第71話
「だって私、智樹くんのこと、好きだから」
その言葉の意味を、理解出来ない。
実にシンプルな単語だ。小学生どころか、幼稚園生でも知っているような。そんなものが理解できないのは、何故だろう。
いや、理解できないと言うよりは。あまりにも唐突過ぎて、脳がオーバーヒートを起こしてしまっている。理解できないのではなく、受け止めきれない。そう言った方が適当だろうか。
そんな僕を見て、理世は悲しげに表情を歪ませる。
「······ごめんね。そんな顔をさせるつもりじゃなかったんだけど」
「えっ······」
言われ、自分の顔に手を当てる。僕は今、どんな表情をしているんだ? この場に鏡なんてあるわけないから、それすらも分からない。余程酷いことになってるんだろうか。
「理世、僕は······」
「言わなくていいよ」
なにか言葉を返さねばと思って、それを理世に遮られる。彼女はもういつもの笑みを浮かべていて。
いつも通りのはずなのに、それが痛ましいものに見えてしまう。
「どうして、僕なんかを······」
絞り出した声は酷く掠れていた。
正直に言って、僕が誰かに好かれるような人間だとは思えない。運動と勉強が出来るからってなんだと言うのか。理世に何度も言われたみたいに、ナンパ野郎みたいな言動を軽々しくとるし、肝心なところでヘタれるし、友達も少ないし。性格だって、お世辞にもいいとは言えないだろう。
だけど理世は、それを笑顔で否定してくれる。
「智樹くんは、自分を過小評価しすぎ。何度も言ってるよね?」
「そんなことは······」
「あるよ。智樹くんは優しくて、誠実で嘘をつかない。大好きなことに一生懸命になれる、素敵な人」
そんなことはない、とまた言いかけて、理世がこちらに向ける真剣な眼差しを見てしまい、その言葉を呑み込んだ。
「でも、それを向けるべき相手は私じゃない。智樹くんの優しさや誠実さを、なにより智樹くん自身を必要としてる人がいるから」
「本当に、必要とされてるのかな······」
彼女は言った。自分は必要とされるべきではないと。そしてこうも思ってるはずだ。誰かを必要とするべきではないと。
そんな彼女に、僕は必要とされているのだろうか。
「大丈夫だよ。もっと自信を持って。智樹くんの中には、根拠になる出来るだけの思い出があるでしょ?」
ゴールデンウィークで、ストーカーから助けた。
三枝と神楽坂先輩を尾行して、デートの真似事をした。
彼女の初恋が僕だと教えられて、その帰り道に連絡先を交換した。
文化祭で彼女に救われて、自分の感情を自覚して。
なにより、あんな呪いを押し付けられた。
ああ、これは確かに。根拠となり得るかもしれない。
「だから、大丈夫。その沢山の思い出と、智樹くんの気持ちがあれば。絶対大丈夫」
「でも······」
でも。ならば理世の気持ちはどうなる? 僕に好きだと告げてくれた、この子の想いは? それを容易く切って捨てて気持ちを切り替えられるほど、僕は薄情な人間になった覚えはない。
「でも、じゃないの! 私に言うべき言葉は、そんななよなよした優柔不断なものじゃないでしょ?」
「······うん。そうだね」
本当に、強い子だと思う。僕なんかよりもずっと。きっと白雪に出会っていなかったら、心底から理世に惚れてしまっていただろう。
でも、そんな仮定は無意味だ。それはあくまでもあり得たかもしれないと言うだけで、僕達にとっては今この瞬間の現実だけが全てなのだから。
「僕、好きな人がいるんだ。だから、ごめん」
心が軋む。今は鏡を見なくても、自分が酷く情けない顔をしているのが分かる。
けれど、理世はやっぱり笑顔で。
「うん、知ってるよ。だから、今から白雪さんのとこ行こっか」
「え?」
また突然とんでもないことを言い出すのだった。
いや、マジで待って。なんで? そこでだから、って接続詞を使うのはおかしいでしょ。接続詞が接続してないよ?
「さすがに今からって言うのは······」
「善は急げ! 私を振ったんだから、今すぐにでも白雪さんと仲直りする! 時間はお金の次くらいに大切なんだから!」
お金より時間の方が何倍も大切だと思うんですが。
「そもそも僕、なにを言えばいいのかもまだ分かってないんだけど」
「そんなの、自分の気持ちを正直に言うしかないでしょ? ほら、私みたいに。でもなんの工夫もないと、結果も私みたいなオチになるかもだけどね」
自虐ネタに昇華するの早くない? むしろ僕の方がまだ心の整理とかついてないからやめて欲しいんですけど。
「あー、あれだ、理世。まだ仕事残ってるし、ほら、明日でもいいんじゃないか?」「残りは私一人でも出来るから大丈夫! いざとなったら綾子ちゃん達呼ぶし」
「いやでも······」
「往生際が悪いなぁ。これだからヘタレナンパ野郎は」
ちょっと? 君、本当に僕のこと好きなの? 言いたい放題言いすぎじゃない?
顎に人差し指を当てて首を傾げる理世は、一体どんな恐ろしいことを考えているのだろうか。これで思い直してくれたらいいのだけど。
正直、今から白雪のとこに行けと言われても、彼女は既に家に帰ってしまってるわけで。白雪の家に単身突撃する覚悟なんて、勿論僕にはないわけで。
「じゃあ、行かないんだったら私が智樹くんに振られたこと、みんなに言っちゃおうかな」
「今すぐ白雪の家に行かせていただきます、マム!」
「よろしい」
にっこりと微笑んだ理世が怖くて、弾かれたように立ち上がった。可愛い顔して悪魔みたいなこと言いやがる。
しかし今ここで起こったことを言いふらされては、僕の命はないも同然なので、従わざるを得ない。
「じゃあ、頑張ってきてね」
「······うん。頑張ってくる」
笑顔の理世に見送られて、体育倉庫を出た。
白雪を文芸部に戻して、生徒会の副会長もやらせて、ついでに迷惑かけた全員に頭を下げさせてやる。
可能なら、理世とも仲良くして欲しいけど。理世が仲良くできないと言っていた理由が、なんとなく分かってしまった気がする。僕としては複雑だ。
一度会議室にカバンを取りに戻り、そこから昇降口へ向かう。会長はどこかに出掛けてしまっていたのか、会議室にはいなかった。仕事を途中で抜けた謝罪は、明日白雪と一緒に行くことにしよう。
「夏目」
昇降口に辿り着き、下駄箱で靴を履き替えていると、背後から声がかかった。振り返った先にいたのは、文芸部顧問の大黒先生。
「お前、運営委員の仕事はどないした」
「すいません、ちょっと用事があるんで抜けさせてもらいました」
「白雪のことか?」
察しのいいその一言に、無言で首肯する。
そうか、と呟いた先生は胸ポケットに入っているタバコを取り出そうとして、ここが校内で禁煙なのを思い出したのか、上げた右手は行き場をなくしたように彷徨う。
「ちょっと、話ええか。白雪の、いや、桜と小梅のことについて」
「まあ、大丈夫ですけど······」
その呼び方に違和感を覚えながらも、ついて来いと言われるがまま、また靴を履き替え先生について行く。
案内されたのは職員室の隣にある空き教室。他の教室ほど広くはなく、文芸部の部室よりも更に小さいそこは、微かにタバコの匂いがした。
中心に置かれている長机の上には灰皿も置いてあるから、教師達の休憩所として使われているのだろうか。
そして例に漏れず大黒先生も胸ポケットからタバコを取り出し、火をつける。吐き出した煙は換気扇に吸い込まれて外へ流れていった。
「あいつらな、オレの姪やねん」
「は?」
なんの前振りもない、突然の告白。お陰でめちゃくちゃ失礼な声を出してしまった。
いや、姪って、あの姪? 白雪姉妹と大黒先生が?
「えっと、なにかの冗談ですか?」
「アホ、冗談でこんなこと言うわけあらんやろ。あいつらの母親がオレの妹。で、あいつらからしたら、オレは叔父になるっちゅうわけや」
「いやでも今までそんなこと一言も······」
「そりゃ言っとらんからな。教師に親族がおるっちゅうのも、あんま知られたないやろうし」
「でも大黒先生、関西出身ですよね?」
「こっちに来たんはもう何年も前やけどな。楓もさすがに関西弁は抜けとるみたいやわ」
えぇ······。なにこの衝撃の事実······。特に知りたくもなかったんだけど······。
でも夏休みの時、確かに白雪は大黒先生のことをよく知ってる風だったし、よくよく思い出してみると、小梅ちゃんは合宿の待ち合わせの時、僕には挨拶していたが先生はガン無視していた。いや、それで気付けって言われても無理だけど。
ちょっと今日一日で衝撃的なことありすぎじゃない?
タバコの火を消し灰皿にそれを捨てた先生は、未だ扉付近で立ち竦んでいる僕を見る。よく見ると、目元が似てないこともないかもしれない。
「悪いな夏目」
「タバコですか?」
「ちゃう。桜のことや」
ですよね。
「桜が小梅に対して、色々思う所あるんはオレらも分かっとったつもりやった。せやけど、それを分かっとってなんも出来んかったんも事実や。オレら大人が、もっとあいつのこと見てやらんとあかんかってんけどな」
そう言った大黒先生の目には、後悔の念が滲んでいる。けれど、ここで先生を責めるのはお門違いもいいところだ。これは誰が悪いと言うわけでもないのだから。
「オレも楓も、勿論桜の父親も、今になってあいつにしてやれることはなんもない。せやから、夏目。お前がどうにかしてくれんか」
此の期に及んで、僕程度が、なんてことは思わない。きっと、僕にしか出来ないことがあるんだろう。理世も、神楽坂先輩も、小梅ちゃんも。自分達ではなく、僕に託した。そして、大黒先生も。
だけどひとつだけ、未だ答えの出ていない問いが僕の中に燻っている。
「先生は、ハッピーエンドの条件ってなんだと思いますか?」
理世はそれを、好きな人と共にいることだと言った。友達や家族と一緒にいて、笑い合う日常こそが幸せだと、あまつさえ、僕と付き合うことがそうなのだとも言った。
だがそれは、理世の中での幸せだ。現実に、僕は彼女の告白を断り、この場にいるのだから。
「んなもん簡単やろ。そいつにとっての幸せとはなにか。それを理解することや」
それは、僕や理世が導き出した結論と大差ないものだった。だから、重ねて疑問を問う。
「でも、その定義は人によって曖昧じゃないですか。誰かのハッピーエンドは、必ず他の誰かのバッドエンドも訪れさせる。それでいいんですか?」
「お前、アホやろ。そんなんでよう小説なんか書けたな」
しかしそんな僕の疑問は、本気で馬鹿にしたようなため息で一蹴された。
胸ポケットからまたタバコを取り出し、先生は二本目に火をつける。
「んなもん考えとったら、終わるもんも終わらんやろ。禅問答じみたことやりたいんやったら他を当たれ」
「そう言うわけじゃないんですけど······」
「んなら、バッドエンドを勝手にそうやと決めつけんな。物語が終わったその先。そこを考えるんは、読者の自由や。お前程度が勝手に決めつけとんちゃうぞ。もしかしたらその先に、そいつんとってのハッピーエンドが待っとるかもしれんやろ」
まるで生徒に向けているとは思えない、雑な言葉遣いとなおもこちらを馬鹿にしたような目。それだけで、白雪と血が繋がっているのを実感してしまう。彼女の口の悪さは、どうやらこの人が端を発するらしい。
「せやから、もう一個条件に付け加えるとするならや。誰かの不幸なんぞ考えんな。そいつの幸せだけを考えろ。そいつは一体、なんのために生きとんか。それだけ考えとったらええねん」
なんのために生きているのか。それは随分とご大層で大袈裟な言い方かもしれない。けれど結局、幸せとはなにか、なんてのを突き詰めると、そこを考えなければいけないのだろう。
そして僕にとっての幸せとは。今、なんのために生きているのかと問われれば。
白雪と共に過ごすため。春の日に課せられた罰ゲームを、履行するため。
それが叶えられた時こそ、僕にとってのハッピーエンドだ。彼女を連れ戻すのは、あくまでもその過程にすぎない。
「よし、そんじゃ今から桜んとこいこか」
「ええ、まあ、そのつもりでしたけど」
「さすがにお前一人で行ったら門前払いくらう可能性もあるやろ」
「たしかに」
「ちゅーことで、オレに任しとけ」
ズボンのポケットから取り出したスマホで、どこかに電話を掛けだす先生。どこに電話してるのかはある程度察しはつくけど······。
「ああ、もしもし。楓か? 今家おるか? ん、ならええ。今から夏目連れてそっち行くから、桜もおるな? おん、その夏目や。······あー、うるさいうるさい。響くから電話口で叫ぶなや。兎に角、桜逃すなよ。切るからな」
なにやら電話口から叫び声のようなものが聞こえたけど、大丈夫なんだろうか······? 不安でしかない······。
叫び声がまだ聞こえると言うのに大黒先生は容赦なく通話を切り、スマホをポケットに入れた。
「よし、んじゃ行くぞ」
「あ、はい······」
一抹の不安は残るけれど。
ハッピーエンドの条件とやらを、満たしに行こう。
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