第49話
白いユニフォームを土で汚した野球部員達が、私達三人を見てヒソヒソと声を交わす。事前に話を聞いているとは言え、好奇の視線に晒されるのは当然だろう。なにせ、野球部でもないどころか、文化部のもやしが、期待の新人に喧嘩をふっかけたのだから。
しかし私も、私の隣を歩く小さな後輩も、そんなものはどこ吹く風。堂々とグラウンドまでやって来ていた。
「先輩、もっとシャキッとしてください」
「いや、そうは言われてもね······」
「せめて背筋は伸ばしなさいな。そんなんだと舐められるわよ」
私達の一歩後ろを歩く夏目は、どこか萎縮しているようにも見える。残念なことにその姿はとても情けない。
さて、ついにやって来た八月四日。夏目智樹と樋山修二の対決の日だ。
そんな日だと言うのに後ろの夏目があんなザマなのは、これまでの練習で完全に元通りに投げれるようになったわけではないから。
詳しいことは私にもよく分からないけど、球速は想定していたものよりも落ちているみたいだし、変化球も全然ダメらしい。しかし、これで大丈夫だと言う後輩の一言により、昨日一日は結局休息日に当てられた。
グラウンドのバックネット裏まで三人で進むと、そこに建てられた小さな小屋の前に二人の野球部員が待ち構えていた。
一人は夏目の後輩であり対決相手である樋山修二。もう一人は、部長である二年五組の新井と言う男子生徒だ。私とは同じ中学に通っていたから知っている。
「やあやあお三方。待ってたよ。よく逃げずに来てくれたね」
「敵前逃亡は銃殺刑って言われてるからね。逃げるなんて選択肢は僕にないよ」
挑発するように言う新井に対して、これまた負けじと妙にニヒルな笑みを浮かべた夏目が返す。
この新井と言う男、どうにも自分に自信があるらしく。中学の時も女子を侍らせていたし、あまりいい噂は聞かなかった。
「白雪さんも、久しぶりだね。こうして会うのは中学以来だ」
「あら、そうだったの? 私には中学時代にそんな記憶なんてないんだけど。あなたが作り出した妄想じゃないの?」
ピクリと、新井の笑顔が引き攣る。相変わらず、無駄にプライドが高いようで。まあ、実際に私にはそんな記憶微塵もないどころか、中学三年間教師以外の誰かと会話した記憶すら殆どないんだけど。
「そ、そうだったかな? いやぁ、いかんせんもう二年も前の事だから、俺の記憶もあやふやになってるみたいだ」
「なら話しかけないでくれる? 私、其の場凌ぎの言葉で女子を誑かす、あなたみたいな脊髄の反射と下半身の本能だけで生きてるような人間は嫌いだから」
「白雪、言い過ぎだ······」
夏目から呆れたような声で注意された。後輩二人も引いた感じで私を見ている。事実を言っただけなのに、その反応はあんまりじゃないかしら。
「それより、悪いね新井。わざわざグラウンド使わせてもらって」
「あ、ああ。別にいいんだよ。俺も、夏目の投球は一度見てみたかったしさ。まあ、適当に準備して好きなタイミングで始めてくれよ。もう練習は終わってるから」
「そうさせてもらうよ」
「それじゃあ樋山、頑張れよ」
「はい!」
新井は逃げるようにしてこの場を去っていき、他の部員達のところに合流する。ただし、部員やマネージャー達からの視線がどこか冷たいものになっているが。いい気味ね。
「さて、と。樋山、今日はよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします。まさか綾子に裏切られるとは思ってませんでしたけど」
「別に修二の味方するとは言ってなかったもーん」
「僕としては、小泉が協力してくれて助かったけどね。相変わらず、マネージャーにしておくには勿体ないくらい上手かったし」
「こいつ、昔から無駄に運動神経いいですからね」
「無駄には余計でしょ! 私が上手いお陰で修二も夏目先輩も上達してるんだから!」
「事実なだけに反論できないな」
「それを自分の口から言わなかったらいいんですけどね」
なんだろう、この疎外感は。元チームメイトの三人だからか。三人とも、随分楽しそうに会話している。これから戦うと言うのに、先日まではあんなに微妙な雰囲気だったのに、そんなことを微塵も感じさせないような笑顔を浮かべていて。
なんだか、面白くない。
「白雪先輩」
呼ばれてハッとなり、無意識のうちに下を向いていた顔を上げる。視線をやった先には既に夏目の姿はなく、そこに残っているのは樋山修二だけだった。
「二人は?」
「向こうでキャッチボールしてますよ。もしかして、気づいてませんでした?」
人のいい笑顔を浮かべる彼には、こちらをバカにしたような色は全くない。文芸部の男子二人にも見習わせたいくらいの笑顔だ。
「全く気づかなかったわね。声をかけるくらいしてくれてもいいのに」
「あの人は、野球のこととなると周りが見えなくなりますからね」
本当、面白くない。私と野球のどちらが大切だというのか。まあ、野球でしょうけど。
「先輩、中学の時、よくうちの試合見に来てましたよね?」
「······どうして知ってるのかしら」
「当時綾子から聞いてたんですよ。毎回試合を見にくる、凄い美人がいるって」
確かにそれは事実だけど、まさか後輩二人に揃って知られているとは。小ちゃい方には以前も指摘されたが、その時の私はただはぐらかすだけに終わっていた。
「そうね。だから一応、あなたのことも知ってるのよ。樋山修二君」
「それは恐縮です」
「で、それを確かめて、なにをしたいのかしら?」
「お礼を言いたくて」
「お礼?」
はて、私はこの後輩に礼を言われるようなことをしただろうか。小ちゃいのならともかく、この子とはそもそもの関わりが薄い。ちゃんと会話するのだって、これが初めてだ。
となれば、私と彼の接点なんて一つしかない。
「智樹さんのことです」
やっぱり。夏目、大人気じゃない、
「中三の時の事故が原因で、智樹さんがなにかしら心に傷を負ったのは、俺も綾子も理解してました。直接本人に聞いたわけじゃないんですけど、それなりの付き合いだったんで、見てたらすぐ分かります」
キャッチボールを終えた夏目が、マウンドに上がる。ホームベースの方では、小泉綾子がぶかぶかの防具を着用していて、なんだかシュールだ。
そんな光景を見ながら、隣の大きな後輩は続ける。
「それでも俺は、もっとあの人と野球をしたかったんです。もっと、あの人の球を受けていたかった。俺はそう言うの、あんまり面と向かって言えないんで、綾子には迷惑掛けましたけどね」
スパァン! と、グローブが音を鳴らして、投球の力強さを見せつける。その球は一昨日最後に見たものよりも、勢いのあるものに見えた。大丈夫だと言っていた理由がわかった気がする。
そんなボールを見て、相変わらず怖いなぁ、なんて呟きが隣から聞こえた。
「智樹さんをここに連れ戻してくれたのは、白雪先輩なんですよね?」
「さあ、それはどうかしら」
「分かりますよ。二人のこと見てたら、なんとなく分かります」
私がしたことなんて些細なことだ。彼の努力を拾い上げる。たったそれだけ。
実際に頑張っているのは夏目本人だし、私はそれが無駄にならないために、ちょっと彼の手助けをしたに過ぎない。
「だから、ありがとうございます。先輩のお陰で、また智樹さんと野球ができる」
「私は、自分のわがままを貫き通しただけよ。お礼を言われる筋合いはないわ」
「それでも、ですよ。あなたのわがままで誰かが救われたのなら、それは誇ってもいいことだと、俺は思います」
すぐそこに置いてあったヘルメットとバットを持ち、手にバッティンググローブを嵌める。その顔に浮かんでいるのは、小さな少年のような、幼気な笑顔だ。
「でもまあ、それで今回の勝負を譲るつもりはないんですけどね」
それだけ言い残し、バッターボックスへと歩いていく。夏目の方も、丁度投球練習が終わったらしい。同じく浮かべている笑顔は、幼い少年のようなものだ。だけどそれとは裏腹に、彼の瞳はギラつくように輝いていて。
三年前、私が初めて恋をした夏目智樹が、そこに立っていた。
「デッドボールだけは勘弁してくださいね」
「安心してくれ、さすがにそこまで衰えちゃいない」
「智樹さんのコントロールはいまいち信用出来ないの、俺が一番知ってますから」
「言うようになったじゃないか」
「それ程でも」
軽く言葉を交わし、樋山が右のバッターボックスに立った。それを確認して、私も見えやすいように一塁側のベンチへと移動する。
マウンドの上の夏目は目を閉じ、深く息を吸って、吐き出す。練習中にも見せた、彼のルーティン。再び開かれた目は真剣な色を帯びていて、普段の飄々とした態度からは考えられないくらいカッコよく見えてしまう。
知らず、息を飲んでいる自分がいた。これから始まるのは真剣勝負だ。公式試合でもない、ただの私闘ではあるけど、あの二人の間にはそれ以上の価値があるものなんだろう。
私には理解が及ばないほどのなにかを、あの二人は共有している。いや、三人か。
ついに夏目が振りかぶった。バッターボックスで大きく構える樋山も、全身に力を入れたように見える。
「ふっ······!」
夏目の腕がしなるようにして振り抜かれたと思ったら、次の瞬間には、バットが空を切る音が聞こえてきた。
運動神経どころか動体視力ですらお世辞にもいいとは言えない私には、投げられたボールの軌道なんて全く見えなかった。多分、ストレートだったんだろう。
得意げにニヤリと笑ってみせる夏目の顔は、どこか愛嬌があって可愛く見える。
返球を受け取り、また目を閉じて深呼吸をする。キャッチャーのおチビが構えているのは、外ギリギリ。
今度のボールは、私にも視認出来た。ホームベースのほんの少し手前で落ちるように曲がるボール。カーブだ。樋山はそのボールにも果敢にスイングするが、また空振り。
私の気のせいでなければ、さっきのカーブは練習の時の比にならないくらい曲がっていた。随分と本番に強いタイプらしい。知らなかった。
「あと一球······」
どこからかそんな声が聞こえた。気がつけば、野球部員の全員がこの勝負を見守り、目を奪われていた。それだけ、夏目のピッチングに魅力があると言うことだろう。それがなんだか、自分のことのように嬉しい。
これは、夏目の今日までの努力が無駄じゃなかったことの証明だ。彼はそれほどまでに頑張ってきたと言う何よりの証だ。
私がなにをするでもなく、彼一人の力で。
「ご褒美、ちゃんと上げなきゃダメね」
ちょっと恥ずかしいけど、今のうちに覚悟だけはしておこう。
そうして夏目が三球目の投球動作に入る。ミットはまた外に構えられている。そこめがけて思いっきり振り抜かれたボールは、今度も辛うじて視認出来た。
決して遅いとは言えないスピードで走るボールは、バッターの手元で沈む。
夏目が決め球として使っているフォークボールだ。中学の時も、それで何人もの打者から三振を取っているのを見た。
しかし振り抜かれたバットが空を切ることはなく、キンッ、と音を立てて一塁線へと流れていく。ファールボールだ。すぐ近くをボールが横切ったので、ちょっとビックリした。
「夏目······」
制服のスカートの上でぎゅっと両手を握りしめ、マウンドの上の彼に無言のエールを届ける。
新しいボールを受け取り汗を拭う彼と、一瞬だけ目が合ったような気がした。ほんの一瞬。多分、他の誰も気づかないでろうその瞬間だけ、彼の口角が上がる。でも次に見たときには真剣な表情で目を閉じ深呼吸をしていて。
絶対の自信を持っていたフォークを捉えられても、彼はまだ諦めていない。それどころか、空振り三振で終わらせるつもりでいるだろう。
この場の全員が固唾を飲んで見守る中、四球目が投げられた。それもバットに当てられるが、バックネットに突き刺さりファールとなる。
続けて五球目、六球目と投げるが、どちらも樋山はバットに当て、しかし完璧に捉えきれずファールが続く。
そして七球目。段々と目が慣れてきた私にも見える。内角に投げ込まれる、恐らくは渾身のストレート。
いける。そう思った。それは多分、投げた本人である夏目も、ミットを構えているおチビも。
けれどそんな私達の気持ちを裏切るようにして。
キィン! と快音を響かせたバットは、白球を青空へと溶かしてしまった。
誰が見てもホームランだと分かる打球。
どちらが勝ってもおかしくない勝負だった。ギリギリのシーソーゲーム。その勝負がついに、打者である樋山に軍配が上がり。
「もう一回だっ!!」
マウンドの上の夏目は、諦め悪く情けなくも悔しそうにそう叫んだ。
思わず頭を抑えそうになったけど、まあ、楽しそうだから良しとしましょう。
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