after6 side:Cinderella
私が野球部のマネージャーになったのに、大した理由はなかった。ただなんとなく、どこかの部活に入ろうとは思っていて、なんとなく野球部にしただけ。その頃の私は野球のルールなんて少しも知らなかったし、試合を見たことがあるのだって、お父さんがテレビの野球中継を見ている時くらいのものだった。
そんなふわふわした、動機とも言えない理由で入部した当日。
彼の名前を初めて聞いたのは、その時だ。
「おい聞いたか? うち学校、あの夏目がいるらしいぞ」
「マジで? 夏目って言ったら、夏の大会前に急に消えたあのピッチャーだよな?」
近くの新入部員がこそこそと話すのが聞こえた。どうやら、その夏目と言う子は、中学野球でそれなりに有名な子だったらしい。抱いた感想なんてそんなものだった。
どうやら野球部に入らなかったらしい彼のことは、フルネームはおろかどこのクラスなのかも、どんな顔なのかも知らなくて。最早頭の中から消えかけていた、一年の三学期。
一度だけ、彼と話したことがある。
それはクラスの友達と、図書室に行った時の話。昼休みに暇を持て余していたから、校内の行ったことがない場所に行ってみよう、なんて話になって。私はその時、初めて学校の図書室に訪れた。
中に入ってその蔵書量に驚いたけど、私と友達が一番驚いたのは、受付に座っている図書委員だろう。
白雪桜さん。
『毒林檎が大好きな白雪姫』なんて、クラスの誰かが噂していたのを覚えている。この時から既に、彼女は有名人だった。
まさかそんな子がこの場にいるとは思えなくて、なんとなく萎縮してしまった私達だけど、白雪さんは入室して来た私達を一瞥することもなく、文庫本に視線を落としていた。まるで、私達に気づいていないかのように。
人の少ない静謐な雰囲気の図書室を、友達と別れて物色する。取り敢えず、スポーツ関連の本を探して彷徨い歩き、辿り着いたその先に、彼はいた。
本棚に並べられた野球の本を、無色透明な瞳でただ眺めている男子生徒。上履きの色で、彼が同学年だとは直ぐにわかった。けれどその横顔は、クラスの男子達よりも、もっと大人びたものに見えて。
少しだけ、見惚れてしまった。
人の気配に気がついたのか、こちらに振り向いたその男子生徒と、目が合う。
最低限、寝癖を直した程度しか整えていない髪の毛。優しそうなのに、どこか生気を感じさせない瞳。男子の平均より少し高いくらいの身長。
普通にしてたら、多分結構イケメンな方なんだと思う。でも、目の前に立っている彼からは、どうしようもない程の虚脱感しか感じ取れない。
「もしかして、邪魔だったかな?」
「あっ、ううん、全然そんなことないよ」
いきなり話しかけられたのが意外で、ちょっと慌てたような返事になってしまった。さっと一歩身を引いてくれた彼の前を失礼して、丁度良さそうな本を探す。マネージャーとして、もっと野球の知識を蓄えておこうと思ったものの、しかしどの本がベストなのかすら分からない。
いくつかある本の中から、どれを選ぼうか迷っていると。背後から伸びてきた腕が、一冊の本を取った。
「マネージャーが読むなら、これがいいんじゃないかな。僕の後輩がよく読んでたのと同じやつだ」
「えっと……」
「一応、中学の頃は野球部だったから、信用してくれて構わないぜ?」
柔和な笑みと共に差し出されたそれを受け取り、本と彼の顔を交互に見る。私はこの時、彼の名前も、所属してるクラスすらも知らなくて。だと言うのに親切に接してくれた彼に、困惑していたんだと思う。
「ありがとう……?」
「お礼を言われる程のことでもないよ。可愛い子が困ってたら、手を差し伸ばしたくなるのが男ってもんだからね」
気障ったらしい言い方に、どこか胡散臭い声色。いわゆるチャラい系の男子なのかな、なんて印象を抱いてしまっている内に、彼は挨拶もなく私の前から去っていく。
取り敢えず、この本を借りるために一度受付まで戻ろうと思い、足を進めた先。
そこには勿論、来た時と同じく白雪さんが座っていて。さっきと違うのは、白雪さんが会話をしていたことだろう。この本を勧めてくれた彼と。
「図書室でナンパとはいい度胸ね」
「さて、なんのことだか。僕は困ってる女子生徒を助けただけだぜ?」
「ナンパ男のよくやる手段ね。神聖な図書室を汚さないでくれるかしら」
「もしかして実体験?」
「ええ勿論」
「ナンパするようなチャラ男に同情する日が来るとは思わなかったよ」
「安心しなさい。あなたも今から同じ道を辿るから」
「別に僕は、君を口説いたわけじゃないだろう。それともなにか? 口説いて欲しいって言ってるのか?」
「吐き気がするわね」
「僕だって、そんなのこっちから願い下げだよ」
手元の文庫本から決して顔を上げない白雪さんと、皮肉げな笑みを浮かべながら話す男子生徒。
とても軽快で、心地いいリズムの会話。
あの白雪さんと対等に話す男子生徒がいることに驚いたけど、となれば彼は、一体何者なのだろう。
「もういいから、さっさと帰りなさい。私は仕事があるから」
そのおかしな光景に呆然としていると、文庫本を閉じた白雪さんが、私の方を見た。さっきから全く顔を上げてなかったのに、どうして気がついたんだろう。
「おっと、今度こそ本当にお邪魔だったみたいだ。じゃあな白雪。学年末テストは頑張れよ?」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
「お断りだね」
結局彼は、なにか本を借りたわけでもなく、手ぶらで図書室を出て行った。
これが、私と彼の初めて会った日の出来事。
名前も知らないくせに、胡散臭いナンパ野郎、と言う印象を受けてしまった日。
それから彼のことをちゃんと知るまで、数ヶ月の時間を有した。
初めてちゃんと名前を見たのは、友達の翔子ちゃんから、変なランキングの投票をお願いされた時だ。
うちの学年で、彼氏にするなら誰がいいか、なんて言う、バカみたいなランキング。最早誰に投票したのかすら覚えていないけど、その時に彼の、夏目智樹の名前を、初めてちゃんと目にした。
そして、その名前と彼の顔が一致したのは、二年に進級してからちょっとした頃。
白雪さんが、私の家の近くのモールで、男とデートしていた。そんな噂が流れた時の話。
相手の名前は、夏目智樹。
あの図書室での彼だと、私には分かってしまった。
それからまたちょっとの時間が過ぎて、次に彼の姿を見たのは、文化祭のステージの上。
白雪さんが演じる白雪姫と、智樹くんが演じる王子様。びっくりするくらいに二人とも似合ってて、やっぱり本当に付き合ってるんじゃないか、なんて。二人のことを碌に知らないのに邪推してしまった。
その後、すぐにやって来た夏休み。
私は家の手伝いがあるから、前半はちょくちょく休ませてもらってたのだけど。まさに私が休みの日に、野球部一年の樋山修二くんと智樹くんの対決があったらしい。
「本当に、先輩にはもっと頑張って欲しかったんですけどね。私が手伝って上げたって言うのに、三振一つ取れただけとか。しかもその上諦めが悪い。昔から何一つ変わってませんよあの人」
「その夏目くんって、綾子ちゃんと同じ中学だったんだ?」
「あれ、理世先輩知りませんでした? 当時は結構有名でしたよ、あの人」
なんて言われたりしたけど。私が野球に関わり始めたのは高校からで。中学の時なんか、本当に全く野球のことなんて知らなくて。
だから、興味が湧いた。
綾子ちゃんだけじゃない。部長の新井くんもまで彼の話をしていたし、一年の時の、白雪さんと会話しているあの姿。その上なにより、両親を亡くしていると言う、彼の噂。
話してみたいと思った。彼がどう言う人間でなのか、知りたいと思った。
「ねえ、綾子ちゃん。私、その夏目くんと会ってみたいんだけど、それって出来るかな?」
本当の始まりはここ。ただの興味本位。
あわよくば、友達になれたらな、なんて思っていた程度だったのに。
初めてちゃんと出会った日。彼は私のことなんて覚えていなくて。でも、白雪さんへのプレゼントを選ぶ彼が、とても一生懸命だったから。それだけ白雪さんのことが大切なんだと、嫌でも分かった。
夏休みの練習に顔を出す日。一方的に白雪さんから別れを切り出された彼は、そのことを忘れようとしてるみたいに、野球に打ち込んでいて。でも、マウンドでその瞳を輝かせる彼は、少しカッコよかった。
私の家に招いた日。白雪さんのことで落ち込んでいた彼に、元気を出してもらおうと思って。少しからかってあげると直ぐに顔を真っ赤にする彼は、とても可愛かった。それに、初めて誰かに、お母さんのことを話した。
二人で夏祭りに行った日。彼が手を繋いでくれて。ナンパして来た男たちを退けてくれて。一緒に、綺麗な花火を見て。
それから、彼が本当に、白雪さんが好きなんだと、改めて理解してしまった。
初恋って言うのは、もっとドラマみたいな劇的なものだと思っていたのに。こうして振り返ってみても、私は一体、いつ智樹くんのことを好きになったのか。何がきっかけなのか。いまいち判断が出来ない。
気がつけば、彼のことが好きで、好きで、大好きで。
でも、その恋心を自覚した頃には、私の失恋は決まっていて。
だったらせめて、悔いを残さないように、燃え尽きようと思った。
話を聞けば、白雪さんはバカみたいなことで悩んでいて。智樹くんも、そんな白雪さんにどう接していいのか悩んでいて。
私の負けは既に決まっているのに、当の二人がそんな醜態だったから。ライバルの背中を押すような真似をして、告白して、振られた。
あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。
分かっていたことだったんだ。私の恋が実らないのは。だって、智樹くんも白雪さんも、誰がどう見ても両想いだったもん。寧ろどうしてさっさとくっ付かないのかが不思議なくらいに。
それでもやっぱり、私は悲しかった。好きな人が自分に振り向いてくれないのは、どうしようもなく寂しかった。
でも、諦めたわけじゃない。まだ二人が付き合っていないんだったら、ほんの僅かだとしても、私にも可能性はあると信じて。
体育祭の日に、白雪さんに宣戦布告したのは、私にしては頑張ったと思う。だって白雪さん、凄い怖いんだもん。
けれど、頑張った甲斐はちゃんとあった。
「私って負けず嫌いなのよ。相手を完膚なきまでに叩き潰さないと気が晴れないくらいに」
その言葉は、白雪さんが智樹くんへの好意を認めたのに、他ならなかったのだから。
私の恋は実らないけど、好きな人の幸せは保障されたのだから。
そんな白雪さんが相手だからこそ、私は諦めようなんて思わなかったんだから。
それからまた色々と紆余曲折を経て、現在。
無事にくっ付いた二人と、虎視眈々と智樹くんを奪う機会を狙う私。
そんな三人と、可愛い後輩の四人で運営している生徒会。
「会計。来年度の予算案はまだ上がってこないの?」
「はいはーい。もう出来てるからデータそっちに送るねー」
「相変わらず仕事だけは早いのね。そう言えば、仕事が出来る女性って何故か行き遅れが多いそうよ?」
「なら副会長もそれに当てはまるね。もしかして、智樹くんとその内破局の予定でも?」
「あるわけないでしょ馬鹿じゃないの? 口を動かす暇があるなら手を動かしなさい。シンデレラらしくせっせと雑用をこなすことね」
「そっちは白雪姫らしくちょっと毒林檎でも食べて眠ってた方がいいんじゃないかな?」
「お生憎様、私には目覚めさせてくれる王子様がいるから」
とまあ、こんな感じで。今日も今日とて、言い争いをしながらも、生徒会の仕事をこなしている。
我らが会長様と可愛い後輩くんは、触らぬ神になんとやらとばかりに、私たちの口喧嘩には介入してこない。
「智樹くーん、こっちのお仕事終わったよー」
「お疲れ、理世。休憩しててくれていいよ」
「それよりもさ。ほら、頑張った部下にご褒美頂戴? 具体的には頭撫でてくれたりしたら嬉しいなーって!」
「いや、それは、ちょっと……」
ギロリと、絶対零度よりも冷たい視線がこちらに飛んでくる。でもそんなの御構い無しに智樹くんに詰め寄れば、ため息一つ吐いた彼の手が、私の頭に乗せられて。自然と笑みが溢れてしまう。
「えへへー」
「ほら、こんなもんでいいだろう? そろそろ桜が怖いんだけど」
「もうちょっとー」
「ダメよ、もう終わり」
「白雪さんに決定権はないと思うけどなー」
「私は智樹の彼女なの。ぽっと出のポット野郎の癖してその私に歯向かってんじゃないわよ」
「稲葉ー、助けてー」
「僕に話を振らないでくださいよ……」
いつの間にか、私と白雪さんで智樹くんの腕の取り合いになって。書記の
大体いつもこんな感じの生徒会だけど。
私は今、結構幸せだ。
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