第62話

 なんか、凄いいい匂いがする。

 それが一体どこから発しているなんの香りなのかは分からないけど、なるほどこれが女の子の部屋というやつなのか。

 だけどどうなんだこの状況。友達になったばかりの女の子の部屋で、ひとり待ちぼうけ。しかもその子はお風呂に入っていると来た。ドキドキしない方がおかしい。

 気を紛らわすために不躾かと思いつつも、視線を部屋の中に彷徨わせる。勉強机に本棚、あとは背の低いタンスがあるだけ。タンスの上には人形が置かれていたり、壁には可愛らしい時計が掛けられていたりするけど、女の子らしい要素なんてそれくらいのもの。本棚の中には野球の本やファッション雑誌などが入っている。中でも目を惹くのは、美容師の資格云々に関するものだろうか。少女漫画とかは全く置いていない。

 しかし、そうか。このタンスの中にさっき理世が取り出した下着が······。


「智樹くんお待たせー」

「······っ!」


 まるで僕の煩悩を見透かしたようなタイミングで、理世が部屋に戻ってきた。

 扉の方に目を向けると、そこに立っていたのはもこもことした半袖にホットパンツの部屋着と、両手で飲み物の入ったコップを乗せたお盆を持っている理世。茶色い髪はしっとり湿っていて、風呂上がりだからか上気した頬は、すっぴんだと言うのに同年代とは思えない色気を感じてしまう。

 しかもズボンがまた短いので、素足を晒した白いふとももに嫌でも目がいってしまいそうになる。なんだあれ、視覚情報だけでももちもちしてるのが分かるってなんなんだあれ。

 残念なことに僕も年頃の男子で、しかもこう言うのには全く耐性がないから、自然と顔が熱くなってしまって。それを見た理世に、またクスリと笑われてしまい、余計に羞恥のようななにかが加速する。


「智樹くんも男の子なんだねー」

「······悪かったね。いかんせん、こう言う状況には慣れてないもんだから」

「そうなの? てっきり白雪さんとはもうそこまでいってるのかと思ってた」

「どうしてそこで白雪の名前が出るんだよ」


 必至に理世のふとももから目を逸らしながらも、なんとか普段通りの受け答えをする。

 僕の横を通り過ぎた理世は勉強机の上にお盆を乗せ、コップをひとつ差し出して来た。中に入っているのは氷で冷えたお茶だ。


「はい、どうぞ」

「ありがとう」


 そのあと当然のように勉強机の椅子に腰掛けるもんだから、床に座っている僕は本当に目のやり場に困る。どうしろってんだよこれ。

 て言うか、理世は恥ずかしくないのか。あれか、リア充にもなるとこんなの当たり前なのか。男女混合でパジャマパーティーとかしてるのかな。あのお父さんが許しそうにないけど。

 理世の方を馬鹿正直に向くのも憚れたりので、特に意味もなく時計を眺めていると、たはは、と少し照れたような笑みが聞こえた。


「やっぱりちょっと恥ずかしいね」

「ならなんでそんな格好してるんだよ······。夏とは言え、風呂上がりにそんな薄着だと風邪ひくぜ?」

「いやー、智樹くんの反応を見てみたくて」


 なるほどつまり、やっぱりからかわれていたと。いやまあ大変眼福ではあったんだけどね。


「それに、こんな格好してても智樹くんは変な気を起こしたりしないでしょ?」

「それはつまり、僕がヘタレだって言いたいのか?」

「まあ、そう言うことだね」


 失礼だな。


「確かにその通りではあるけど、僕だって男なんだから、少しは警戒した方がいいと思うけど」

「下にお父さんいるからねー」

「そう言えばそうだったね······」


 それも、理世がこんな格好になっても安心出来る要素ではあるだろう。断じて僕がヘタレなだけではないはずだ。多分。おそらく。

 椅子から降りた理世は、僕と同じく畳の上に座り込む。体育座りなんてするもんだから、向かいの僕からは際どいところが見えてしまいそうになる。

 ゴクリ、と思わず生唾を飲んでしまうのも、致し方ないことだろう。


「見物料、取ろうかな?」

「······僕が悪かった」


 こちらを覗き込むように首を傾げて言われ、観念して謝ることにした。いや、謝る必要はあるのかどうか分からないけど、視線がそこに吸い寄せられていたのは事実だし。

 けれどここでお金を取ろうとするのは、流石守銭奴と言ったところか。


「でも、君みたいな可愛い子が、そんな魅力的な格好をしてるのも悪いと思うぜ?」

「出た、ナンパモード」

「誤解を招く言い方はやめてくれ」


 そう言うつもりで言ってるわけではないのだけど、どうもそう言う受け取られ方をされてしまうらしい。

 言葉そのものだけでなく、言い方の問題もあるんだろうか。


「まあ、そのことはもういいよ。それよりも、どうして僕はいきなり君の家に招かれたんだ?」


 繰り返すようだが、僕と理世は友達になったばかり。それどころか、知り合ったばかりですらある。そんな男をいくら父親がいるとは言え、普通家に上げるものだろうか?

 しかも、理世は学校で、私が代わりにデートしてあげる、とか言っていた。これもうデートでもなんでもない気がするんだけど。


「ねえ智樹くん。この世で最もお金のかからないデートって知ってる?」

「······なんとなく予想はつくけど、まあ聞こう」

「それはね、お家デートだよ!」


 全力のドヤ顔だった。いくら理世が可愛くてもちょっとイラッとするくらいに。


「と言うわけで、今日は色々お話しよう!」

「うん、まあ、別にいいけどね······」


 こう、お家デートって聞くとそこはかとなく魅力的な感じはするんだけど。その理由がお金がかからない、なんて言われると、どことなく残念な感じがしてしまう訳で。

 でも、こうしてゆっくり話すだけと言うのも、僕は嫌いじゃない。ここに来る道すがらでも雑談はしていたが、理世との会話はどことなく心地よさを感じる。これも理世が持つリア充ゆえのコミュニケーション能力の高さだろうか。


「でも、お話って言ってもな······」

「なんでもいいよ」


 なんでもと言われるのが一番困るんだけど。思考を巡らせて話題のタネをなんとか探すが、そもそも未だにこの状況に慣れていない僕が、普段通りの思考なんてできるはずもなく。

 ふと目に入った本について、取り敢えず切り出してみた。


「じゃあひとつ。美容師の本とか結構置いてるけど、理世って美容師になりたいの?」

「んー、別に美容師になりたいわけじゃないんだよね。お父さんの仕事を手伝いたいってだけで」


 下の散髪屋のことか。美容院と散髪屋だと、色々と違うこともあるだろう。けれど、髪を切ると言うことに関しては共通している。

 少し考える素振りを見せた理世は、やがて意を決したように僕の目を見つめて、言葉を発する。


「私の家ね、お母さんがいないんだ」

「それって······」

「離婚とかじゃなくて、私が中学生の時に亡くなったの。今から二年前に、交通事故で」


 丁度、僕達家族が交通事故に遭って、僕の両親が死んだのと同じくらいの時。僕は白雪や文芸部のお陰で色々と吹っ切れたけど、果たして理世はどうなのだろうか。

 知りたいと、思ってしまった。


「それから、お父さんは男手一つで私のことを見ててくれて、仕事も頑張ってくれてるんだ。だから、お父さんのお手伝いをしたいな、って」

「そっか······」


 立派なものだと思う。理世のお父さんも、理世自身も、多分まだ母親のことを吹っ切れていないのに。

 それでも娘のために頑張った父と、そんな父の背中を見て、父のためになりたいと思う娘の理世。

 それはとても眩しく、尊いものに思える。


「お母さんがいなくなってから、家のことは私が全部してるんだよね。家事も、家計のことも。お陰でお金のことは、ちょっと細かくなっちゃったけど」


 重くなった雰囲気を誤魔化すように笑ってそう言うが、その目には暗い影が落とされている。

 吹っ切れている訳ではないけど、必死に向かい合っているんだろう。母親の死と。向かい合って、それをどうにか受け止めようとして、戦っている。


「凄いね、理世は。ずっと逃げていた僕なんかよりも」

「そう、かな······?」

「うん。そう思う」


 本心からの言葉だった。僕と似たような境遇でありながらも、僕には出来なかった道を辿る理世。そんな彼女が、どこか羨ましくも感じる。


「智樹くんは、さ。お父さんもお母さんもいなくて、寂しくなったりしなかった?」

「それは······どうだろう。そんなこと思う暇もなかったかな」


 色んなものから必死に逃げて、両親の死とも向き合えなくて。正直、余裕がなかったとも言える。

 今なら確かに、寂しいと言えるかもしれない。普通の人が当たり前に持っている家族と言うあたたかいものが、僕にはないのだから。


「私は、お母さんがいなくて、寂しかったんだ。お父さんはいてくれるけど、それまでいた筈のお母さんが、いきなり、なんの前触れもなくいなくなるんだもん。でも、お父さんは、もっと寂しい思いをしてたと思うから。だから······」

「泣けなかった?」


 無言でコクリと頷いて、理世はそれきり俯いてしまった。

 強い子だと思う。僕達はまだ子供で、親がいるのが当たり前なのに。片親なんて今時珍しくはない、なんて言う人もいるだろうけど、それでも。

 寂しかったなら。泣きたかったなら、泣けばよかったのに。

 バッと顔を上げた理世は、この空気を霧散させるかのように明るい笑顔を浮かべていた。


「なんか、ごめんね? 変な話になっちゃって」

「いや、僕こそ変なこと聞いちゃって、悪かったよ」

「ううん、私が余計なこと言っちゃったから。ほら、なにか他に明るい話しよ!」

「明るい話ねぇ······」

「そうだ、結局白雪さんとはどこまでいったの? そこんとこ教えてほしいんだけどなぁ〜」

「白雪か······」


 彼女のことを考えてみて、今度は僕が暗い思考に陥ってしまう。

 それを表情から読み取ったのだろう。理世は途端に申し訳なさそうな顔になった。


「あっ、ごめん、そう言えば······」

「あー、いや、いいよ別に。僕は気にしないから」


 ダメだ。お互いに思い浮かぶ話題が地雷になってる。なにこの地雷原。なんで撤去してないの?


「でも、さ。智樹くんは、白雪さんのこと好きなんだよね?」

「······」

「無言は肯定と受け取るけど」


 なんでバレてるの? 僕、一言もそんなこと言ってないんだけど。


「そう言う理世こそ、好きな人とかいないのかよ。君、モテるだろ?」

「あ、誤魔化した」

「まあまあ。で、そこんとこどうなんだ?」

「んー、確かに告白とかはよくされるけど、付き合った人とかはいないかな。だってほら、よく知りもしない人から告白されても、正直怖いだけだしね?」


 そう言うもんだろうか。そう言うもんなんだろう。その点男は、ちょっと可愛い女の子から告白されただけでコロリと落ちるどころか、ちょっと優しくされただけでも惚れるような単純な生き物だったりするんだけど。

 まあ、告白されたこともなければ理世と神楽坂先輩以外に優しくされたことのない僕が言っても、説得力に欠けるけど。

 なんて脳内で自虐していると、三角にした足に顔を埋めた理世が、僕を見上げるようにして、頬を少し染めてこんなことを言ってきた。


「だから、智樹くんなら付き合ってみても、いいかもね?」

「えっ」


 突然の発言に思考停止する僕。そんな僕を見て、一転してクスクスと笑みを浮かべる理世。


「ふふっ、冗談だよ、じょーだん。流石に、知り合ったばかりの男友達と付き合おうと思うほど、軽い女じゃないよ」

「あ、うん、冗談ね。うん。そうだと思ってたよ。うん」

「ほんとかなー?」

「本当だよ。ただ、君みたいな可愛い女の子から、冗談でもそんなこと言われると、男子的にはグラっとくるものがあるってだけだ」

「満更でもなかったんだ?」

「まあ、ね······」


 からからと気持ちよく笑う理世。どうやら、僕の純情っぷりは楽しんで貰えたようで。

 でも本当、心臓に悪いからそう言うこと言うのやめてね? 自分の容姿をちょっとは自覚しよ?



 その後も他愛のない話を続け、気がつけばいい時間になっていたので、お暇することに。流石に今の理世の格好で外まで見送りに来てもらうことは憚れたので、階段の下までで遠慮してもらった。

 そして勿論、下に降りると理世のお父さんとエンカウントすることに。


「あんた、うちの娘に妙な真似してないだろうな?」

「してません。断じてしてません。神に誓ってしてません」

「もう、お父さん! いい加減にして!」


 理世に怒鳴られたことで、お父さんも渋々ながら引き下がった。そりゃまあ、風呂上がりでこんな無防備な格好にてる娘と、何処の馬の骨とも知れない男が部屋で二人きりになってたら、こんな風にもなっちゃうよね。


「ごめんね智樹くん」

「いや、理世が謝る必要はないと思うぜ」

「そうかな?」

「そうだよ」


 本当、謝る必要はないので。だから上目遣いやめてください。可愛くて死んでしまいます。


「そうだ、今度浅木市で花火大会あるよね? 綾子ちゃんとか修二くんも誘って一緒に行かないかな?」

「いいね。確か来週だっけ?」


 浅木市では毎年、海の方で花火大会が開かれる。サマーカーニバルと呼ばれているそれは、年々花火や大会自体が縮小しているものの、未だに来場者が多い、この近辺では最も大きな花火大会だ。


「僕は一応毎日練習に顔出すつもりだし、予定はそのうち詰めようか」

「うん。綾子ちゃんからは明日私から誘ってみるね」

「なら樋山には、僕から声をかけてみるよ」


 本当なら、その花火大会も白雪を誘ってみようと思ってたのだけど。連絡が取れない以上、どうしようもない。

 三枝も先輩と一緒に行くだろうし、僕がお邪魔してもなんだから、この誘いは素直に嬉しかった。


「じゃあ、お邪魔しました。また明日」

「うん、また明日ね」


 最後まで理世のお父さんには睨まれながらも、理世の家の散髪屋を後にした。

 今日一日で、彼女とはそれなりに仲良くなれたかもしれない。

 でもやっぱり、男と二人きりであの格好は今後やめてほしい。お父さんに殺されかねないので。まあ、大変眼福ではあったんだけども。

 これは暫く、彼女の白いふとももが頭から離れなさそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る