだ。道行く人たちも、なにをしているのかと視線を向けてくる。中にはイチャイチャするなとばかりに恨みのこもった視線を投げる人も。違います誤解ですこの子はただの後輩なんです。
心の中で通行人の皆さんに言い訳していると、小泉は漸く離れてくれる。一体なんだったんだ。
「君な、こんなところでなにするんだよ······」
「なにって、ちょっとした確認を」
不躾に体をペタペタと触ってくるのがなんの確認になるんだ。不意打ちの出来事だったからか、僕の頬は微かに熱を持ってしまっていたのだが、目の前の後輩はそれに気づいた様子もない。
「それより夏目先輩」
「ん?」
「私、今から先輩のお手伝いします」
「手伝いってなんの」
「勿論、修二に勝つための、ですよ」
「君が?」
「はい」
それは予想外でいて、なおかつ願っても無い提案だった。小泉のマネージャーとしての能力が高いのは、中学時代から知っている。今冷静になって考えてみると、先ほどの奇行は僕の体の状態を調べていたのだろうし、そこから色々と分析出来るだけの知識も彼女は有している。まあ、だからと言ってこんなところであんな真似をされるのは困るんだけど。
「いや、手伝うって言っても、部活はどうするんだ?」
「事情を説明して休みます」
「えぇ······」
確かに小泉ならキャッチボールの相手にもなってくれるだろうし、三枝を相手にするのと違って、アドバイスなんかも投げてくれることだろう。
しかし、どうしてそんな敵に塩を送るようなことをするのか。その疑問が顔に出ていたのか、小泉は淡々とした様子で答えてくれた。
「私、ずっと言ってましたよね。戻ってきてくださいって」
「僕は別に、また野球を始めるわけじゃないぜ?」
「それでもいいんです。別に今回限りでもいいから、夏目先輩がまたマウンドに立ってる姿を見たいんです。その為なら私は、なんだって協力しますよ」
全く。白雪と言い小泉と言い。物好きな奴ばかりだ。マウンドに立った僕なんて、目の前のキャッチャーミットしか見えていないただのガキなのに。
だけど、僕のそんな姿をもう一度見たいと思ってくれるのなら。
「じゃあ、お願いしようかな」
「やったっ! ちょっと待ってくださいね、修二に連絡するんで!」
小泉はその小さな体で、飛び跳ねんばかりの喜びを表現していた。小動物みたいで可愛いのは結構だが、小泉が耳に当てた電話の向こうから樋山の困惑したような声が聞こえて、僕は心の中でそっと樋山に謝罪した。
「お待たせしました! じゃあ早速行きましょう!」
ニコニコと満面の笑みを向けられて、ちょっとたじろいでしまう。小泉からこんな邪気のない顔を向けられたのはいつ以来だろう。最近は睨まれたり剣呑な雰囲気になったりしていたから、多分中学以来じゃないだろうか。
そうして笑顔を浮かべていると、この子も可愛い子なんだよなぁ、なんて思ってしまう。顔立ちは整っているし、小柄な体躯は男に庇護欲を駆り立たせる。だが実際は、その体に似つかわしくない強気な性格だ。
「行くってどこに?」
「勿論、夏目先輩の家に決まってるじゃないですか」
「なんでまた僕の家なんだ」
「作戦会議ですよ」
ほら行きましょう! と僕の背中を押してくる小泉になにも反論出来ず、僕は小さな後輩を伴って帰路についた。
小泉が我が家に来るのは、初めてのことではなかった。中学の頃、父さんが休みの日に樋山と二人でたまにうちへやって来ては、父さんと僕の四人で野球について熱く語っていたものだ。
だから、今日久しぶりに訪れた僕の家で、小泉が仏壇に線香を上げさせてくれと言ったのはなんらおかしな事ではない。
「悪い、そういうのは置いてないんだ」
「え、そうなんですか?」
「金銭的な理由もあったからね」
それ以上に、僕の心が耐えられそうになかったから。今ならもしかしたら大丈夫かもしれないけど、今までの僕は墓参りすら命日にしか行かないような状態だったのだ。仏壇なんて家に置かれた日には、どうなるか分かったもんじゃなかった。
「そうですか。じゃあ夏目先輩、取り敢えずシャワー浴びて来てください。汗臭いです」
「言われなくてもそうするつもりだよ······」
汗臭いは余計だ。かなり汗をかいた自覚があるから、変に反論も出来ない。
冷蔵庫に入ってるものでも適当に飲んでてくれとだけ伝え、部屋から着替えを取って来て風呂に入った。
シャワーで汗を流しながら思う。一つ年下の後輩とは言え、同年代の女の子が僕の家にいるのに、どうして僕はゆっくりシャワーを浴びているのだろう。
勿論全くそう言うつもりはなかったけど、どうしてか変に意識してしまう。こう言うのは協力すると言ってくれた小泉に失礼だと分かっているのだが、一度意識してしまうとどうしようもないなくなるのは思春期故の悲しい性。
頭と体をさっと洗って、直ぐに風呂場から出た。脱衣所で服を着てリビングへと戻れば、小泉が口をへの字に曲げて僕を待っていた。なんで?
「先輩。冷蔵庫の中、コーヒーしかなかったんですけど」
「あー······」
そう言えばスポーツドリンクもお茶も買ってなかったっけか。自分が飲めるものがなかったから不機嫌なのだろうかと思ったが、どうやらそう言うわけでもなく。
「今日からしばらく、ブラックコーヒーは禁止です」
「なっ······⁉︎」
絶句してしまった。
今、この小さな後輩はなんと言った? 僕にコーヒーを飲むなと? 正気か?
「夏目先輩は流石にコーヒー飲み過ぎです。体に悪いので、私が協力する以上はバランスの良い飲食を心がけてもらいます」
「鬼! 悪魔!」
「どうぞなんとでも言ってください。それより、携帯光ってますよ」
僕の反論なんてどこ吹く風。小泉はテーブルに置いていた僕の携帯を指差す。走り込みに行った時は邪魔だから家に置いていたから、その時の通知を知らせているのだろうか。
後輩を恨みがましく睨みながらもスマホを取ると、どうやら白雪からラインが来ていたようだった。
『暇』
『今からそっち行くから』
と、丁度外に出てる時に来ていたらしい。
いや、て言うか。え、来るの? 今から? まだ朝の九時なってないんだけど。早くない?
「どうしたんですか?」
僕がスマホの画面を見ながら固まっているのに気がついたのか、小泉が声をかけて来る。それと同時に、また白雪からラインが届いた。
『今着いたわ』
だから、早いって。
しかしこの状況はまずい。僕はどこからどう見ても風呂上がりで、小泉はジャージの上を脱いで随分とラフな薄着一枚。さっきまで外にいたからか、汗もまだ乾いていない様子。場合によっては、あらぬ誤解を受ける可能性も。
果たしてこの状況をどう対処すべきかと考えていると。
──ピンポーンと、チャイムが鳴った。
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