第30話
文化祭までは既に一ヶ月を切っている。
先日流れた噂のお陰で、演劇の練習は盛大に冷やかされながらとなってしまっていたけど、それでもどうにか、最初の棒読みよりかはマシになっていた。
マシにはなっていたのだが、どうしても白雪の顔を見ると緊張してしまっていけない。そこは噂云々関係なくて、ただ、演技を始めた時の彼女が、常識の埒外にあるような美しさを醸し出しているから。僕がそれに見惚れてしまっていると言うだけ。
演劇の方は、まあそんな感じで一応は形になって来ているところだ。白雪は練習初日から既に完璧だったし、僕の棒読みも改善されつつある。
では文化祭において、僕にとってのもう一つの目玉と言うか見せ場。小説の方はどうなのかと言うと。
「終わった······」
腹の底から、鉛のように重いため息と言葉が漏れた。そのまま長机に突っ伏して脱力する。もう暫くはパソコンに触りたくない······。なんなら文字を読みたくもない······。
コーヒーだ、誰かコーヒーを僕に恵んでくれ。そう思って顔を上げた先。僕の隣には白雪がいて。
「お疲れ様。はい、これ」
労いの気持ちなんて全く篭ってなさそうな無表情と声音で、僕の前にブラックコーヒーを置いてくれた。視線もいつものように文庫本に固定されている。けれどまあ、貰えると言うのならお言葉に甘えよう。
「お疲れ様夏目君。データ、こっちに貰っていい?」
「はい、メールでそっち送りますね」
体を起こして再びパソコンと向き合い、神楽坂先輩のアドレスを選んで、原稿のデータをメールにて渡す。
「わたしも所々見てたから、校正は特に必要ないと思うけど、どうしても直して欲しいところがあったらまた言うね」
三枝はもう全作業が終了していたし、神楽坂先輩の表紙デザインなどの仕事も終わっていたから、あとは僕を待つだけとなっていたのだ。ここまで待たせてしまって、申し訳ないやらなんやら。
予定では、来週に印刷した見本誌が届き、再来週には発行予定の五十冊全てが届くらしい。いやはや、自分が書いた文字が本になるとは、なんだか感慨深い。しかし反面、怖くもある。果たして変なことは書いていないか。文化祭で販売して、手に取ってくれるのか。そして、白雪は満足してくれるのか。
「なに?」
「いや、なにも」
そんなことを考えながらチラリと隣を見ると、こちらに一瞥もくれることなく反応される。話すときは相手の目を見ろと教わらなかったのか。
机に置かれた缶のプルタブを開けて、喉に流し込む。思考を一旦落ち着かせ、頭の中をクリアにする。
大丈夫。あの時みたいに、全てが無駄になることなんてない。あとは神楽坂先輩に任せればオーケーだ。
「そう言えば」
読書の手を止めて、白雪が顔を上げて口を開いた。そして誰も座っていない対面を見ながら言う。
「三枝、遅いわね」
ビクッと肩を震わせたのは神楽坂先輩。白雪も趣味が悪い。どうせわざと分かりやすく言っているのだろう。分かっていて止めない僕も同罪か。
三枝に早く来るようラインしようと思ったら、向こうから先にラインが来ていた。
「今日は来れそうにないみたいだぜ。どうも、練習が長引いているらしい」
「あら、それは残念」
本当に練習が長引いているのかどうかは分からないが、まあここは親友の言葉を信じてやろう。ラインに了解と返信を送り、ついでに僕の原稿が全て終わったことも伝えて、スマホをスリープモードにした。
作業をしていた先輩が手を止めて、パッと笑顔を見せる。
「なら、今日はちょっと早いけどそろそろ終わろっか」
「いいんですか?」
「なにが?」
「三枝と会ってませんけど」
先輩と三枝は学年が違うから、校内で会う機会がと言えば部活くらいしかない。休み時間や登校した直後など、会おうと思えば会えるが、二人の性格上そんなこともないし。
だから今のも、白雪なりに気を遣った発言だったんだろう。最近の二人の、あの妙にじれったい雰囲気を見ていれば尚更気を遣いたくなる。
「あはは、別に大丈夫だよ? その、勿論会いたいとは思うけど、最近わたし達、ちょっとあれだったでしょ?」
言わんとしてることは分かる。急に距離を詰めすぎたせいか、二人ともがお互いに、どう接していいのかが分からなくなっているのだろう。いつまで引きずってるんだと言いたくもなるが、恋愛初心者の二人なのだから仕方ないことだ。
「まあ、紅葉さんがいいならいいけど······」
「うん、いいの。ほら、帰ろっか」
これで話はおしまいとばかりに、神楽坂先輩が率先して帰り支度を始める。白雪もそれに渋々と言った様子でそれに倣う。
一応先に終わってるのを三枝にラインで伝え、戸締りを確認した後に三人揃って部室を出た。
「わたしはちょっと教室に用事があるから、二人は先に帰ってていいよ」
「分かりました」
「お疲れ様です」
文化祭に関することだろうか。神楽坂先輩は教室への近道となる連絡通路に向かい、僕と白雪は昇降口に向けて歩き出す。
部活が終わった後は、大体それぞれがバラバラに解散するから、こうして白雪と二人きりで下校するのは初めてだ。まあ、それも校門までの話ではあるけど。
「どうにかならないものかしらね」
「あの二人のことか?」
「ええ」
そんな折、白雪が呟いた。困ったように眉根を寄せて腕を組んで歩いている。どうやら、本気で頭を悩ませているようだ。
「あまり僕達が考えても意味はないだろう。これはあの二人の問題なんだし」
「とは言っても、あの様子じゃ三枝が本当に告白するのかも怪しいわよ?」
「お互いが意識し過ぎてるからなぁ」
確かに白雪の言う通り、このままだと三枝が文化祭の時にちゃんと告白出来るのか不安だ。神楽坂先輩に至っては、三枝の名前を聞いただけで反応する始末。
とは言っても、僕達が気にし過ぎてもどうしようもないのも事実だ。
「ここは見守るしかないと思うぜ。両思いなのは分かってるんだし」
「ああ言うのは両片思いって言うのよ。変なところで空回りそうで見てられないわ」
「て言っても、僕たちにできることなんてもう無いに等しいぜ?」
「そうなのよね······」
「君は心配性過ぎるんだよ。あの二人ももう高校生なんだし、自分の恋愛くらい自分でどうにかするさ」
「だといいんだけど」
それきり会話が途切れ、二人とも黙ったまま静かに昇降口へと足を進める。そうなるとどうしてか、白雪と二人きりと言う事実を嫌でも意識してしまって。
あのデートの真似事以降、どうしても彼女のことを意識し過ぎていけない。今だって、なんだか以前よりも距離が近いような気がしてしまうし、盗み見た彼女の横顔は差し込む夕日に照らされて、とても美しく見える。
「ああ、そうだ」
不意に何かを思い出したのか、白雪がこちらを向く。そうすると勿論、彼女の方を見ていた僕とバッチリ目があってしまって、不思議そうに小首を傾げられた。
「誰の許可を得て私の横顔を見てるのよ。不敬罪に当たるわよ」
「どこの国のどんな法律だ。別になんでもないよ。それより、君の方こそどうしたんだ?」
怪訝そうな視線を頂戴してしまったが、白雪に追求する意志はないのか、それ以上はなにも聞いてこない。その代わりに本来の要件を伝えようとして。
「夏目、あなたこの後──」
「白雪さん!!」
突然聞こえてきた大声に遮られた。
それはもう本当に大きな声だったので、不意打ちを食らってしまった僕と彼女は揃って肩を震わせ驚く。
声の聞こえてきた後方へと振り返ると、そこにいたのは見たことない男子生徒が。スリッパの色からして、二年の生徒だろう。薄く茶色に染めた髪の毛は、どこかチャラそうな印象をこちらに与える。
「知り合い?」
「いえ」
小さな声で尋ねてみるも、どうやら呼ばれた白雪は相手を知らないようで。なるほど、これはあれか。噂に聞くあれだな? となれば僕がこの場にいるのは色々と都合が悪いだろうからさっさと退散してしまおう。
そう思って一歩後ずさったら、制服の裾を摘まれた。思いの外力が強い。
「どこに行くのかしら?」
「いや、僕はお邪魔かなと」
「ここにいなさい。その方が手っ取り早いから」
有無を言わぬ声音でそう言われてしまっては、従う以外の選択肢はなくなる。そうこうしているうちに男子生徒は僕たち二人の前まで辿り着き、勢いよく頭を下げて右手を差し出してきた。
「好きです! 俺と付き合ってください!」
思わず感嘆の声が漏れそうになった。
このご時世に、この時間では少ないとは言え人の往来がある廊下で、堂々と愛の告白。しかも白雪姫が相手と来た。僕には決して真似できない、勇気ある行いだ。
さて、そんな熱烈な告白を受けた白雪はと言うと。
「ごめんなさい。私、名前も知らない相手とお付き合いするような趣味はないの。そもそも、今私はこの男と会話していたんだけど。それを遮っていきなりそんなつまらない事を言ってくる相手なんて御免被るわ。て言うか、まずは名前くらい名乗ったらどうなの? そんなことも出来ないなんて程度が知れるわね」
うわぁ、と思わず声に出てたかもしれない。流石は白雪姫。容赦がなさすぎる。告白した名も知れぬ男子生徒君もこれには開いた口が塞がらないようで。
「あとそれと」
まだなにかあるのか。男子生徒君の体力はゼロだと言うのに。
白雪は射抜くような鋭い視線を投げかけ、トドメの一言を発した。
「私、好きな人いるから」
その一言に衝撃を受けたのは男子生徒だけでなく、僕も同様にだった。
先日、そんな話をした覚えはある。けれどその時に聞いた話では、中学の頃に一人だけ好きになったことがあると、そう言っていたはずだ。つまりこれは、告白を逃れるための嘘に過ぎない。そう理解はしているけれど、どうしてか胸にチクリとした痛みがあって。
「やっぱり、そこの夏目ってやつと付き合ってるのかよ」
「は?」
けれど次の瞬間に、僕の脳内はハテナで埋め尽くされた。僕と白雪が付き合ってる? なにがどうしてそんなことになってるんだ? 井坂には付き合ってないと弁明した筈なんだけど。
「さて、どうかしらね」
「おい白雪」
「そんなやつのどこがいいんだよ!」
明確な否定の言葉を投げない白雪に苦言を呈そうとするも、僕の言葉は男子生徒に遮られる。
こんなんで悪かったな。だがまあ、白雪姫とデートしていた、なんて噂が広まった時点で、こんなことを言ってくる奴が出てくるのは予想していた。だから対処法も考えている。対処法と言うか、噂を否定して事実を伝えればいいだけなのだが。
だが男子生徒の勢いはとどまるところを知らず、僕に反論の余地を与えないように言葉を続け、
「知ってるぜ俺。そいつ、中学の時に野球部の最後の大会前で逃げ出した臆病者だろ?」
否定の言葉は、僕の口から出てこなかった。
どうしてこいつがそんなことを知っているのかとか、それを今言ってなんになるのかとか、頭は勝手に色々と考えるけれど。
ああ、何故だろうか。小泉から同じような言葉を何度も投げかけられているのに、目の前のこいつに言われただけで、こんなにも苦しくなるのは。
「そんなやつ、白雪さんに相応しくない!」
「黙りなさい」
我が意を得たりとばかりに話し続ける男子生徒は、聞こえてきた凍てつく声音にその口を封じられた。直接その声を向けらていないのに、まるで喉元に鋭いナイフの切っ先を向けられているイメージが過ぎる。
「白雪······?」
様子がおかしくて声をかけてみるも、返事はなく。別に大きな声で怒鳴ったわけでもないのに、彼女はとても静かに、怒っていた。
「逃げ出した臆病者? よくもまあ詳しく知りもしないでそんなことが言えるわね。夏目は臆病者なんかじゃない。ずっと一人で戦って、一人で背負いこんで。憶測だけでモノを言うあなたなんかよりもよっぽど立派な男よ」
一瞬誰の話をしているのか分からなかったが、自分の名前が彼女の口から出ていたことに気づき、僕のことを話しているのだと遅れて理解する。
白雪がそんなことを言うなんてなんの冗談かと思いたかったが、彼女の表情は至って真剣だ。
「行くわよ夏目。こんな豚の餌以下の存在価値しかない男、目に入れるのですら嫌になるわ。私達の仲を邪推する程度ならともかく、巫山戯た妄言を吐くような輩の相手をする必要もないでしょう」
「ちょ、おい、白雪!」
呆気にとられたままの男子生徒を放ったらかし、白雪は昇降口への足を再度進める。僕もその後ろに急いでついて行った。
最後に振り返って見た男子生徒の表情は、酷く歪んでいて、悔しそうに歯ぎしりしていた。
色々と彼女に言いたいことはあったけれど、口にはしない。白雪もなぜかあんなに怒っていたことだし、わざわざぶり返すようなことはしなくていいだろう。
「それで、話の続きなんだけど」
男子生徒が見えなくなり昇降口まで辿り着くと、白雪が改まったように口にする。さっきの話と言うと、まあ今の告白騒動の件ではないだろう。その前に彼女が言おうとしていたことか。
しかしよくもまあ、あんなことがあった後なのに何食わぬ顔で話を元に戻せるものだ。
「そう言えば、なにか言いかけてたっけ」
「ええ。この前、本を貸すって言ってたでしょ?」
「君が読んでたラノベの一巻を貸してくれるって話?」
「そう。それ忘れないうちに貸しておきたいから、今日この後、うちに来なさい」
どうやら今日は、もう一波乱起こるらしい。生きて家に帰れるだろうか。
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