第29話
甘ったるくて吐きそうだ。
元来僕は、甘いものを好んでいるような人間ではない。特別嫌いというわけでもないし、美味しいのなら喜んで食べたいと思う。しかし、甘いものと言うのはどうにも苦手な部類に入る。逆に苦いものや辛いもの、酸っぱいものなどはどちらかと言うと好きな部類に入るのだが。
まあ、僕の好物の話は別にどうでもいい。
問題は、部室に蔓延した変な空気だ。
今この場にいるのは神楽坂先輩と三枝、そして僕の3人。白雪はまだクラスの方で劇の練習をしている。小人役と白雪姫役はセリフが比較的多いので、部活に遅れることは誰も文句を言わなかった。そもそも、彼女は図書委員の仕事で週に一度不参加の日がある。今日は丁度その日にも該当するので、結局部室には顔を出さないだろう。
いや、白雪がこの場にいるかいないかも関係ない。
僕の向かいに座る三枝が打鍵する手を止め、チラリと視線を動かす。その先にいるのは、我らが部長神楽坂先輩。どうやら先輩も勉強の手を止めて三枝の方に目をやっていたらしく、二人の視線が交差する。
しかし、それも一瞬のこと。弾かれたように視線を逸らした二人は、再びそれぞれ執筆と勉強に戻る。
二人とも、その顔はトマトのように真っ赤だ。
敢えて繰り返し言わせてもらおう。
甘ったるくて、吐きそうだ。
「あー、ちょっと休憩してきま──」
「え」
「え?」
流石にこの空気に耐えられなくなってきたので、図書室に白雪を冷やかしに行くついでに愚痴ってやろうかと思ったのだが、二人から縋るような目を向けられた。
二人きりにするな、と言うことらしい。
この、脳みそに直接砂糖をぶっかけられるような空間に留まれと、そう言うのか。
「······やっぱりもうちょっと頑張ります」
ため息を我慢することもなく、渋々と椅子に座りなおす。
執筆に集中すれば、二人の様子も気にならなくなるだろう。問題はさっきから全く集中出来ていないことなのだが。あと数千文字で終わらせることが出来そうなのに、その数千文字が全然浮かんでこない。
寧ろ初めての執筆、初めての創作活動にしては頑張ってる方ではなかろうか。話作りのノウハウもなにも知らない四月時点から今日まで約二ヶ月。その短期間で10万文字近く書いていて、定期的にチェックしてくれる先輩からの指摘も、細かい誤字脱字などで済んでいる。もしや天才なのでは、と何度も思った。そう思わないとやってられなかった。
「あっ」
ふいに、三枝が声をあげた。そして暫しパソコンの画面とにらめっこした後、お手上げとなったのか神楽坂先輩を呼ぶ。
「かぐ······。も、紅葉っ、せ、んぱいっ。ちょっと聞きたいことがあるんですけど······」
「へっ⁉︎ な、ななななにかなっ、あき、と、くんっ⁉︎」
なんだ君たちは。声を裏返しながら喋らないといけないルールでも設けているのか。普通に喋れ。
しかし、なるほど。今日のこの部室の雰囲気は、その呼び方が理由だったか。ひとまず一旦、このムカつくくらいに甘い空間のことはさて置くとして。
やったじゃないか親友。それは立派で大きな一歩だぜ。今日の放課後奢る予定のラーメンは、少し豪華にしてやろう。
「その、ここのとこなんすけど······」
「あ、うん······」
三枝の執筆はもう終わりかけだ。今は校正作業を行っていて、それが終われば三枝の文芸部としての初仕事は終了となる。
未だ顔は赤いものの、三枝は真剣な表情で神楽坂先輩に質問する。先輩も三枝の隣まで移動して、彼の指し示す箇所を確認するのだが。
「······」
「先輩?」
赤い顔でぼーっと三枝の横顔を見つめる神楽坂先輩。返事がないことを疑問に思ったのか振り返った三枝は、その距離の近さに驚いて後ずさろうとし、長机に思いっきり肘をぶつけていた。
「〜〜〜っ!!」
「だ、大丈夫⁉︎」
結構鈍い音が鳴った。多分めっちゃ痛いやつだ。腕がジンジンするやつ。ざまあみろ。
「大丈夫です······。大丈夫ですから、その、先輩ちょっと、近い、です······」
「あっ······」
三枝を心配して更に距離を縮めていた神楽坂先輩だったが、その指摘によってこれ以上らないと思っていた顔の色をまだ赤く染め上げる。
対する我が親友も同じ色の顔をしていて、このままでは二人とも、風呂に浸かってるわけでもないのに上気せるのではないだろうか。
互いに目を背け、言葉も途切れてしまう。
昨日は僕と白雪が、小泉に中学生カップルかと突っ込まれてしまったが、中学生でもこうなりはしないのではないだろうか。
て言うか、いい加減限界だ。
「やっぱり休憩行ってくる」
「ちょ、夏目君⁉︎
「智樹⁉︎」
これ以上こんな所にいられるか。僕は図書室に退避させてもらう!
「何しに来たのよ」
図書室を入ってすぐの所に設置されたカウンター。そこに座って文庫本を読む白雪は、やはりそこから顔を上げることもなく不機嫌そうな声を掛けてきた。
僕から話しかけた訳でもないと言うのに、どうして僕だと分かったのだろう。不思議で仕方ない。
「逃げて来たんだよ」
「敵前逃亡は銃殺刑よ」
「どこの国の軍規だよ。もう少し個人の意思を尊重してもらいたいね。逃げるのだって勇気が必要なことだぜ?」
いや本当。あの桃色空間で休憩してくると伝えるだけでも、相当勇気が必要になった。しかしあの場で逃げなければ、僕の脳味噌は今頃砂糖漬けにされていたことだろう。その結果、糖分過多で死んでしまってもおかしくない。父さんと母さんの方に行くには早すぎる。
「甘いものが好きな君なら、あの空間は気にいると思うけどね」
「ならあなたは、あの二人に苦い思いをして欲しいって言うの? 薄情な男なのね。軽蔑するわ」
「君も部室に行ったら、僕の気持ちが理解できるよ。嫌という程ね」
どうも白雪は、僕が図書室に来た理由に検討がついているらしい。相変わらず察しのいいやつだ。
今日は何を読んでいるのかと、彼女の文庫本を覗き込んでみるも、そのページに羅列された文字だけでは、どのような物語なのか理解出来ない。
「なに読んでるんだ?」
「青春ラブコメ」
「ああ、そう言えば読んでるって言ってたっけ。面白い?」
「面白いわよ。今度一巻貸しましょうか?」
「僕の原稿が終わったらお願いするよ」
僕はライトノベルを読んだことはないから、これはいい機会かも知れない。
キリのいい所まで読めたのか、白雪は文庫本を閉じて顔を上げる。切れ長の目と視線がぶつかり、ふいに昨日のあれやこれやが思い返された。
どうやら僕も、三枝と神楽坂先輩のことは言えないらしい。だってこんなに、顔が熱くなってるのだから。
「あら、どうかしたの? 好きでもない相手とデートの真似事をする夏目智樹さん?」
「まだ根に持ってるのか······」
もう何時間経ってると思ってるんだ。いや、謝ってない僕も悪いのかも知れないけれど。中々タイミングが掴めなかったんだから仕方ない。
「まあ、同意はするけどね。私だって、好きでもない相手と手を繋いだり名前で呼ばれたりするのは嫌だもの」
「······」
それはつまり。少なくとも僕に対しては、好意的な感情を持ってくれてると言うことで。
どうしてこんなにも、嬉しい気持ちで胸が詰まるんだろうか。
そりゃ、嫌われるよりかはいいに決まってるけど。白雪桜にそう言ってもらえる、思ってもらえることが。
僕はこの上なく嬉しく感じる。
「結局、言葉なんてのは捉え方の問題なのよ」
「······いきなりなんの話だよ」
あまりにも唐突で脈絡のないその言葉に疑問を呈すると、白雪は朝からの不機嫌が嘘のように、クスクスと楽しげな笑みを浮かべていた。小悪魔のような、なんて形容が似つかわしいだろうか。
「だって、昨日私とあんなことをしてくれたあなたは、少なくとも私に好意的な感情を抱いている。そう言うことでしょう?」
こちらを揶揄っていることは十分に理解出来る。それに翻弄されないように、とも思っている。
けれど心臓は勝手に暴れ出して、顔の持つ熱は上昇するばかり。
普通そう言うのは、分かってても本人に言わないものだと思うのだが。
ふと視線を感じて、赤くなった顔を誤魔化す意味でも図書室内を見回してみる。視線だけでなく意識までも自分から逸れたためか、ムッとなった白雪が横目に見えた。それはそれで可愛いから放っておく。
図書室は相変わらず閑散としていて、僕と白雪の話し声に注意するような生徒はいない。しかし机の置いてある方に視線を投げると、そこにいる殆どの生徒が僕たち二人を見ていた。
「おい白雪。なんかめっちゃ見られてるぞ。君の話し声が大きいんじゃないか?」
「馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ。私より明らかにあなたの声の方が大きいでしょ」
「仮にも図書委員が図書室でお喋りとかどうなんだよ?」
「ここに来たあなたが悪いわ」
「話しかけて来たのは君だ」
なんて会話をしながらも、僕は理解していた。ここにいる生徒はきっと、僕と白雪がデートしていた噂を聞いていたのだろう。噂どころではなく真実ではあるけど。
多分白雪もそれを理解していて、それでもこうして軽口に乗ってくるのはどうしてだろうか。少なくとも、僕は恥ずかしいから、以外の理由はない。
「で、あなたいつまでここにいるつもり?」
「部活終了ギリギリまでかな。君が部室に行くってんなら、ついていってもいいけどね」
「お断りよ。どうせ二人とも慣れない名前呼びを続けてて、そのせいで恥ずかしくなって変な空気になってるんでしょう? なにが楽しくてそんなの見せつけられなきゃダメなのよ」
「まあ、それもそうか」
さしもの白雪も、あの甘ったるい空間はダメなのか。想像するだけで気が滅入るらしい。
「それじゃ、暫くはここにいるよ」
「好きにしなさい」
そう言って再び文庫本を開く。
読書をする白雪の姿は相変わらず美しく、まるで芸術品のようだ。それをこの学校で最も近くから見ることが出来ている。
そう思うと、何故だか妙に胸が弾んだ。
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