第76話

 土曜日である。つまり、休日である。

 部誌は問題なく完成し、体育大会の運営も滞りなく進んでいる。白雪の問題も解決した今、僕を煩わせるものは何一つとしてないのだ。故に今日は、体育大会本番前の最後の休息日として、存分にダラけさせて貰っている。

 外は生憎の雨ではあるけど、そもそも外出の予定なんぞ全くない僕にとっては、雨の音すら眠気を促進するBGMにしかならない。リビングのソファにダラリと座って、買い置きしてある缶のブラックを味わうように飲む。このままここで寝落ちしてしまいそうだ。カフェイン全然働いてないな。

 しかしまあ、ここで寝てしまうと言うのも、なんだか休日を無駄にしてしまうみたいで憚れる。

 今は昼過ぎ。お昼ご飯も食べ終わったし、やることなんて特にない。ゲームでもしようか、もしくは幾つか積んである本を消化しようか。でも、このなにもせずにボーッとするだけの時間と言うのも捨てがたい。

 選択肢に余裕があると言うのは、時に人間の判断力を曇らせてしまう。特に今の僕みたいな、自身のその後になんら影響を与えない場合なんかは顕著だ。もしかしたら、これは日本人特有のものかもしれないけれど。

 逆に選択肢がひとつしか用意されていない場合、人間の判断力、行動力はすさまじいものを見せる。それと同時に、理性的な思考すらも鈍らせてしまう。

 あるいは、選択肢なんてない方が楽と言う人もいるだろう。それしか選ばざるを得ない状況であれば、悩み、迷い、葛藤なんて言う煩わしいものから解放されるのだから。

 などと言う考えは、選択肢が多く用意された僕の偏見であろうか。実際になにかを選ばなければならない立場になって、その時に選択肢の用意されていない人間は、そう思わないのかもしれない。けれどそれしかないから、その道を突き進む。

 だが、選択肢の用意されていない人間なんて、この世にいるのだろうか。もしかしたら、なにかしらの要因によって己の視野を狭め、本当に見るべきものを見ておらず。他の誰でもない自分自身の手で、あるはずの選択肢を消しているだけではないのか。

 かつての僕や、白雪のように。


「なんでこんなこと考えてんだろ······」


 加速していた思考を落ち着かせるため、ため息混じりにひとりごちた。コーヒーを飲んで、加熱した脳を冷却させる。

 時間潰しにはなるけれど、全く意味のない思考。お陰でちょっと疲れてきた気がする。これはもう寝るしかないのではないだろうか。せっかくの休日が無駄になるとか言ってる場合じゃないと思うんだよね。

 と言うわけで。缶コーヒーを飲み干しゴミ箱に捨て、自室へと戻ろうとした時。

 ピンポーン、と。チャイムが鳴った。


 ──ひとつ、先ほどの思考で訂正しなければならないことがある。


 僕は自分を、選択肢が多く用意された側だと言ったが、それは間違いだ。いや、ある方面では正しいのだけど、またある側面から見た場合に限って、僕はそれに即さない。

 また、こう付け足してもおこう。

 いくら選択肢の用意されている人間でも、そのタイミングを逃してしまっては全く意味がないのだと。

 特に深く考えずに開いたドアの先。そこには、雨でびしょ濡れになった白雪桜がいた。


「雨宿りさせて」


 彼女が関わる時に限って言えば、僕に選択肢なんて用意されていない。






 薄い緑のワンピースにカーディガンを羽織った白雪は、ビショ濡れの状態で、うんざりしながらもそう告げた。

 見れば、右手にはここから少し離れた場所にある家電量販店の袋が。そこで買い物をしていたのだろう。朝はまだ雨も降っていなかったから、傘を忘れた結果こうなってしまったと言うことか。

 などと分析している場合じゃない。


「あー、取り敢えず上がってくれ。タオルも持ってくるから」

「ありがとう、助かるわ」


 白雪を家に入れて玄関で待たせ、洗面所からタオルを持ってくる。その代わりに持っていた袋を受け取った。

 悪いかと思いつつも中を検めてみると、そこに入っていたのは新作であろうゲームソフト。何故かギャルゲーなのは突っ込まないでおこう。


「夏目」

「ん」


 取り敢えず髪と顔、あと手先などを拭き終わったのか、タオルを投げ渡してくる。

 と、白雪の体がブルリと震えた。既に九月と言えど、気温は未だ高いままだ。だから家の中は冷房を入れていたのだけど、雨に濡れた彼女にとっては少し寒いか。


「さて、どうするか」

「このままリビングまで上がらせてもらうのも気が引けるわね」


 タオルである程度体を拭いていたとは言え、白雪の服は濡れたままだ。このままでいれば確実に風邪を引いてしまう。

 改めて白雪の濡れている服を見ていると、何故かカーディガンで胸のあたりを隠すようにした。心なしか、白雪の頬も赤みが差している。

 ああ、そう言う······。


「悪い、気が回らなかった······」

「全くよ。女性の胸部をなんの断りもなく凝視するとか、私じゃなかったら通報されてるわよ」


 生地が薄いのか、濡れてしまったことによってピッタリ体に張り付いたワンピースは、少し透けている。白雪がすぐに隠したから下着までは見えなかったけど、それでも彼女のボディラインがくっきり浮かび上がってしまっていて、健全な男子高校生にとっては非常に美味しいようなキツイような、複雑な状況だ。

 しかし本当にどうしたもんかと頭を悩ませていると、白雪が至極自然に、なんでもない風に言った。


「お風呂、借りるわね」

「え、」

「確か、私でも着れそうなジャージがあったでしょう? それを借りるから、適当なタイミングで脱衣所に置いといてくれるかしら」

「いやいやいや、待って、待ってくれ」


 このお姫様はいきなり何を言いだすんだ? いやまあ確かに、僕も最早それしか手がないかなーとか思い始めてはいたけど。でも普通、同級生の男子の家で、お風呂に入ろうとか思うか?


「なによ、寒いし濡れた服が気持ち悪いしで、早くしたいんだけど」

「いやだって、その、いいのか君は? もうちょい羞恥心とかそう言うのは持ってないのか?」

「風邪を引くのに比べれば些細なことよ。じゃあそういうことで」


 靴を脱いで、家主の許可もなく風呂場へと向かう白雪。もちろんそれを止める手段など僕にはなく。あっという間に脱衣所の扉が閉められた。

 マジか。マジなのか。そもそも僕のジャージ使う気でいるみたいだけど、白雪が使った後そのジャージはどうすればいいんだ。使おうにも使えなくなるじゃないか。

 やがて脱衣所の扉越しにシャワーの音が聞こえてきたので、取り敢えず僕の葛藤は強引に頭の隅に追いやり自室のタンスからジャージを引っ張り出してきた。白雪が僕のタンスの中身を知ってることにも突っ込みたいのだけど、夏休み序盤は毎日のように洗濯やら掃除やらの家事をしてくれていたのだし、おかしなことではないと判断する。同級生に家事を任せている時点でおかしい気もするけど気のせいだ。


「本当に入っていいのかな、これ······」


 脱衣所の前で、ごくりと喉を鳴らす。今白雪が風呂に入っていると言うことは、彼女の脱いだ服やら下着やらが置いてあるかもしれないという事で。さっき咄嗟に隠していたそれを、見てしまえるかもしれないと言うことで。

 期待に胸が膨らむ。そんな男の子な自分が恨めしい。

 いや、白雪だってそれくらいは分かっているはずだ。だからなにかしらの対策はしているはず。多分。そうだと思いたい。まさか馬鹿正直に、下着を洗濯カゴの一番上に置いてる、なんてことはないだろうし。

 だから大丈夫だ。なにも問題ない。必死で自分にそう言い聞かせ、いざ脱衣所の扉を開く。


「······ふぅ」


 セーフ! セェェェェェフ!!

 白雪が脱いだ服は洗濯カゴの中にちゃんといれられていて、そこに下着らしき影は見当たらない! いや、これセーフなのか?

 複雑な心境を抱えながらも持ってきたジャージを洗濯機の上に置き、一応その旨を伝えておこうかと風呂場の方へ視線をやると。


「······っ」


 当然のように、そこには全裸になっている白雪の影が映っていた。それを見ただけで、自分の頬が爆発しそうなんじゃないかと言うくらい熱を持ってしまう。

 この薄い扉一枚だけを隔てた向こうで、想い人がシャワーを浴びている。

 その事実は僕の思考回路を焼き尽くすのに十分すぎて、その場から一歩も動けなくなった。

 映し出された影が踊るたび、僕の目はその動きに釘付けになってしまって──


「夏目?」

「······っ!!」


 突然かかった呼び声に、ハッと我に帰ることが出来た。そして一気に冷静になる。こちらから向こうの影が見えると言うことは、その逆もまた然りで。

 マズイ。割とがっつり見てたことがバレたら、白雪の罵倒旋風をお見舞いされてしまうどころか軽蔑されて嫌われてしまう······!

 しかし続いて聞こえてきた声は、そんな予想とは裏腹に、いつも通りの抑揚のないものだった。


「シャンプーが切れてるんだけど」

「えっ、あ、ああ、そうか。悪い、替えのやつあったはずだから用意するよ」


 ふぅ、と安堵するも、心臓は未だ加速したままだ。抑えようとしても無駄なそれを無視して、戸棚から詰め替え用のシャンプーを取り出す。

 が、問題がひとつ。

 これ、どうやって渡せばいいんだ? 最早正常な思考回路を保っているとは言い難い僕の脳みそでは、そんな単純な答えにすら気づくことが出来ない。


「あー、白雪」


 取り敢えずと思って声をかけてみると、おもむろに風呂場のドアが開いた。


「あった?」

「ちょっ······!」


 そしてその隙間から顔だけを覗かせる白雪。咄嗟に腕で自分の顔を隠して後ろを向くも、完全になにも見えなかったわけではなく。

 濡れて首に張り付いた黒髪と、雫が滴る鎖骨が、はっきりと見えてしまった。


「君なぁ······!」

「いいから、早くそれ寄越しなさい」


 背を向けて腕だけを風呂場の方に伸ばす。振り向いてしまえとか考えちゃう本能をなんとか理性で捩じ伏せる。ここで振り向いたら死ぬ。物理的にも社会的にも。

 やがて伸ばしていた右手が軽くなり、ありがと、と言葉を残して風呂場のドアが閉められたのを恐る恐る確認してから、逃げるようにして脱衣所を出た。

 名残惜しいとかは思っていない。いや本当に。

 取り敢えずコーヒーだ。コーヒーを飲んで落ち着こう。コーヒーを飲めばこの煩悩もどこかへ飛んで行ってくれるはず。

 ソファに腰を沈ませ、冷蔵庫から取り出した缶のプルタブを開けて一気に飲み干した。


「なに考えてるんだよ、白雪のやつ······」


 全くもって危機感というやつが足りていない。仮にもここは僕の家で、僕は一人暮らしだから他に人なんているわけもなくて。

 僕がその気になれば襲われる危険だってあることを、彼女は理解しているのだろうか。

 勿論そんなことはしないけれど。絶対に、しないけど。

 空になった缶をテーブルに置き、なんとか心を落ち着かせようと目を閉じる。けれど、そんな暗闇の中で浮かぶのは、先程少しとは言え見てしまった彼女の姿で。

 ハリのある白い肌に滴る雫と、濡れた艶やかな黒い髪。

 どう足掻いても、それが頭の中から消えてくれない。


「最低だな、僕······」


 もう一本コーヒーを飲もう。カフェインだ。今の僕にはカフェインが足りていない。

 そう思い立ち上がったと同時、リビングのドアが開かれた。

 現れた白雪は当然のように僕のジャージを着ていて。裾は長かったからか折り曲げられ、しかし袖の方はそのまま伸ばされているから、所謂萌え袖とかいうやつになっている。

 恐らく化粧を落としたであろうにも関わらず彼女の顔は美しすぎるほどで。

 なんて言うか、非常に語彙力に乏しくて申し訳ないんだけど。

 めちゃくちゃ可愛い。

 しかも少し大きめの服を着ているからか、いつもより小さく見えて、それが余計に可愛さを加速させている。


「お風呂、ありがとう。それと洗濯機も、使わせてもらってるから」

「う、うん······」


 朱に染まった頬は、お風呂上がりで上気しているからだろうか。いや、それだけじゃないのだろう。だって、目の前の彼女は何か言いたげに瞳を揺らしていて、僕と視線を合わせようとしないのだから。

 やっぱり、白雪も恥ずかしかったんじゃないか。ならどうしてあんなことをしたのかは、藪蛇になりそうなので聞かないことにするけど。


「その、ね······言いにくいんだけど······」


 モゾモゾと身をよじらせながら、恐る恐る桜色の小さな唇が開かれた。

 そんな様を見せつけられると、これ以上はないと思っていた頬は更に熱くなる。冷房はさっき切ったばかりだけど、やっぱり必要なんじゃないだろうか。

 意を決したようにこちらを見上げた白雪が、一歩、僕との距離を詰めた。


「私、もう我慢出来なくて······」

「それって······」


 濡れた瞳に見つめられ、まるでそこへ吸い込まれそうに錯覚する。

 まさか、なんて邪な期待が膨れ上がり、そんなわけがないと頭の中で何度も首を振る。だって、あり得るはずがない。いきなり美少女が家に転がり込んできたと思ったらお風呂を貸して欲しいとか言って、その後すぐにそう言う展開とか、それなんてエロゲだよ。

 有り得ない。有り得ないのに、どうしても期待してしまう僕がいて。

 耳に届くのは、自分の心臓の音と彼女の息遣い。

 つい数分前の思考が、頭によぎる。結局のところ、やっぱり僕には、選択肢なんて与えられていないのだろう。こうして白雪に迫られてしまった時点で、僕の中に存在していた選択肢の悉くは消え失せるのだから。

 そして再び開かれた唇から、白雪らしからぬ大きな声が発せられた。


「買ってきたゲーム、ここでやってもいいかしらっ⁉︎」

「は?」


 この後、滅茶苦茶ゲームした。

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