第50話

 ムスッと膨れた顔がひとつ。これまでに見たことのないような表情で、ちょっと可愛くも見えるのだが、ずっとこんな調子ではいい加減イラっとして来る。


「あなたね、いつまで拗ねてるのよ」

「別に、拗ねてなんかない。ただちょっと不完全燃焼なだけだよ」

「それを拗ねてるって言うんでしょ」


 声にも少し棘が混じっている。それが向けられている小さな後輩とは、すでに別れた後だ。

 私の目の前で拗ねている彼、夏目とその後輩である樋山の対決から、数時間が経っていた。

 あの後十打席以上続けたのだが、結果は夏目の惨敗。三振一つとホームラン二つ、後は全部外野まで軽々と運ばれていた。清々しいほどの敗北だ。まだ続けるとゴネた夏目だったけど、キャッチャーのおチビからこれ以上の投球はダメだとストップがかかり、こうしてすごすごと夏目の家まで帰ってきた。


「三振一つ取るのに何失点してたかしらね。そこまですっきり負けておいて、不完全燃焼はないんじゃない?」

「そもそも、僕は負けたことにも納得してない。まだ続けてたらもっと三振取れたよ。折角肩が温まって来たころだったのに」

「そう言うの、負け犬の遠吠えって言うのよ」


 返す言葉も無いようで、夏目はバツが悪そうに顔を背けた。負けず嫌いなのは悪いことじゃないと思うけど、ここまで拗らせるとただ面倒なだけね。


「まあでも、よく頑張った方なんじゃない? 相手は現役の高校野球児で、あなたは二年のスランプがあったのに、一つだけとは言え三振取れてるんだから」

「······そう、かな?」

「ええ。なにより、楽しかったでしょう?」


 わざわざ聞かずとも分かる。あんなに目を輝かせながら、ボールを投げていたんだから。


「結果よりも過程が大切、なんてありきたりな言葉だけど、今のあなたには必要な言葉よ。楽しめたってことは、あなたの努力はなにも無駄なものになっていないんだから」

「君がそう言うなら、まあ、そうなんだろうね」


 つい先程までの不機嫌そうなふくれっ面はどこへやら。ふにゃりと破顔した夏目は、実年齢よりも幾分か幼く見えてしまう。

 なんかチョロいわね。ハーレムもののヒロインかってくらいチョロい。


「よし。じゃあ明日からは心機一転、夏休み明けの部誌の原稿頑張るとしようかな」

「今日からじゃないの?」

「いや、流石に今日この時間からは疲れてるから無理だよ」


 外はまだ明るいとは言え、現在午後の五時。学校のグラウンドではしゃぎまくっていたとは言っても、肉体に疲労は蓄積しているだろう。その事を考えて上げたら、明日からでも許せるかもしれない。


「そう言う君はどうなんだ?」

「あなたのお陰でまだ一文字も書けてないわね」

「それは、なんと言うか、ごめん······」

「謝られる必要はないわよ。ここ数日は私も楽しかったし、時間からまだあるんだから」


 五万文字程度、その気になれば一週間とかからず書けるから、そう焦る必要はない。余裕よ、余裕。


「甘いね白雪。そう言ってられるのも今のうちだぜ?」

「なにが言いたいのよ」


 ハッ、と鼻で笑うのが気に食わなくて、思わず目を細めて睨んでしまう。


「時間はまだある。どうせすぐ書ける。まあ一週間あれば余裕だろう。そうやってなあなあで時間を無為に過ごしていき、気がつけば締め切り前日。いいか白雪、締め切りってのはどうあがいても伸びないものなんだよ」


 経験者は語る、と言うやつかしら。その言葉にはどこか重みがある。いや、本来なら重みがあったらダメなはずなんだけど。

 でもそれは、私にプレッシャーを掛けるには充分過ぎる言葉であるのも事実。ちょっと不安になって来たから、家に帰ったらプロットだけでも纏めようかしら。


「まあ、あなたがなんと言おうと、私は余裕で間に合わせるけど」

「夏休み明けてから焦る君の姿が目に浮かぶよ」

「私の素晴らしい文章に打ちひしがれるあなたの姿を見るのが今から楽しみだわ」


 自慢ではないけれど、この手の芸術系ならば誰にも負けない自信がある。

 音楽、演技、絵、そして文章。これまでも私は類稀なるセンスを発揮して来たのだ。コンクールで入賞したことだってあるし、家に置いてある液タブなんてまだまだ現役。もう本当、自分の才能が怖いくらい。


「さて、そろそろ夕飯の準備でもするかな。白雪も食べていくだろう?」

「いいの?」

「これまで色々と手伝ってくれたお礼だよ。僕の手料理をご馳走してあげよう」


 降って湧いた思わぬイベントに、思わず右手がガッツポーズを作りそうになる。待ちなさい、今ここでそれはダメ。家に帰るまで我慢するのよ私の右手。


「あら、それは楽しみね。一体どんな料理が出てくるのか、お手並み拝見とさせてもらうわ」

「あんまり期待しないでくれよ。一人暮らしの男が作る手料理なんて、雑なもんなんだから。それじゃ、出来上がるまで適当に寛いでてくれ」


 言いながら立ち上がり、夏目はキッチンへ向かっていく。どうしよう、ワクワクして来た。

 さて、寛いでいてくれと言われたものの、なにをしたものか。最近ここに来た時は、お昼ご飯を作って、洗濯物して、掃除して、ちょっと休憩してから帰っていたから、ここまで本当にやることがないのは初めてだ。

 掃除も洗濯も、昨日まで毎日していたお陰でする必要はないし。

 どうしようかと考えながら、座っているソファの背もたれに背中を預けると、不意に一つの単語が浮かび上がった。

 通い妻。

 昨日までの私はまるで、それそのものだったのではないだろうか。

 いや、いやいや、いやいやいや。ないわ。それはないわよ白雪桜。だって通い妻って、ねえ? それってつまり、私と夏目が、ふ、夫婦、ってことで、つまり結婚してるってことで······。


「〜〜〜っ!!」


 完全にリラックして伸ばしきっていた背中を丸めた。そうでもしないと、お世辞抜きに人様にはお聞かせできない声が漏れそうだったから。

 これはあれよ。完全にラブコメの読み過ぎよ。そのせいで脳味噌がバカになってるんだわ。きっとそうに違いない。そろそろバトルモノの漫画読んだりアニメ見たりして修正しなきゃ。久しぶりに天元突破しようかしら。


「なあ白雪ー」

「なに?」


 キッチンの方から声が掛かった。向こうとはちょっとだけ距離があるけど、そんな大きな声を出す程でもない。


「結局、初日に行ってたご褒美ってくれるのか?」


 料理の手は止めていないのだろう。トントンとまな板を叩く音も一緒に聞こえてくる。

 誰の胸がまな板よ。


「やっぱり欲しいのかしら?」

「そりゃまあ、貰えるものなら貰っときたいからね」


 夏目へのご褒美。前の時は、そんな言い訳をつけて、随分と恥ずかしいことをした。あの時は場の雰囲気とか勢いに呑まれた節はあったけど、今改めてこの場で同じことが出来るかと問われれば、全力で首を横に振る。

 グラウンドで彼の投球を見ていた時はそれも考えて、覚悟までしていたけれど。いざ二人きりになってしまえば、そんなものあっという間に吹き飛んでしまった。普通に考えて無理でしょ。

 でも、私の心は嗜虐心に燃えてしまって。


「ご褒美、前と同じがいいかしら?」

「なっ······!」


 包丁でなにかを斬る音が途絶える。きっと彼は、頬を真っ赤に染めていることだろう。今の私と同じように。

 お互い顔を見て話しているわけじゃないからだろうか、私の口はいつものように、滑らかに言葉を発していく。


「ふふっ、なにを想像したのかしらね」

「いや、そりゃそんなの······」

「安心しなさい。あの時と同じものじゃないから」

「そっか······」


 その声に、どこか残念そうな色が混ざっている気がしたのは、私の妄想だろうか。


「あら、乗せられちゃった?」

「別に。それで、結局なにをくれるんだ? 頼むから心臓に悪いものはやめてくれよ」

「そうね······」


 特に何か他の案を考えていたわけではない。私から彼にしてあげられることなんて、そんなにないのだし。物品や金銭で済ませるというのも何か違う気がする。

 となれば、思い浮かぶものなんて一つしかなくて。


「なら、あなたの言うことをなんでも一つだけ聞いてあげるわ。勿論、常識の範疇で、だけど」


 つい一ヶ月前にもこんな事をした覚えがあるけど、あの時の罰ゲームとは違う。もっと言えば、私と彼の関係も、少しだけ違う。

 彼が変な事を要求してくるような人間じゃないことは知っているし、彼の出した要求に、出来る限り応えてあげたいとも思う。

 ほんの少し、キッチンとリビングのあいだに静寂が訪れた。なにも言い返して来ないことを不安に思っていると、漸く彼が口を開く。


「じゃあ、今度僕とデートしてくれよ」

「デート?」

「そう、デート。だから、八月の十五日は空けといてくれ」


 彼は、知っていてその日付を指定したのだろうか。

 その日は私の誕生日だ。これまで友達なんて一人もいなかったから、毎年家で過ごして、ささやかながら家族に祝われていた。

 勿論そのことを不満に思ったことはない。お母さんもお父さんも、小梅も、三人とも心から祝ってくれて、ケーキも手作りのものを用意してくれていたし、プレゼントだって買ってくれた。

 だけど。


「ん、分かったわ。その日は空けておく」


 だけど、今年の誕生日は。

 過去のどれよりも楽しみになってしまった。

 デートと言うからには、夏目と二人きりで。わざわざそんな言葉を使ったと言うことは、多少なりとも、そう言う気持ちもあると言うことで。


「エスコート、期待してるわよ」

「ご期待に添えるよう、頑張ってはみるよ」


 彼が料理中で良かった。

 とてもじゃないけど、右手のガッツポーズとにやけ切った顔は、見せられたもんじゃないから。

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