第8話
白雪と二人でバザー会場を粗方回った後、文芸部のスペースに戻り、三枝達と店番を交代して持ってきたパイプ椅子に腰を下ろした。昼食も屋台の焼きそばやらたこ焼きやらにプラスで神楽坂先輩のおにぎりも貰った。我が親友には存分にデート(仮)を楽しんでもらおう。
「夏目様、こちらをどうぞ」
「ありがとうございます」
「白雪様はどちらにしましょう?」
「えっ、その、夏目と同じので」
「かしこまりました」
後ろに控えている中岸さんが、持参したクーラーボックスの中から飲み物を渡してくれる。四月の末とは言え、気温はかなり高い。それにこの人口密度に参加者達の熱気。実際の温度より暑く感じてしまうだろう。
中岸さんから飲み物を受け取った白雪は、思わずと言った風にげっ、と漏らす。彼女が受け取ったのは僕と同じもの。それ即ちブラックコーヒーだ。
「おや、ブラックコーヒーは苦手でしたかな?」
「いえ、大丈夫、です······」
神楽坂先輩とはかなり距離を詰めて仲良くなったようだが、中岸さん相手は少し苦手らしい。ダンディで爽やかな笑みを浮かべた男性から上品に扱われるなど、これまでの人生で経験したことがなかったのだろう。今の白雪は、車に乗って直ぐの状態に逆戻りしてしまっている。
「どうした、飲まないのか?」
白々しくも隣にそう問いかけた。込み上げてきそうな笑いを必死に抑える。そして煽るようにして自分のコーヒーを喉に流し込み、わざとらしくも美味いと口を漏らす。
そしてもう一度隣を見ると、意を決したようにプルタブを開けた白雪が。
「飲むに決まってるでしょ。せっかく頂いたんだから」
その声はどこか震えているようにも聞こえる。冷静に考えなくてもちょっと性格悪いことしすぎたかな、なんて思っていると、白雪は遂にスチール缶に口を付けた。
そのまま両手で缶を傾け、グビグビと飲んで行く。コーヒーを嚥下する際に動く喉元が、なんだかとても色っぽく見えてしまう。いい飲みっぷりだなー、なんて思うも、スチール缶が元の角度に戻ることはなく。十秒以上たっぷり時間を掛けて、白雪はブラックコーヒーを一気飲みした。
「ぷはっ」
「君、よくやるな······」
「苦い······」
「なら無理しなけりゃ良かったのに。······ああ待て待て、制服で拭おうとするな」
桜色の小さな唇から溢れている茶色い液体を、下品にも制服の袖で拭こうとしていたので慌てて腕を掴んで止める。年頃の女の子がやっていいことではない。咄嗟に掴んだ腕が予想よりも細くて、少し驚いた。
「気安く触らないで頂戴」
「おっと、それは悪い」
どうやらこちらも、年頃の女の子にやっていいことではなかったようだ。
白雪の腕から手を離した後、ポケットからハンカチを取り出して、それを彼女にさし向ける。
「ほら、これ使え」
「ええ」
それを素直に受け取って、白雪は乱雑に口元を拭う。それでメイクが崩れたりしないのかと心配になったが、そんなことはなく。寧ろ、元からそんなものはしていないのかもしれない。女性のメイクに詳しいわけではないからよく分からないが。
「洗って返すわ」
「いやいいよ。自分で洗うから」
「だって、私が口を付けたものなのよ? そんなもの渡したら、あなたが一体これで何をするのかわかったもんじゃないわ」
「生憎ながら、同級生が口を付けたハンカチ一つで興奮するほど、変な性癖を持っているわけじゃないんでね」
そりゃちょっとは扱いに困ったりするけども。所詮はその程度。ハンカチで変な気を起こすわけもない。しかもそれ、僕のハンカチだし。
「て言うか、そのハンカチ、君に渡す前に僕が使ったって言ったらどうするつもりなんだよ」
「······っ!」
白雪の頬が急速に赤みを帯びて行く。待て待て、そんな表情するな。こっちまでなんか恥ずかしくなってくるだろ。
「返すっ!」
「ちょ、投げるなよ」
「煩い。知らないわよ。最悪······。泥水で口を洗わなきゃ······」
「いや、なんで泥水······。余計に汚れるだけじゃないか」
「あなた、ジョジョネタも知らないのね」
呆れたようにため息を吐かれるが、言われても僕にはさっぱりだ。多分、オタクにしか通じないネタの一つだったんだろう。ジョジョくらいなら僕も名前程度は知ってるし。
「泥水の方が綺麗だって言ってるのよ」
「おいおい、流石にそれはあんまりじゃないか? 僕は沖縄の海も裸足で逃げ出す程に透明感のある人物として名が通っているんだぜ?」
「笑えないジョークね。あれだけ私のことを煽っておいてどの口が言うのか」
お互い皮肉げに口元を歪める。いつも通りのやり取り。彼女の毒舌を僕が綺麗に受け流す、ともすればどこか落ち着くような、日常の一つ。
それに終わりを告げたのは、背後から聞こえてきた甲高い金属音だった。
僕たち文芸部のスペースは、球場を背にする位置にある。だからきっと、今聞こえてきたのは硬式バットが快音を鳴らした音。ホームランとまでは行かなくとも、大きな一打であったのだろう。
「試合、観に行かないの?」
先程までの笑みを引っ込めた冷たい無表情で、こちらを見ることもなく、白雪は抑揚のない声で尋ねてきた。声の主に顔を向けるも、彼女は丁度やってきたお客さんの会計をしている。
文芸部の文集は一部300円。500円玉を受け取った白雪は、お客さんである小学生くらいの女の子に優しい笑顔を向け、お釣りの200円を渡した。
「行かないよ。僕が行ってもどうしようもないだろ」
走って母親の元へ駆けて行く少女を見送りながら、そう返した。
「どうかしらね。少なくとも、あの後輩二人、特に坊主頭の彼は喜ぶんじゃない?」
「どうだか」
心にもないことを言った自覚はある。中学時代、樋山が僕のことを慕ってくれていたのは自他共に認める事実だ。そして彼は、大きな体に似合わず、自己主張があまり激しくない面がある。共に野球部の練習に励んでいた時も、それが仇となったことだってあった。
だから、先日小泉が僕のところに来たのは、つまるところ彼の気持ちを代弁していたのだろう。僕に見に来て欲しいと言う、樋山の言葉を。
「私、あなたのこと知ってたのよ」
「は?」
脈絡がなく、そして意図の掴めないそのセリフに、思わず彼女の方を向いてしまう。
知ってた。つまり、僕と彼女が知り合ったあの日よりも前から、という事か?
「私の父親が野球好きでね。二つ隣の市にプロ野球選手が住んでる。その息子も野球をしてるらしい、ってどこからか情報を仕入れて来たのよ」
「へぇ。こんな近くにもいるもんなんだな」
「ある日偶々立ち寄った球場で、中学野球の大会が行われてたわ。そこにその野球選手がいてね。父は一人で大盛り上がり。バックスクリーンのでっかいスコアボードに、その野球選手と同じ名前が映し出されてたから、今マウンドでボールを投げてるのは、彼の息子に違いない、って」
「プロ野球選手の子供にまで興味を持つなんて、随分熱心なファンじゃないか」
「で、その中学生を見て、父が言ったの。あの子は将来凄いピッチャーになる、って。父も昔野球をしていたし、それなりの高校でそれなりの成績を収めていたから、それなりの説得力はあったわ」
「それなり、ね。そう聞いてると、親父さんの言葉をあんまり信用してなかったように聞こえるぜ」
「信用せざるを得なかったわよ。だって、マウンドに立っている男の子の目は、とても輝いてたもの。今のあなたと違って」
だから、気に食わない、か。
テストで彼女の順位を抜いてしまったからだと思っていたが、なるほど、そんな理由があったのか。
「それで? 君は僕を知っていた。そのことを打ち明けて、どうするつもりだ?」
「別に、なにをどうこうしようってわけじゃないわよ。ただ、あんまり半端な気持ちで、小説とか書いて欲しくないだけ」
「半端な気持ちで書いてるわけじゃないさ」
「なら、あなたの家の玄関先にあった野球のスパイクはなに?」
「······っ」
思わず、言葉に詰まってしまった。
まさか見られてしまったとは。いや、別に見られたからって疾しいことがあるわけではないんだ。たかが捨てられないスパイク一つ、彼女に見られたところでなんてことはない。
「夏目。あなた、まだ諦めきれてないんじゃないの?」
「······」
僕には、返すべき言葉がない。持っていない。野球とは縁を切った。諦めもついた。もう僕がマウンドに立つことは、二度とない。
そう返せば良かっただけなんだ。その言葉は喉まで出かかって。けれどどうしても、形を持つことはなかった。
「まあいいわ。あなたがどうしようが、どう思ってようが、それはあなたの勝手。あなたの感情に口出し出来るほど、私はあなたと親密な仲じゃないし」
「僕は結構仲良くなれたと思ってるけど」
「言ってなさいナンパ野郎」
もう言いたいことはないのか、白雪はそれ以降口を閉ざしてしまう。僕としても、あまり踏み入って欲しくない話だからありがたい。
背後の球場から、大きな歓声が響いた。試合に大きな動きがあったのだろうか。そもそも、今やってる試合がうちの学校かどうかも知らないが。
会話がなくなってからも、お客さんはまばらにやって来る。ペラペラとページを捲って結局買わない人もいれば、中身を見ることなく購入してくれる人までいた。年齢層もまばらで、先程のように小学生くらいの子供もいれば、同い年に見える若者もいたし、年老いたおじいちゃんも買ってくれる。どうやら、毎年参加しているだけあって、それなりのネームバリューと言うやつはあるみたいだ。
残っているのはあと20冊くらいだろうか。なんとなしにスマホで時間を確認すると、開始から二時間近くが経過していた。このバザーは16時までだから、残り三時間。
順調に売れていたのだが、やはりお客さんが全く来ない時間と言うものは訪れる。暫く暇を持て余し、中岸さんから受け取った二本目の缶を傾けていると、突然白雪が立ち上がった。
「どうした?」
「お手洗いよ。女性にそんな事を聞くなんて、下水処理場に放り込むわよ」
「僕を濾過してもこれ以上綺麗にはならないぜ?」
物騒な言葉を残し、白雪はお手洗いに向かう。しかし困った。何が困ったって、今までの集客率は確実に白雪のお陰だからだ。特に僕と同年代の男共はそうだと思うのだが、あんな美人が座っていたら、そりゃ目を惹くし、立ち止まって売り物に手を伸ばす事もあるだろう。きっと、三枝と神楽坂先輩の時も、先輩のお陰で売り上げが伸びていたに違いない。
「夏目様。少々お耳を······」
「どうしました?」
突然中岸さんが僕の耳に顔を寄せてきた。なにか周りに聞かれるとまずい事でも話すつもりだろうか。例えば、僕と白雪のさっきの会話についてだとか。
「白雪様は見えますね? その5メートルほど後方をご覧になってください」
白雪が人混みから外れた道を歩いて行ってるのはここからでもまだ見える。そしてその後方。5メートルというのがどれくらいなのか、目測ではイマイチ分からないが、中岸さんがなにを指したのかは理解出来た。
白雪の後をつける、キャップ帽を被りマスクをした男。ここからでは顔はよく見えない。
ついに白雪の姿もここからでは見えなくなり、男は彼女と同じ方向へとなおも歩いて行く。
ゾワリと、嫌な予感が背筋に走った。
「中岸さん」
「承知しております。店番はお任せください」
名前を呼んだだけで、こちらの意図を察してくれる。小さく頭を下げてから、ブルーシートを跨いで白雪の後を追う。
あの男が本当にストーカーだとは限らない。もしかしたら、偶々同じ道を歩いているだけかもしれない。
けれどあの道の続く先には、女性用トイレしかないのだ。更に言えば、この記念公園のトイレは掃除が行き届いていなくて、あまり使用したがる人はいない。皆球場の中や陸上競技場の方のトイレへと足を運ぶほどに。
つまり、この記念公園において、十分すぎるほどに周囲からの死角となり得る唯一の場所なのだ。
「まさか本当に来るとは······」
頼むから、無事でいてくれよ。
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