第36話
どれくらいの時間、涙で頬を濡らしていただろう。最早体内時計は曖昧でしかなく、部室に掛けられた時計を見るために顔を上げる気力もない。
けれど気がついた時には涙は止まっていて、僕の目の前にはあいもかわらず、らしくない笑顔を浮かべた白雪がいる。
「あなたの泣き顔を拝めるなんて、貴重な体験をさせてもらったわ。ありがとう」
「忘れてくれ······」
「忘れられないわよ」
ふふっ、と微笑む声が耳に届いて、妙なくすぐったさを覚える。
取り敢えず色々な要因から煩くなってる心臓を落ち着かせるために、手近な椅子に腰かけた。いつもの定位置とは違う、三枝の席だ。
一方の白雪はいつもの定位置に腰を下ろし、ふぅ、と短く息を吐いていた。
「流石に疲れたわね」
「······悪い、徹夜させちゃったんだよな」
「謝らないでいいわ。言ったでしょう? これは私のためでもあるんだから」
「そうは言われても、ね······」
「そんなことより、座るならこっちに座りなさい。そろそろ来るわよ」
白雪の言葉に首を傾げていると、突然部室の扉が勢いよく開かれた。勢いよすぎて大きな音が鳴ったので、不意打ちでそれを食らわされた僕は大きく肩を震わせてしまう。
「桜ちゃん!!」
「おはよう、紅葉さん。ついでに三枝も」
「おっす。二人きりってことは、俺たちはお邪魔だったか?」
「バカなこと言ってないで早く入りなさい」
ゼエハアと肩で息している神楽坂先輩に、ケラケラと軽薄そうに笑う三枝の二人がやって来た。
三枝が来たことで僕も席を移動して、いつもの定位置、白雪の隣へ。二人は文芸部であるからして、白雪がこんなことをしてくれた以上は今日部室へとやって来るのは当たり前のことだ。白雪も、二人にも見せたいとか言ってたし。
そこに思考が向かなかったのは、自分で思っている以上に今の僕は、未だ混乱の中にあるということか。
「朝から二人で密会とは、随分と仲良くなったじゃねぇの」
「おいおい三枝、随分とあんまりなことを言ってくれるじゃないか。僕は単純労働力としてこき使われてたってのに」
我が親友こそ、神楽坂先輩と二人でここにやって来るとは、中々やるじゃないか。二人とも、つい先日まであんなソワソワしていたのが嘘みたいだ。
その一方で神楽坂先輩は、二人きりでここまで来たことにどう思っているのかと視線を向けてみると、どうも彼女はそれどころではないらしい。
僕が運んで来たダンボールから白雪が綴じた部誌を取り出し、ただ無言で佇んでいる。
「紅葉さん?」
その様子が異様に映っただろう、白雪が心配そうな声をかける。そして神楽坂先輩は、白雪の声に反応したのか、次の瞬間には座っている白雪にガバッと抱きついていた。
「桜ちゃん、ありがとねぇぇ!」
「ちょ、ちょっと······」
どうやら嬉しすぎて感極まっていたらしい。それもそうか。神楽坂先輩にとっては最後の文化祭。部誌はこれからも出すとは言え、文化祭で出すのはこれが最後だ。きっと、今回の部誌にかける思いは僕たちの比ではなかったはず。
そんな作品を心無いやつらに燃やされたと思ったら、白雪が次の日にはこうして元の数の倍以上を用意してくれていたのだから。
「いやあ、素晴らしい光景だな」
「君はお気楽なもんだな······」
神楽坂先輩が白雪を思いっきり抱き締めていることで、たわわに実った二つの果実が白雪の顔面に思いっきり押し付けられている。なんか見てて可哀想な気持ちが湧いて来るのはなぜだろうか。ほら、僅かに窺える白雪の表情も、どこか悔しそうだ。
そう言えば、私服の上からとは言え楓さんもそこまで大きくは見えなかったような······。
うん、この思考は捨ておこう。白雪家の名誉のために。まだ成長の可能性が残されている小梅ちゃんのために。
「そう言えば、なんか多くないか? 部誌って五十冊の予定だっただろ」
三枝の放ったその疑問の言葉に、神楽坂先輩が確かに、と呟いて白雪を解放した。
それは僕も説明されていなかったので、息苦しそうに咳き込む白雪へと視線を投げる。
「私の独断で倍にさせてもらったわ」
「そりゃまたなんで。そんなに売れるか?」
「売れるわよ」
即答だった。その言葉には確証もなにもないのに、白雪は力強くそう返す。
「この前読み終わったけど、三枝のエッセイも、夏目の小説も、どちらも面白かったわ。そりゃプロの人と比べれば幾らでも見劣りするけど、それでも作品としてのクオリティは十分に高い。この文化祭は生徒の父兄だけじゃなくて、地域の人たちも来るんでしょ? この前のバザーでの文芸部の知名度を考えると、百冊くらい余裕よ」
「随分簡単に言ってくれるな」
「事実簡単だもの」
白雪はこともなげに言ってくれるが、僕はそんな簡単なことだとは思えない。地域の人たちへの文芸部の知名度は、まあそこそこある方だとは思う。けれど、だからと言ってそれが売り上げに直結するのかと聞かれれば、首を傾げざるを得ないのが現実だ。
プロの作家が本を売るのとはまたわけが違う。確かに作者の知名度が大きければ、その人の書いた小説なり漫画なりを手に取る人は多くなるだろう。
しかし、一高校の文芸部、それも素人の書いた作品だ。知名度なんかでどうこうできる話ではないし、バザーに参加していた人たちが、僕たちの作品のためにわざわざここへ足を運んでくれるとは限らない。
だがそれでも、白雪は自信満々な笑みを浮かべていて。
「それに、自分のお気に入りの作品を広めたい、より多くの人の手に渡って欲しいと思うのは、ひとりの読書家としては当然だと思うんだけど」
そんな表情でそんなことを言われてしまえば、僕たちにはなにも言い返せなくなる。
僕も三枝も、もはや呆れに近いような笑みが、勝手に漏れてしまっていた。
「なに笑ってるのよ」
「ははっ、いや、別に深い意味はないよ」
「だな。まさか白雪さんにそんな褒められるとは」
「よし、じゃあ明日は頑張って百冊全部売ろっか!」
何故か笑いの止まらない僕と三枝。ムッとした表情で睨む白雪。そんな僕たちを微笑ましくも見守りながら、声高々に宣言する神楽坂先輩。
なにはともあれ、文芸部にとっての本番は明日だ。
今日はひとまず、演劇の方に集中させてもらうとしよう。
体育館に集まった人間の数は、果たしてどれほどにまで及ぶだろう。蘆屋高校全校生徒の七百余名に、その父兄と一般参加の人たち。千人は余裕で超えていそうだ。
そんな人数が集まった暗闇の中、ざわざわと密かな囁きが体育館に響いている。皆が皆、数刻後のことに思いを馳せているのだろう。
「おい白雪。君、大丈夫か?」
「······大丈夫よ」
僕の隣では、眠たそうにうつらうつらと舟を漕ぐ白雪が。
一応クラス順に並んでパイプ椅子に座らせられている生徒達ではあるが、クラス内での座る順番などは特に設けられていなかった。これが全校集会などなら、男女別の出席番号順二列縦隊だったろうが、今日は文化祭。無礼講、とまでは行かないが、教師側もある程度の自由を認めてくれている。
つまり、仲のいい面々が集まって座っていることになるのだが、三枝以外特別仲のいいやつがいるわけではない僕と、クラス内で孤高のぼっちを貫いている白雪が隣り合って座っているのは、もはや必然と言えた。
近くに親友の姿がないことには、些か以上に企みが透けて見えているが。白雪と最近比較的仲のいい井坂がいないのも、まあ同じ理由からだろう。
「まだ開会式すら始まってないのに、そんな調子で演劇は大丈夫なのか?」
「だから、大丈夫と言ってるでしょう。あんまりしつこいとぶつわよ」
「暴力はやめてくれ。なにも解決しないぜ?」
言いながらも、白雪はやっぱり眠たそうで。今にもその長い睫毛が閉じてしまいそうだ。変に強がらず、出番までは寝ていてもいいのに。
不意に、体育館に広がるさざめきが止まった。生徒や来校者達はなにかを察したように声を潜め、この場にいる全員が視線をステージに固定する。
そして完全に音の無くなったその瞬間。ステージの幕が上がり、眩しい光が放たれる。
そこにはギターやベースを背負い、キーボードやドラムの前で控えている生徒達がいる。そしてそんな生徒達の前に立っているのは、爽やかな笑顔を浮かべたひとりのイケメンな男子生徒。我が校の生徒会長、三年生の
そして会長がニッと子供のような笑みを浮かべた瞬間。
『これより、蘆屋高校文化祭を開催するッ!!』
──音が、爆ぜた。
ギターの掻き鳴らす音で始まった、この文化祭におけるオープニングセレモニー。
生徒達は思い思いに大きな歓声を上げ、会長はボーカルとしてその美声を披露していた。
中には立ち上がって盛り上がる生徒もいて、生徒会長の人気やみんなの文化祭にかける情熱が、ピリピリと肌に伝わってくる。
ここから見える範囲でも、三枝なんて頭振ってるし。そんなヘッドバンキングするような曲でもないだろうバカなのか。バカだった。
「すごいな······」
僕はこの高校での文化祭は二度目だけど、一度目の時は楽しむ程の余裕がなかった。その頃の僕はまだ、色々と引きずりすぎていたから。
だけど二度目の文化祭である今日、こうして楽しめているのは、他の誰でもなく、隣に座っているこの少女のお陰なのだろう。
お礼の一つでも言っておいてやるか。きっと彼女は察しがいいから、その意味にも気づいてくれるのだろう。そう思い隣に顔を向けたのと同時。
「すぅ······」
「えぇ······」
見事睡魔にやられてしまった白雪が、僕の肩に頭を乗せてきやがった。
いくら体育館が暗いとは言っても、今はステージの強烈な光があるし、この距離なら嫌でもしっかりその寝顔が目に焼き付いてしまう。
いつもの無表情や、たまに見せる穏やかなものともまた違う、すっかり安心しきった顔。寝息とともに上下する、あまり豊かとは言えない控えめな胸。指先を擽る、彼女の長い髪。
恐ろしく可愛い寝顔を見てしまえば、顔に熱が集まるのは最早必然で。
「······マジかぁ」
こんな状況で僕に頭を預けて眠れると言うことは、それだけ僕のことを信頼してくれているという事で。
そのことを自覚してしまえば、もうダメだった。あとは一直線に、落ちていくだけ。
気がつけば、いつも思考の中心にはこの女の子がいて。この子のことを考えない日はなくて。知らない間に目で追っていて。一緒にいるのが、どうしても楽しくて。
自覚させられる。理解させられる。
今まで無意識のうちに目を背けていたその感情を。
こんなタイミングで、なんの前触れもなく、唐突に。
──僕は、白雪桜が好きなんだと。
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