第51話

 凝り固まった全身をほぐすように、グッと伸びをする。目の前の机に置かれたパソコンには、今日一日で約七千文字分のデータが入力された。一先ずは予定通り、と言ったとこだろうか。

 自室からリビングに向かう。先日までのように、キッチンからいい匂いがするわけでもなく、それにどこか寂しさを覚えながらも冷蔵庫からブラックコーヒーを取り出した。


「やっぱ美味しいなぁ······」


 昨日までは完全に禁止されていたので、たったの一口ですらいつもの数百倍は美味しく感じてしまう。そう、この苦味だよ。僕はこれをずっと求めていたんだ。心の中の欠けたピースが、漸く全て埋まったような、そんな満足感と多幸感を覚えてしまう。

 よくもまあ、あの数週間一口もコーヒーを飲まずに頑張ったものだ。危うく僕のアイデンティティがクライシスしてしまうとこだった。

 チビチビと缶を傾けながらテレビをつけると、高校野球の試合をやっていた。確か今日から開催だったか。久しく見ていなかったので、チャンネルはそれに固定。ソファに座ってゆっくり見ることにする。


「てか、もうお昼過ぎてるのか」


 今やってる試合は三試合目。時刻は十四時。ずっと部屋でパソコンとにらめっこしていたから、お昼ご飯すら完全に忘れていた。

 かと言って今から食べる気にもならない。まあ、今日のお昼ご飯はコーヒーということでいいだろう。特別空腹と言うわけでもないのだし。


 さて、今日はこの後どうしようか。ずっと高校野球を見ていると言うわけにもいかないし、夕飯の買い物にだっていかなければならない。ただ、なんと言うか、全体的にめんどくさくなって来た。昨日までが結構忙しなかったからだろうか、体はもっと休息を求めている。

 眠気があるわけではないのだけど、何かをする気も起きないのでぐうたらしていたい。完全にダメ人間の発想だった。

 こう言う時はなにか考え事をしよう。哲学的ななにかを考えられるほどの脳みそを有しているわけでもないので、そうだな、今度の十五日、白雪の誕生日をどうするかとか、考えておいた方がいいんじゃないだろうか。


「デート、ねぇ······」


 昨日、僕から誘ったとは言え、十五日は白雪とデートすることになってしまった。

 あの時はお互い顔を見ずに会話していたから、僕の誘いの言葉に彼女がどのような表情をしていたのかは分からない。でも、声色だけで察するなら、そこまで不愉快にと思っていなさそうで。

 それどころか、ちょっと嬉しそうにしていて。

 まあ、僕の妄想って可能性も大いにあり得るのだけれど。それでも、そんな程度の妄想なら許されるだろう。


 で、だ。まず確実にしておかなければならないのは、プレゼントの確保。生まれてこのかた、同年代の女子にプレゼントを贈ったことなんてあるはずもないので、どのようなものを選べばいいのか全く思いつかない。

 そして次に、デートコースを考えないといけない。あの白雪姫が満足してくれるようなデートコースじゃなければ、もれなく罵倒のフルコースを頂いてしまう事だろう。こっちは、まあ、ネットとかで調べたら出てくるだろうし、あまり焦らずともいいだろう。

 問題はプレゼントの方だ。果たしてどのようなものまでなら渡しても許されるものなのだろうか。

 例えば、ブックカバーとかどうだろう。けれど彼女はいつも本を読む時カバーをしていないから、もしかしたらカバーをするのは嫌っているのかもしれない。中にはそう言う読書家もいるのだ。

 であれば、栞とか。いや、でも栞は単価が安いから、なんか適当に済ませたとか思われないだろうか。

 いっそのこと、少し踏み込んでみて。髪留めとか、どうだろう。


「身につける感じのアクセサリーとかは気持ち悪いかな······」


 そもそも、本当に髪留めなんてプレゼントして、それを毎日学校につけて来られた日には、僕が恥ずかしさで死ねる。白雪のことだから、絶対それが分かっていて揶揄い半分で毎日つけて来るに違いない。

 でも髪留め、結構いい案だとは思うんだけどな。白雪が部室で本を読む時、いつもあの長い黒髪が風に靡いていて。それはとても美しい光景にも見えるのだけど、読書をする上では邪魔になってしまうだろう。だから、髪留めやシュシュなんかの類のものは、いいプレゼントになると思うのだけど。


「自分のものだと言う所有権のつもりかしら、とか言われそうだなぁ······」


 そこに気持ち悪いと罵倒もセットで。我ながら容易に想像出来る未来で参ってしまう。

 まあ、当日まではまだ時間があるのだ。ゆっくり考えればいい。て言うか、髪留めプレゼントしちゃったら神楽坂先輩とキャラが被るしね。

 コーヒーの缶を空にすると、テレビから歓声が上がった。逆転サヨナラホームランらしい。思わず感嘆の声を出してしまう。


「おぉ······。すごいな······」


 最終回の裏でホームランとか、よほどの強心臓じゃないと無理な芸当だ。サヨナラ、と言うことは負けている状況でと言うことなので、殊更に。それが出来てしまう、この状況でいつものパフォーマンスを発揮してホームランを打ててしまう、と言うのは、流石甲子園出場校と言わざるを得ないが。

 もしも。もしも中学からずっと野球を続けていたら。僕も、あの甲子園のマウンドに立つことが出来ただろうか。あの時点で何校からか声もかけられていたし、そうなると蘆屋高校以外の高校に入学していただろう。

 意味のない仮定だ。あり得るはずもない妄想だ。そもそも、僕が他の高校に入学していたら、神楽坂先輩とも、井坂とも、何より白雪とも出会えていなくて。故に、この仮定と妄想は、今の僕の感情を否定することに他ならない。


「重く考えすぎかな」


 テレビの向こうで涙を流しながら、甲子園の土を拾う選手たちを眺める。彼らはそこで涙を流せるほど、野球に熱中することが出来ていた。それは例え負けたとしても、誇るべきことなのだろう。

 好きなことへの情熱だけは、失ってはいけない。それを失ってしまえば、文化祭前までの僕みたいな、空っぽの人間が出来上がるだけだ。

 ならば今の僕は、一体なにに情熱を向けるべきだろうか。

 冷蔵庫から新しい缶コーヒーを取り出し、プルタブを開けて喉に流し込む。カフェインは目を冴えさせはするものの、それで頭が冴えることはないらしい。

 暫くボーッとテレビを眺めていると、携帯がラインの通知を知らせた。

 神楽坂先輩からだ。またなにか、三枝との件で相談でもあるのだろうか。


『明日から文芸部で合宿に行きます!』

「は?」


 ピコン、と。驚いている間にもラインの通知がまた届く。今度は三枝から。


『明日から合宿だってよ!』

「いやいや」


 続け様に、やっぱり白雪からもラインが来て。


『明日から合宿らしいから、今からちゃんと準備しときなさい。海とかあるらしいから、水着の用意もね。あと、水着で変な想像とかしたら殺すから』

「誰が君の貧相な体で······」

『殺すわよ』

「怖っ!」


 僕今、ライン送ってないよね? 完全に独り言だったよね? いや、独り言にしても失礼なこと言ってたけども。それにしても怖すぎる。

 まあ、白雪の謎のエスパー能力はさて置いて。

 なんか、僕の知らないところで、いつの間にかそう言うことになっていたらしい。一応僕も部員なんだから、相談とかもして欲しいなーって思ったりするんだけど、これは恐らくあれだ。白雪によって意図的に情報を遮断されていたに違いない。昨日までは樋山との対決で頭がいっぱいだったし、実際そのこと以外考えられなかったし。

 そのお節介のお陰で前日まで知らされなかったのはどうかと思うのだけど。と言うか、昨日夕飯の時にでも言ってくれればよかったのに。


「水着、あったかな······」


 ということで、明日から合宿だ。

 何泊でどこに行くのか誰も教えてくれなかったけど、まあ、楽しみにしておこう。

 取り敢えず今の僕の情熱は、青春に向けてみようか、なんて言ってみたりして。

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