第46話
左手全体を覆う革の感触を確かめる。
懐かしい。本当に懐かしい感触だ。結局三枝とはまだキャッチボール出来ていないから、今日がまさしく二年ぶり。なんだかんだで落ち着いてしまうのは、やはり僕が根っからの野球好きだからだろう。
「どう? 二年ぶりに嵌めたグローブの感触は」
現在十時過ぎ。場所は移って家の近くの公園。
すぐそこのベンチに座った白雪が問いかけて来た。屋根も備え付けられているから、根っからのインドア派な彼女が熱中症で倒れたりする心配はないだろう。
「悪くはない、かな」
このグローブは、事故に遭った時にも嵌めていたもので。今こうしていると色々と当時のことを思い出してしまって、頭の片隅にズキリと鈍い痛みが走るけど。それでも、ちょっと前よりはマシだ。これくらいなら、問題なく投げられる、はず。
「さて、じゃあ小泉。早速頼むよ」
「はーい」
少し離れた位置に立っている小泉は、キャッチャーミットを嵌めている。我が家の押入れの奥に眠っていたものだ。
最初はなるべく近い距離から。徐々に距離を離して行って、肩が温まってきた頃にピッチング練習に入る。
右手の硬球を握り直し、振りかぶってからボールを投げた。
「重っ······」
軟球と硬球の違いは、読んで字の如く硬さもあるけれど、投げる際になにより実感するのはその重さだ。硬球は約145グラムほど。中学の時に使っていた軟球のB号は約133グラム。この差は大きい。
小泉は小学校の頃、クラブチームで普通に選手としてプレイしていたらしく、今でも樋山とキャッチボールをするらしい。だから、難なく僕のボールを受け止めてくれる。
その後何球か投げ続けているとあっという間に塁間距離にまで達して、それなりに力を込めて投げないと届かないようになって来た。
既に数十球投げているが、やはり全盛期と比べてかなりの衰えを感じる。今日は初日だと言うのもあると思うが、思うようにボールが走ってくれない。コントロールもかなり雑になってしまっているし。暴投と言えるようなものが無いだけまだマシか。
「楽しそうに投げるわね」
暫く距離を変えずに投げていると、近くのベンチから声が掛かった。
「そりゃ、楽しいからね」
小泉からの返球を受け取りながら答える。ボールを投げて捕ってを繰り返しているだけだが、やっぱり久しぶりのキャッチボールは楽しい。
「結局君の言う通り、諦めきれてなかったんだよ」
言いながら投げる。捕球したミットはポスッと気の抜けた音を鳴らした。それが少し不満で首を傾げてしまう。
「そう簡単に諦め切れるものなら、キャッチボールごときでそんな顔できないでしょうね」
「どんな顔?」
「鏡でも見てごらんなさい」
今度は僕のグローブがパスッと音を鳴らす。
鑑を見ろと言われても、今この場にそんなものはないし。キャッチボール中に見る気にもならない。
「そう言えば白雪」
「なに?」
「昼ごはん、なに作ってくれるんだ?」
「私が作るのは決定なのね」
「言い出しっぺは君だろう」
会話をしながらボールの握りを確認する。
はぁ、と呆れたようなため息が聞こえてくるが、小梅ちゃんにしていたことと同じことをしてくれると言ったのは白雪自身だし。因みに、お風呂で背中流してくれるのもまだ期待は捨てずにいる。ワンチャンあるかもしれないしね。
「なにが食べたい?」
「そうだな······。白ご飯が進む感じのやつで」
「なら豚の生姜焼きとかかしら」
「いいね、楽しみ、だっ」
スパンッ! と気持ちのいい音が鳴った。うん。今のは我ながら会心の一投だった。小泉もミットを外して手を振っている。痛かったらしい。
「あんまり思い切り投げたらあの子が可哀想よ」
「全力で投げてないから大丈夫」
恨みがましい視線を僕に向けながら、小泉がボールを返してくる。その後数歩前に出て、こちらとの距離を確認してからしゃがみ込んだ。ピッチング練習に移るらしい。
「距離、あってるの?」
「多分ね」
マウンドからホームまでの距離は大体十八メートル。長いこと野球をやってる人間なら、目測でもその距離は掴める。
目を閉じて長い深呼吸を一つ。瞼を上げて、視線を構えられたミットに固定。
グローブの中でボールの握りを確認する。軟球との感覚の差異はキャッチボールで修正出来た。ワインドアップの姿勢で振りかぶり、キャッチャーミット目掛けて思い切り腕を振り抜く。
「ふっ······!」
構えた通りのところにボールが届き、スパンッ! とミットが快音を鳴らす。初球にしては中々のボールではなかろうか。
どうだ見たか、と言わんばかりに白雪の方へ振り向くと、どうして彼女の頬は赤く染まっている。そして僕の視線に気がついたのか、直ぐに顔を逸らされた。えっ、なんで?
白雪の表情に疑問を覚えながらも視線を戻せば、捕球した小泉は首を傾げており、立ち上がってこちらに駆け寄って来た。
「全然ダメですね」
「えっ」
自分ではそれなりの投球だったと思っていただけに、小泉のその言葉は完全に予想外。ボールを手渡しで返された後、やれやれわかってねぇな、みたいな感じで肩を竦める小さな後輩。ちょっとムカつく。
「まず肘が上がってないので、腕が振り切れてないです。重心もぶれぶれだし、ボールに体重が乗ってません。めっちゃ軽いです。それから左腕、もっと引いてください。こんなんだと修二を打ち取るどころか、初球からホームラン打たれますよ」
「そ、そんなに酷いのか······」
投球フォームを確認するには、どうしても客観性が必要だ。投げるだけでは分からないから、誰かに見てもらって指摘されたり、ビデオカメラで録画して自分の目で確認したり。だから、自分で完璧なピッチングが出来たと思っても、人から見たらそうでない時なんて良くある。
だけど、まさか今の僕がそんなに酷いとは。
「それってそんなに酷いの?」
あまり野球に明るくない白雪から質問があった。その頬は既に元の色を取り戻していて、本当にさっきの赤面はなんだったのか、謎が深まる。
「まず、肘が肩よりも下がってると、高確率で野球肘になります。ピッチャーとしてはそれは絶対避けたいです。で、左腕を引くのは、まあ勢いをつけるとか、そんな感じです。重心がぶれてたらボールに体重も乗りませんし、リリースポイントもめちゃくちゃなものになって見事ノーコンピッチャーの出来上がりです。原因は下半身が貧弱ってことなんですけど······」
淡々と説明する小泉だったが、そこで一旦言葉を区切った。その続きをどこか言いにくそうにしていて、彼女が言いたいことを悟った僕が続きを引き継いだ。
「事故の時の怪我なら、もう治ってるはずだよ。医者からも、普通に運動出来るとは言われたしね」
二年前の事故で僕が負った怪我は、それはもう酷いものだった。暫くは車椅子での生活を余儀なくされていたし、走れるようになったのは奇跡みたいなもんだ、と医者から言われた程に。
「だから、怪我は関係ないよ」
原因を考えるとしたら、それは多分、精神的なものによるところが大きいだろう。こうして普通にボールを投げられていたとしても、完全にトラウマが払拭されたわけではない。さっき一瞬だけ感じた頭の痛みがその証拠だ。
ただ、それを小泉に伝える必要はないだろう。実際に下半身の筋力不足も原因の一つではあるだろうし。
「なるほど······。じゃあ今後の筋トレメニューは下半身強化を中心に考え直さないとですね。走り込みも今日より増やす方向で」
「うへぇ······。あんまりキツイのは勘弁だぜ?」
「文句言っては暇があるなら、投球練習続けますよ」
とてとてと元の位置に戻っていく小泉。どうやら今後は、かなりスパルタになるらしい。今から筋肉痛が怖くなって来た。
「夏目」
「ん?」
「大丈夫なの?」
浮かべている表情自体に色はないが、その瞳の奥には、明らかにこちらを心配しているようなものを感じられる。
そう言うのを僕に向けてくれることが嬉しくて、けれど同時に、どこか申し訳なくなる。
「さっきも言った通り、別に昔の怪我はなんも関係ないよ。だから大丈夫だ」
「そうじゃなくて──」
「大丈夫。大丈夫だから」
白雪の言葉と被せるようにして放ったそれは、きっと自分に言い聞かせるためのもので。
そう、大丈夫なんだ。こうしてまたグローブを嵌めて、ボールを投げることが出来て。それだけでもう、十分すぎるくらいなんだ。なにも問題はない。少しだけ、ほんの少しだけ頭が痛むだけ。そんなもの、気にするほどのことでもないんだ。
「それに、練習が終われば頭撫でてくれるんだろ? だったら大丈夫じゃなくても、まだ頑張れるよ」
「······そう」
表情こそいつもと変わらない。単なる無表情。白雪のデフォルトだが、やっぱり瞳の奥に覗くその色は消えずに僕を見ている。
それに気づかないフリをして、僕は次の投球に移った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます