第48話
筋肉痛ってもしかして人を殺せるんじゃないだろうか。そんな風に思ってしまうのも致し方ないことだと思う。
小泉が考えてきた特訓メニュー。主に下半身の筋力強化をメインとされたそれをこなすこと数日。なんとその間、投球練習は最低限しか行われなかった。一日二十球投げれば多い方だ。その代わりにシャドウピッチングが導入されて、投球フォームの確認を重点的に行った。
筋トレとランニングはもう死ぬんじゃないかってくらいにやらされたし、お陰で太ももとふくらはぎがパンパンだ。ベッドから起き上がるのですらしんどい。
そんなこんなで週を跨ぎ、七月の最終週の月曜日。今週末の土曜日にはいよいよ樋山との対決が待っている。
「さて、漸く本格的に投球練習を始めるわけですが」
「なあ小泉。正直言って今の足の状態でまともに投げれる気がしないんだけど」
「問題ありません」
「問題ありまくりなんだけど······」
いや本当、筋肉痛がやばすぎてやばい。まともに踏ん張りをきかすことも出来ないかもしれない。
「取り敢えず、何球かストレートだけで投げてもらいましょうか」
「分かったよ······」
どれくらいやれるかは分からないけど、まあやるしかない。
まず肩を温めるためにキャッチボールから始めるのだけど、一球投げたその時点で太ももとかふくらはぎに激痛が走った。膝から崩れ落ちなかったのを褒めて欲しいくらいに。
「いったぁ······!」
「情けないわね」
直ぐそこのベンチから声がかかる。そこに座っている白雪は、暇つぶしのために持ってきている文庫本を読んでいた。今日も例の如く、表紙に女の子が描かれたライトノベルで、視線はそこに落とされたままだ。
「筋肉痛程度で女々しい声上げないの」
「君は筋肉痛の恐ろしさを知らないからそんなことを言えるんだ」
超回復やらなんやらの影響らしいが、どうして筋力強化に痛みが伴わなければならないのか。下半身だけでなく、腹筋や背筋にも痛みが走るので、一歩歩くだけですらつらいのだ。
何球か軽くキャッチボールをした後、小泉がその場にしゃがみ込んでミットを構えた。
目を瞑り、深く息を吸って、吐く。
投球前にいつも行う、一種のルーティンのようなものだ。これをすれば、痛みなんて気にならないくらいに集中出来てしまう。
視線と意識をミットに固定。投球フォームに入り振りかぶって、思いっきり腕を振り抜いた。
「ふっ······!」
スパァン! とミットが音を鳴らす。初日の時と違って小泉も首を傾げておらず、それどころかどこか満足げにボールを返球してくる。
僕としても、今までと比べると段違いの投球が出来たと思う。
「もう大丈夫みたいね」
「君のお陰でね」
全盛期と全く同じとはいかないが、限りなくその時に近いピッチングが出来ている。心のしこりが完全に取り除けた訳ではない。寧ろ、それを取り除くために、全力を出し切る。
なにより、僕にとって極上のご褒美が待ってると言うのだから、いつまでも情けないピッチングは出来ない。
その後十球くらいストレートを投げ続けていると、小泉が立ち上がってこちらに駆け寄ってきた。
「そろそろ変化球も投げてみましょうか」
「ちゃんと曲がるかわからないぜ?」
「それはやって見てから言ってください。球種は前と同じのを一通り試してみましょう」
僕の持ち球はフォークとカーブ、それから速いスライダーの三つ。スライダーに関してはあまり曲がらないから、カットボールと呼んでもいいかもしれない。
「それじゃ、カーブ、スライダー、フォークの順番で一球ずつお願いします」
「了解。ちゃんと捕ってくれよ?」
「任せてください」
とたた、と元の位置に戻る小泉。向こうから合図があるのを確かめ、グローブの中でボールの握りを確認した。
頭の中で理想の投球フォームを思い描く。変化球はリリースポイントや手首の動きなどが重要だから、ストレートと全く同じ投げ方をすると言うわけにもいかない。昔はそこまで難しく考えていなかったけど、今日は久しぶりに、しかも硬球では初めて投げる変化球だ。念入りにイメージの確認をするのは悪いことではない。
「よしっ」
息を吸って、吐く。
振りかぶって投げたボールは、しかし思い描いた通りの軌跡を辿らず、想像していたものよりも小さな変化でミットに収まった。
「あんまり曲がってないんじゃないの?」
「おかしいな······」
文庫本から顔を上げていた白雪からも怪訝そうな声が上がる。
握り方は問題なかったはずだし、リリースの時にしっかりとボールを指で弾いていた。回転も十分に思えたのだけど。
「硬球は軟球よりも曲がりにくいんですよ」
返球しながら小泉が教えてくれる。となると、今のままでは全球種使い物にならないかもしれない。ストレートだけで樋山と戦うのは、流石に難しいだろう。
あるいは、それも踏まえた上でもっとボールの回転数を増やしてやればいけるのかもしれないが。
取り敢えずそれを頭の隅に置きながら続けて投げたスライダーは、もう殆どストレートと変わりなかった。もう全く曲がってない。
「スライダーはダメですね」
「みたいだね」
軟球で投げててもあまり曲がらなかった球だし、どちらかと言えば空振りを取ると言うより、打ち損じを狙うような球種として使っていたから、どの道今回の対決ではあまり使い道は無かっただろう。
「最後にフォークお願いします」
フォークはカーブやスライダーとは違って、出来る限り回転をかけない球だ。そして、握力もそれなりに要求される。
僕はこの球に絶対の自信を持っていた。決め球としても使っていたし、事実これで空振りを取ることも多かった。まあその分、暴投の数もそれなりにあったんだけど。
さて、実際に投げてみた僕の決め球はと言うと。
「全然ダメですね」
「やっぱりかぁ······」
一応落ちてはいるのだけど、球速が全然出ていない。そもそもフォークとは、ストレートと見分けがつかないと言う所こそ売りの変化球なのに、球速差がこうも大きいと実戦で使うのは難しい。
「曲がらないものは仕方ないです。取り敢えずこれで、実戦形式で投げてみましょう」
「実戦形式?」
「はい。白雪先輩」
「私?」
離れた位置の小泉から手招きされて、白雪はベンチから立ち上がり素直にそちらへと向かう。
「そこに立っててもらえますか? 夏目先輩に半身を向ける感じで」
「こうかしら?」
「そうですそうです。じゃあ、これで投球練習しましょうか」
「えっ」
まあ、そうなるよね。
白雪からすればまさかそんなことになるとは思っていなかったのか、驚きで目を見開いている。実際、ピッチャー的にはバッターボックスに人がいるといないとでは、投げやすさが全然違ってくるのだ。だから一応、意味がないなんてことはないんだけど、無理にする必要もないことではある。
多分これ、小泉の私怨も混ざってるよ、絶対。あんだけチビチビ言われてたし。
「ちょ、ちょっと待って! 無理無理、絶対無理よ!」
「えー、怖いんですかー?」
「当たり前じゃない! 硬球よ? 当たったら骨折よ? 怖くないわけないでしょ!」
「夏目先輩なら大丈夫ですって」
珍しく慌てふためく白雪。ワンピースのスカート部分が揺れて、危うく中が見えそうになってしまう。
小泉になにを言っても無駄だと察したのか、白雪の視線は僕の方へと向く。
「夏目、あなたからもこの子に何か言ってちょうだい。あなたも投げるの怖いわよね? ね?」
半ば涙目になりながら訴えかけてくるその様は、場違いながらも可愛く見えてしまう。そして、好きな女の子にイタズラしくなってしまうのが、男子と言うもので。
「よし小泉。取り敢えず初球は内角高めギリギリに全力のストレートで」
「はーい」
「え、ちょっと! 待って待って待って!」
捕球したミットが快音を鳴らした後、きゃあ! と可愛らしい悲鳴が聞こえた。
別に普段の毒舌の腹いせとかそんなのではないので、あしからず。
公園での練習が終わればそこで小泉とは解散して、白雪と二人でスーパーに寄ってから僕の家に帰るのがここ最近の日常だった。
二日目は小泉もうちに来て一緒に昼ごはんを食べていたのだが、三日目からは何故か遠慮されたのだ。お邪魔してもなんですし、とか言ってたから、またなにかしらの邪推をしているのかもしれない。
さて、そんなこんなで今日も今日とて、いつも通りスーパーで昼ごはんの買い物をしてから家に戻ったのだが。
「なあ白雪。僕が悪かったって。だから機嫌直してくれよ」
「煩い」
白雪姫は絶賛ヘソを曲げていた。それはもう、僕の変化球よりも大きく。
いや、原因は確実に僕と小泉にあるんだけど。だからこそさっきから謝り続けているし、スーパーでレジのおばちゃんから「浮気はダメよ」とか変なこと言われたし。
こんな様子では、頭を撫でてくれるどころか昼ごはんすら作ってくれるか分からない。
「そうだ、今日は僕が昼ごはん作るよ。その間家にあるゲームしてていいからさ」
「ゲームで私が機嫌を直すと思っているあたり浅はかね。程度が知れるわよ」
「んぐっ······」
「そもそも、人が嫌がっていることをして楽しむとか、頭沸いてるんじゃないの? 人間性を疑うわよ。もしくはそもそもあなたは人間じゃなかったりするのかしら。ええそうよね。あんな真似をするやつが人間であるわけがないわ。あなたなんて始まりの街の前で駆け出し勇者に狩られ続けるスライムとかゴブリンとかで十分よ。永遠に死に続けなさい、このバカ」
なんか久しぶりにここまで思いっきり罵倒された気がする。それだけのことをやらかしてしまったと言うことだろう。
「本当にごめん。その、ちょっと調子に乗りすぎた······」
「はあ、もういいわ。逃げなかった私も私だし。ほら、お昼ご飯作るから、さっさとシャワー浴びて来なさい」
「いやでも······」
「私がいいって言ってるんだから、もういいでしょ。ほら、汗臭いからさっさとする」
白雪本人からそう言われてしまっては、僕からはなにも言えない。
言われた通りに風呂場へ行き、シャワーを浴びる。やっぱり、もう一回くらいちゃんと謝ったほうがいいだろうか。土下座とかも視野に入れないといけないかもしれない。
今日分かったことだが、白雪はどうもあまり運動神経は良くない方のようで。そんな彼女にあんな真似をしたのだと言うのだから、僕と小泉の罪は重い。
カフェオレ何本で許してくれるだろうか。そう言えば近くでパンケーキの食べ放題とかやってたから、そこに連れていくのもアリかもしれない。
なんてことを考えながらシャワーを浴びてる風呂を出ると、白雪はいつも通り昼ごはんを作ってくれていた。今日ばかりはそんな姿を見ているととても申し訳なくなる。
「あー、白雪」
声をかけると、こちらに一瞥もくれることなく調理の手を止めて、ふてくされたような顔で近寄って来た。
「お疲れ様」
いつもより不機嫌な声で、頭を撫でられる。まさか今日もされるとは思っていなくて呆気に取られてしまった。
でも、僕の頭を撫でる手つきは昨日までよりちょっと乱暴だ。
「怖かったんだから、もう二度とあんなことしない。分かった?」
「はい······」
「分かったならよろしい。はい、向こうで待ってなさい」
それだけ言って踵を返し、白雪はまた調理に戻った。
なんだかんだでこうしてくれたのは、彼女が優しいからか、義理堅いだけなのか。ただやっぱり、罪悪感は中々消えないから、今度甘いものを食べに誘うとしよう。
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