第45話

 実を言うと僕はもうダメです。

 突然こんなこと言ってごめんね。

 でも本当です。

 昔どこかで読んだなにかの漫画のそんなフレーズが頭をよぎる。正しくは、地球がダメになっていたはずだけど。

 玄関から聞こえてきたチャイムの音。僕の目の前で小首を傾げている小泉。さて、この状況で僕が取るべき行動とは。


「さて、小泉。早速作戦会議とやらを始めようぜ」

「え、あの、チャイム鳴ってますよ?」


 悪いな白雪。今日はちょっと都合が悪いから出直してきてくれ。いや、そもそも今チャイムを鳴らしてるのが白雪だとは限らない。新聞の勧誘とかそんなのかもしれない。だから僕には無視する権利がある。


「気のせいじゃないか? ほら、今日から練習始めたいし、さっさと──」


 ピンポーン。

 ピンポンピンポーン。

 ピンポンピンポンピンポンピンポーン。


「あの、夏目先輩。なんか段々怖くなってきたんですけど······」

「奇遇だね、僕もだよ······」


 連打しすぎじゃない? ご近所さんの目とか気にならないのか。

 これはやっぱり出た方がいいのだろうか。いくら今が夏だからって、こんなホラーじみた行為はして欲しくないんだけど。

 いよいよ本当にどうしようかと悩んでいると、手に持ったままのスマホが震える。白雪からラインの通知だ。もうこの時点で嫌な予感しかしないんだけど。意を決して開いたラインには。


『あ け ろ』


 僕は玄関まで走った。それはもう全力で。

 突然の僕の行動に、状況を把握出来ていない小泉は訝しげな目を向けてくるばかりだが。こう、なんと言うか、本能とか第六感とか、そう言う類のものが僕に告げていたのだ。早く開けなければ死ぬぞ、と。

 走った勢いを殺さずに開いた玄関の扉。その先には勿論、白雪桜が立っていた。


「おはよう夏目。随分と出てくるまでに時間がかかったみたいだけど、もしかして寝てたのかしら?」


 立っていたのだが、何故か凄い笑顔だった。目以外は。怖い。

 今日の白雪は白い無地のブラウスにミニスカートと黒いタイツを履いていて、どこかの制服のように見えなくもない。て言うかタイツ暑くないのかな。


「お、おはよう白雪。夏休みだからって流石にこんな時間まで寝てるわけないだろ? 僕はそこまで怠惰じゃないよ」

「そう。じゃあ家に上がらせてもらっても大丈夫よね」

「いや、それはちょっと······」

「あら、この暑い空の下私を待たせておいて家には上げられないって言うの? 随分と偉くなったものね」


 偉くなったものなにも。ここは僕の家だから、君を上げるかどうかは僕の裁量次第だと思うんだけど。

 などと思っても今の白雪にそんなこと言えるわけもなく。そうしてグダグダやってるうちに、背後から足音が聞こえてきた。


「夏目先輩? なにかありましたか?」

「あら?」

「あ」


 あぁ······。エンカウントしてしまった······。

 変な誤解がどうとかの前に、この二人はあまり仲が良くないから、出来れば会わせたくなかったのに······。


「夏目?」

「はいっ」

「こんな朝早くから後輩を家に連れ込んで、どう言うことか説明してくれるかしら?」


 まあ、そうなりますよね。だが別に、実際やましいことなんて一つもないのだ。白雪には素直に全部説明すればいいだろう。

 そう思い口を開こうとしたが、それよりも先に小泉から言葉が発せられた。


「白雪先輩こそ、こんな朝早くから夏目先輩の家に来るなんてどうかしたんですか? あ、まさか夏休みになって寂しかったとか?」

「あなたバカなの? 夏休みは始まったばかりなんだなら、寂しくなるなんて有り得ないでしょ。あなたこそ、つい最近まであんなに夏目のこと嫌ってる風だったのに、この男が野球するってなったら靡くのね。やっぱり小さいと体重だけじゃなくてお尻まで軽くなるのかしら」

「小ちゃくないですし! 尻軽でもないですし!」

「ふ、二人とも、取り敢えず喧嘩はよそうぜ?」

「先輩は黙っててください!」

「あなたは黙ってなさい」


 いや、そう言われても、ここ、僕の家なんだけど······。夏なのに寒気がする。おかしい。女の子って怖いなあ······。








 その後暫く玄関で口喧嘩を続けていた二人だったが、白雪が自慢の毒舌でマウントを取って小泉が泣きかけたところで、流石に無理矢理僕が止めた。泣かれるのは本当に困る。


「なるほど。このおチビさんがあなたの特訓に協力すると」

「おチビさんじゃないです!小泉綾子ですっ!」


 リビングで落ち着いて全部説明すると、白雪は納得してくれたらしい。因みに、白雪と小泉の間には二十センチ近く身長差がある。小泉が小さいのもあるが、白雪が女子にしては身長が高い方だからと言うのもあるだろう。

 そんなモデル体型白雪さんは、どうしてかムスッと不満そうに僕を睨む。可愛い。睨まれてるのに怖くないとか珍しい。


「私も今日はそのつもりで来たんだけど、まさか先を越されるなんてね。不愉快だわ」

「僕にそんなこと言われても困る。小泉とはさっき走り込みに行った時会ったんだから仕方ないだろう」

「もしかして嫉妬ですか〜?」

「煩いわね。縮めるわよ」

「これ以上縮めないでください!」

「話が進まないから喧嘩しないでくれ······」


 はぁ、とため息を吐くと二人とも身を引いてくれた。まだ睨み合ってはいるけど。


「それで、特訓って具体的になにをするのよ」


 これ以上続ける気もないのか、白雪が漸く本題に入ってくれる。て言うか、さっき白雪は手伝いに来たとか言ってたけど。さりげなく僕はそれを流しちゃったけど。冷静に考えれば、それって凄く喜ぶべきことなのでは?

 だってあれじゃないか、苦しい練習も白雪からの黄色い声援があれば頑張れるし、終わった後にお疲れ様の一言さえあれば次も頑張ろうと思えるし、よしんば手料理なんて食べることが出来た日には嬉しすぎてまた練習が捗るのでは?

 惜しむらくは、白雪の性格的に労いの言葉どころかこちらを叱責する言葉しか吐きそうにないことだが。夢を見る間もなかった。悲しい。


「特別なことはなにもしませんよ。夏目先輩には体力づくりと筋トレ、あとは硬球の感覚に慣れてもらうだけです。昔の勘はそのうち取り戻せますし」

「それだけなら私もあなたも必要ないじゃない」

「私はキャッチボールの相手をしてあげられるので。あれ、そうなると必要ないのは白雪先輩だけですかね?」

「なんですって?」

「なんですか?」


 この二人はいちいち相手に喧嘩を売らないと気が済まないのか······。頼むから仲良くしてくれ······。


「ふんっ、私にだって出来ることくらいあるわよ。陸上選手の妹の面倒を何年見て来てると思ってるのかしら」

「じゃあ、例えばなにが出来るんですか?」

「練習で疲れた小梅を癒してあげたり、小梅に美味しいご飯作ってあげたり、小梅と一緒にお風呂入ってあげて背中を流したり」

「それ、全部小梅ちゃんにやってることだろ。僕相手に出来るのか?」

「あら、出来るに決まってるじゃない。私を誰だと思ってるのかしら」


 え、お風呂も? お風呂で背中流すのも出来ちゃうの? いいの?


「て言うか小梅って誰ですか。大夫ですか」

「あらこんなところに自殺願望者が」

「だから、喧嘩するなって!」


 今のは小泉も悪気があったわけではないのだろう。実際僕も、小梅ちゃんの存在を知らなかったら同じことを考えそうだし。


「で、本当に同じこと出来るんです? 夏目先輩ですよ?」


 その夏目先輩ですよ、がどこかバカにしたような口調に聞こえたのは気のせいだろうか。


「ええ。例え相手が夏目でも問題ないわ。試しにやってあげましょうか?」


 ソファに座っていた白雪が立ち上がり、その向かいで座布団に座っている僕へと近づいてくる。なんだか嫌な予感がして後ずさりしてしまうが、その度に白雪は僕との距離を詰める。


「し、白雪······?」

「動かない」


 その言葉と、目の前にまで迫って来た白雪の綺麗な顔に、僕の動きは硬直した。ふとした拍子にこんな距離まで近づかれたことはこれまでもあったような気がするけど、その時とは状況が違いすぎる。

 二人きりと言うわけでもなく、演劇の最中と言うわけでもない。

 一体なにをされるのかと期待半分不安半分でいると、しかし白雪は動きを止めず、その顔に優しい笑みを浮かべて、なおも近づいて来る。

 やがてこちらに伸ばされた腕は、僕の背中に回された。

 制汗剤の爽やかな香りが鼻腔を擽る。全身には女の子特有の柔らかさが押し付けられる。それだけでも酩酊したような気分に陥っていたのに、後頭部には撫で付けられるような感触があって。ちらりと目を横に動かせば、真っ黒なカーテンに隠れた耳がチラリと顔を覗かせていた。

 つまり。僕は今。白雪に抱き締められている。

 その事実を確認すると同時、ボンっと音が鳴ったのではないのかと錯覚するほど、顔に熱が集まってしまう。あまりにも突然過ぎて空を彷徨う両手はわなわなと震え、反対方向に目だけを向けると、小泉は呆気に取られてポカンと口を開けていた。

 そしてバクバクと煩く鳴り響く心臓の音だけを捉えていた耳に、穏やかで綺麗な声が、スッと入ってくる。


「お疲れ様。今日も一日、よく頑張ったわね」


 後頭部を撫でる手つきはどこまでも優しい。ポンポンと背中を叩かれ、胸の内に安心感が齎される。

 不覚にも、泣きそうになってしまった。

 まだ両親が生きていたころ、何度もこうして頭を撫でてもらった記憶がある。試合で活躍した時、テストで良い点を取った時。その時の両親の顔は、今の白雪と同じような、とても優しい笑顔で。


「な、な、な、なにしてるんですかー!!」


 リビングに轟いた怒号にハッとなって、意識が現実へと浮上する。

 離れていく白雪の感触。それに名残惜しさを覚えていると、それを悟られたのだろうか。最後にポンポンと頭頂部を優しく叩かれた。

 ふふっ、と笑みを向けられ、恥ずかしくなって視線を逸らしてしまう。


「なんですかなんのつもりですか見せつけてるんですか⁉︎」

「あら、あなたが出来るのかと聞いて来たから、試しにやってみただけよ?」

「そ、それでもそんな、破廉恥な······!」


 さっきから叫んでいる小泉の顔は、どうしてか僕よりも真っ赤だ。いや、なんでだよ。君が恥ずかしがる要素全くなかったろ。


「あらあら、おチビさんは随分とウブなのね。可愛いじゃない」

「だからチビじゃないですし! 同性同士ならともかく、そんな、異性でやるなんて、恋人でもない限りおかしいじゃないですか!」


 うん。確かにその通りだけど。全くもってその通りだけど。

 でも実際、練習終わりにあんなことをされたら癒されるのは確実であるし。なんなら癒されるどころじゃなくなる気もするし。


「夏目先輩! やっぱり白雪先輩は必要ないですっ! 練習終わりにあんな、あんな破廉恥なことする人はいらないですよ! 不採用ですよ! ね⁉︎」

「採用で」

「やったっ」

「なんでですかー!!」


 悩むことなく即答した。

 小さくガッツポーズする白雪(可愛い)と、絶叫する小泉。

 なんでって。だって僕にとってはメリットしかないからね。

 ところで、あの、ご飯は当然として、お風呂も期待していいんですか······?

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