第35話

 昨日、あの後のことはどこか朧げだ。白雪と別れて家に帰ってきたのは分かるけれど、その道中のことはイマイチ覚えていない。そんな精神状態でも無事帰宅できるというのだから、毎日のルーティンと言うのは中々侮れない。

 家に辿り着いた時のことは、ひとつだけ覚えていることがある。

 三枝からラインが来たのだ。スマホで撮影された二人組の男子生徒。それは間違いなく、白雪に告白していたやつとストーカーしていたやつで間違いなかった。暴力沙汰にまで発展していないことだけを祈る。


 さて、明くる日の今日。つまり、文化祭当日だ。

 果たして今の僕に、まともな演技なんて出来るのだろうか。多分無理だろう。あれだけしっかり覚えたセリフも思い出せない。

 いや、それよりも。昨日白雪が言っていた。私がどうにかすると。どうにもならないだろうと、今でも思っている。時間が足りなさすぎるのだ。これが一週間前とかなら、なんとかお願い出来る印刷所もあるだろうが、一日や二日前になんて不可能だ。


 学校にはいつもより早く辿り着いた。元々今日は、最後のセリフ確認などのために早く来ようと思っていたし、僕と似たような考えの生徒も多いのか、この時間にしては既にそれなりの数の生徒達が登校して来ている。

 そんな生徒の往来がある中で、校門をくぐってすぐのところに一台の車を見つけた。車について詳しいと言うわけではないので、詳しい車種までは分からないが、見る限り普通の軽自動車だ。

 普通でない点があると言えば。


「白雪······?」


 私服姿の白雪桜が、トランクを開けてなにやらゴソゴソと漁っていることか。なにをやっているんだ彼女は。て言うかなんで私服姿? 幾ら文化祭と言えど、それは流石に許されないと思うんだけど。


「あら?」


 不意に白雪が顔を上げる。だがこちらに向けられたその顔は、平日毎日見ている白雪桜のものではなくて。


「あらあら。夏目くんじゃない。久しぶりね」

「楓さん?」


 白雪の母親である、白雪楓さんだった。この時間に生徒ではない者、しかも車で校内に入ってきているからか、登校してくる生徒から注目を浴びては、男子生徒達がその美貌に見惚れてしまう。白雪の家系は男を虜にする魔法でも使えるのだろうか。

 楓さんは先日会った時と同じく柔和な笑みを浮かべながら、こちらに近づいてきた。自然と僕にも集まる視線。中には「またお前か」と言わんばかりのものも含まれてる気もするが、僕の自意識過剰だと言うことにしておこう。


「お久しぶりです。こんな早い時間にどうしたんですか? 父兄の入場時間は九時からだったと思いますけど······」


 そもそも、車で来ている事自体がおかしな事だ。文化祭には車での来校は断っているはずだし、そもそも白雪の家から学校まで、徒歩五分以下。例えば足腰が悪かったりしても車を使うような距離ではない。

 そしてこの質問は、楓さんにぶつけるべきではなかった。


「ふふっ、それはねぇ。桜が夏目くんのために協力してくれって言うから。あの子、夏目くんの為に昨日の夜からすごい頑張ってたのよ? まだ夏目くんのことが好きだったりして」


 だって、こんな事を言われてしまうのだから。僕も学習しないやつだ。白雪家訪問の際にこの人がこの手の話を好んでいることは十分に理解出来ていたのに。


「それはないですよ。今の白雪が今の僕を好きになるなんて、そんなこと······」


 顔を赤くしながら言っても、説得力なんて皆無だろう。実際、楓さんは疑うような目を向けながら、僕の顔を覗き込んでくる。白雪ととても似た、しかし彼女よりも更に美しい顔が急接近してきて、そこから逃げるように身をよじる。

 それが面白かったのか、ふふっ、とまた柔和な微笑みを漏らして楓さんは離れていった。周りからの視線が痛いからありがたい。


「青春してるわね〜」

「いや、今の会話でどうしてその言葉が出てくるんですか」

「さて、どうしてでしょうね」


 今の言い方は、娘の白雪にちょっと似てて、不覚にもドキッとしてしまった。

 セコい。年上の女の人って本当セコい。


「そう言えば、白雪は?」

「あらあら? 桜が気になるのかしら?」

「いや、そんなんじゃなくて······。楓さんがいるなら、白雪もいるんじゃないのかって思っただけですよ」

「ふふっ、実はね、桜ならさっきからそこにいるのよ?」

「えっ」


 僕の背後を指差され振り返ってみると、なんとそこにはニッコリ微笑んだ白雪桜さんがいるではないか! ああ、その笑顔は楓さんと本当によく似てるよ······。

 いや、いつの間に来たんだよマジで。


「おはよう夏目。随分お母さんと仲がいいのね?」

「お、おはよう白雪。君は相変わらず気配を消して背後に立つのが得意だね。前世は忍者かなにかじゃないか?」


 白雪の笑顔がちょっと怖くて乾いた笑いが出て来てしまう。人の母親を取るな、とかマザコンじみたことを言いたいのだろうか。白雪に限ってそれはないか。


「あらあら、お母さんに嫉妬かしら?」

「そんなんじゃないから。これ、大黒先生から渡されたから、車のフロントガラスに置いといてだって」


 楓さんの言葉をにべもなく切って捨てた白雪が手渡したのは、車の駐車許可証。たまに見かけるどこかの業者さんの車にもついているのと同じものだ。どうやら白雪は、職員室の顧問のところまでそれを取りに行っていたらしい。


「さて、夏目。ちょっと手伝いなさい」

「手伝うって、なにを」


 白雪が指差した先にあるのは、車のトランクに入れられた二つのダンボール。察するに、それを運べという事だろうか。


「これは?」

「部室まで運ぶわよ」

「質問に答えてくれ······」


 そう言ったところで結局答えてくれないのは、これまでの付き合いで分かっている。言われた通りダンボールの一つを持ち上げると、思いのほか重さがあった。


「なにやってるの、もう一つも持ちなさい」

「君が持てよ」

「か弱い女子にそんな重いものを持たせるつもり? クソ野郎ね。見下げ果てたわ」

「まだ見下げ果てられるだけ僕の評価が高かったことに驚きを隠せないよ」


 そんな軽口を言いながらも、二つのダンボールを重ねて持ち直した時にはその余裕もなくなった。


「重っ······!」

「ありがとお母さん。助かったわ」

「いいのよ。桜のためならこれくらい」

「······うん」


 何かを噛みしめるようにして俯いた白雪。そんな白雪の頭を、楓さんの手が撫でる。


「桜はもっと、私やお父さんに甘えていいんだから」

「私、もうそんな歳じゃないよ」

「歳なんて関係ないわ。あなたも、小梅と同じで私達の娘なの。だから、もっと頼って、もっと甘えなさい」

「······わかった」


 唇の端がつり上がった白雪。あたたかな親の目でその白雪を見つめる楓さん。かつての僕にも覚えのある光景だ。親と子供の、当たり前の光景。

 でも白雪親子にとってのそれは、どこか普通の親子よりも特別なものに思えて。

 きっと僕の思い過ごしだろう。白雪と楓さんがそこらの姉妹よりも似ているから、そう感じるだけかもしれない。


「じゃあ夏目くん、桜のこと末永くよろしくね?」

「はい。······はい?」

「お母さん!」

「ふふっ、冗談よ、冗談」


 まるで冗談に聞こえなかったんですが気のせいですかね。気のせいですよね。








 楓さんはあの後、大黒先生に少し用事があるとかで、車のとこで待っているらしい。

 その楓さんを置いて僕と白雪は部室までやって来た。勿論二つのダンボールは僕が持って。本当に筋トレくらいした方がいいのかもしれない。めちゃくちゃ重くて早くも両腕が筋肉痛になりそうだ。


「ようやくついた······」

「情けないわね。男の子なんだからそれくらいで弱音を吐いてどうするのよ」

「男だから重いものを運べると思うなよ。それで? いい加減この中身、教えてくれてもいいんじゃないか?」

「あら、あなたなら察しがついてるものだと思ったけど。違う?」


 まあ、確かに。僕もいい加減、このダンボールの正体はある程度理解している。しかし、本来のそれはダンボール二つ分もなかったし、そもそもどうやって作り直したと言うのか。それが理解出来ない。


「本当は紅葉さんと三枝もいた方が良かったんだけど。まずはあなたに見せたかったの」


 そう言って白雪は、ダンボールに封をしているガムテープを思いっきり剥がした。その中から取り出したのは、一冊の本。

 表紙に桜の花が描かれた僕たち文芸部の部誌『雪化粧』だ。


「最近のコンビニのコピー機って凄いのね。PDFファイルもコピー出来ちゃうんだから」

「いや、ちょっと待て白雪。君、まさか昨日あれから、これ全部コピーして手作業で綴じたのか?」


 ダンボールの中を見てみると、その数は本来の倍。百冊の部誌が用意されていた。その全てがホッチキスで留められ、それを可愛らしい模様のテープで貼って隠している。

 僕達が持っている見本誌は、ちゃんとした印刷所にお願いしたから、見栄えのいいしっかりとした本になっていた。

 しかしこちらは、どこから見ても手作り感満載。どうしても本来のものと比べると安っぽく見えてしまう。

 だからこそ、この数を一夜で仕上げたなんて信じられなかった。


「私一人じゃないわ。小梅にも、お母さんにも、お父さんにも手伝ってもらった。流石に三人には途中で寝てもらったけけどね」

「君は······?」

「勿論徹夜よ。お陰で今日はお肌の調子も良くないし、髪の毛もガサガサだったわ」


 なんてことを言う白雪の姿は、いつも通りの美しさを保っている。その名の通り、雪のように白い肌も。烏の濡れ羽色をした長い髪の毛も。いつも通りどころか、いつもより綺麗に見えてしまう。

 そんな彼女が、僕に微笑みかける。あの、らしくない穏やかな表情で、穏やかな声音で。


「言ったでしょう? 私が、あなたの努力を無駄にはしないって」

「白雪······」

「ここに書かれている小説は、あなたの物語。あなただけの物語。それはとても大切で、尊ぶべきものよ。だから、私はそれを無駄になんてしたくなかった。こう言えば、自己満足のように聞こえるかしら」


 可笑しそうに笑うそんな彼女が、とても可愛くて。

 まただ。また、僕の胸の奥で、なにかが落ちる。なにかに落ちる。


「もう一度言うわよ、夏目」


 その強い光を宿した瞳は、まるで昨日の焼き直しで。


「私は、あなたに二度と、あの時のような思いをして欲しくない。だから私が、あなたの努力を無駄にはさせない」


 自然と、涙が溢れていた。そんな僕を見て、彼女はまるで、年下の子供に向けるみたいに、「仕方ないわね」とでも言うような笑顔を浮かべていて。


「今回だけじゃない。あなたの努力を、あなたの価値を、あなたの物語を。私がこれから、何度だって拾い上げるわ。あなたのために。なにより、私のために」


 些か安直だろうか。いや、そうでも構わない。だっての僕との僕は、紛れもなく。

 の白雪の言葉に、救われたのだから。


「ありがとうっ······」

「ええ、どういたしまして」


 ぼやけた視界の中で、彼女が微笑んでいる。漏れる笑い声は僕の耳を撫でて、鈴を転がしたようなその音色が心地いい。

 それから暫く、涙が止まることはなかった。




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