第70話
体育祭運営委員の仕事は、予想していたものよりも楽な仕事だった。なにせ僕に割り当てられたのは、書類仕事だけなのだ。そりゃ当日には肉体労働が待っているだろうけど、準備段階の今は各競技の調整や備品の確認、手配が仕事の殆ど。
数日間仕事をしてみたものの、これでは拍子抜けすらしてしまう。多分、会長と生徒会の人達が優秀過ぎるが故だとは思うんだけど。上司が優秀だと、部下の僕たちも楽が出来る。つまり、次の生徒会は僕のせいで理世達に苦労をかけてしまうことが、既に決定していると言うことだ。申し訳なさがハンパない。
「智樹くーん、そっちはどう?」
「今のところ問題はないかな。理世の方は?」
「こっちも大丈夫だけど、高いとこにあるのは分かんないんだよねー」
さて、今日の僕達の仕事は体育倉庫の備品の確認だ。本来の僕達の仕事は予算管理で、この仕事も今日行う予定ではなかったのだけど。自分達の仕事を他の人達より一足早く終わらせていた僕と理世に、暇だったら行ってきてくれと頼まれたのだ。
それなりに広い倉庫の中を二手に分かれて確認していたのだけど、理世の身長ではラックの上に置いてあるものなどは見えないらしい。
とてもじゃないが整頓されてるとは言い難い倉庫の中を歩き、綱引き用の綱の向こうに揺れる茶髪を発見した。
「理世」
「ちょっと待って、あともうちょっとで取れるから······」
めいいっぱい背伸びをして両手を掲げ、ラック最上段にあるダンボールを取ろうとしている理世。ダンボールには、『バトン』と書かれている。
「僕が取ろうか?」
「大丈夫、行けるはずだから······!」
とは言いつつも、理世の指先は微妙にダンボールに届いていない。僕が無理矢理代わろうとしようにも、理世の背後からだとちょっと取りにくいし。
んー、と唸りながら背伸びする理世を見守る。なんか、小ちゃい子供を見てる気分だ。理世の身長自体はそこまで低いわけでもなく、高いわけでもない。多分、一六〇センチに届くかどうかと言うところだろう。小泉よりかは大きくて、白雪よりかは小さい。そもそも小泉より小さい高校生を見たことがない。
「もうちょっと、もうちょっと······!」
「頑張れー」
気の抜けた応援をしながら引き続き見守っていると、理世はついに痺れを切らしたのか。背伸びのみに留まらず、その場で小さくジャンプした。それでも中々届かず、何度かジャンプを続けていると、理世の指が漸くダンボールの開いた蓋を掴む。
同時に、マズイと思った。
「理世ッ!」
「えっ?」
考えるよりも先に体が動き、細い腰に腕を回して理世をこちらに抱き寄せる。遅れて、数瞬前まで彼女が立っていた場所に落ちてくる、様々な色のバトン。
危なかった。僕が少しでも遅かったら、あのバトンは今頃理世の頭に降り注いでいたことだろう。結構硬いから、下手すれば怪我をしていた恐れもあった。
腕の中からひっ、と小さく悲鳴が上がった。
「大丈夫か?」
「う、うん。大丈夫だけど······」
「だけど?」
「その、そろそろ、離してもらっても、いいかな······?」
視線を下ろすと、理世の濡れた瞳とぶつかった。頬は薄く染まっていて、小さな桜色の唇は僅かに震えている。
そんな表情を見て、漸く今の状況を冷静に把握することが出来た。
いくら緊急だったとは言え、僕は今、理世の腰に手を回して抱き締めている。途端に腕に感じる柔らかさを意識してしまって、半ば飛びのくようにして距離をとった。
「ご、ごめんっ」
「あ、その、嫌とか、そう言うんじゃないんだよ? 寧ろ私こそごめんね。素直に智樹くんに頼んでたら良かったよ」
「うん、まあ、大丈夫なら良かった」
理世は友達だ。彼女も、僕のことをそう思ってくれている。だから、変に意識してしまうのは、失礼にあたるだろう。
けれど、一度覚えてしまったあの感触は、腕に残って消えなくて。
「取り敢えず、バトン片して数を確認しようか。高いとこにあるのは、僕が取るよ」
「うん、ごめんね。それと、ありがと」
「気にしないでくれ」
脳内の煩悩を吐き出すように会話を続ける。理世の顔は赤いままだ。多分、僕の顔も。
しゃがみこんで散乱してしまったバトンを回収し、手元の資料と実際の個数を照らし合わせる。ちゃんと全部あるのを確認して、バトンの入ったダンボールを元の位置に戻した。
その間理世との会話はなくて、妙な沈黙が倉庫の中に流れる。背中のあたりがむず痒くなるような、何を話せばいいのか分からないような、そんな沈黙。
それが嫌で何か話そうと思うも、こう言う時に限って話題のタネは見当たらない。
「ちょっと、休憩しよっか」
その沈黙を破ったのは理世で、言うや否やすぐ近くに置いてあったマットに腰を下ろした。結構埃被ってたけど、気にならないのだろうか。
僕もその隣に座り、ふぅ、と息を吐き出す。取り敢えず本当に、理世が怪我してなくてよかった。抱き締めてしまったとか以前に、かなりヒヤッとしたし。
「そう言えば智樹くん、白雪さんの方はどう?」
天井から垂れ下がっている、今にも消えてしまいそうな蛍光灯を眺めながら、理世が尋ねてきた。
「どう、って聞かれてもね。なにも進展なしだよ。放課後は話しかける暇もなく帰るし、昼休みはどこかに消えてるし」
授業の合間の十分休憩で話せるようなことでもないし、残念なことに現状は全く変わらず、打つ手なしだ。
そもそも僕自身、彼女にどう声を掛けたものか、未だに迷っている。
「智樹くんはさ。もし、このまま白雪さんが離れていっちゃったら、どうするの?」
「どうするって······」
「白雪さんのこと、諦める? 諦め、られる?」
こちらに視線を移した理世の表情は、至極真剣なものだ。僕にカケラの嘘も許さないと言わんばかりの。
もしも、もしも白雪が戻って来てくれなくて、僕達から離れていってしまったら。
僕は、どうするのだろう。
考えたことがないわけではない。寧ろ、その不安は常に頭の中にある。でも、それで白雪のことを諦められるのかどうかなんてのは、考えたことがなかった。いや、考えるのを避けていたのかもしれない。
だって、事実から言えば、僕は彼女のことを諦められるなんて思えないのだから。それだけ、彼女の存在が僕の中で大きくなってしまっているのだから。
ふと思い浮かぶのは、数日前の会長の問いかけ。僕はそれにも、未だ答えを出せていない。
「理世はさ、ハッピーエンドの条件ってなんだと思う」
「ハッピーエンドの?」
「そう。物語の、幸せな結末。それに至るまでの条件」
質問に質問で返すのはご法度だとは思うけど、僕以外の考えも聞いてみたい。会長は言っていたから。この問いに答えることが出来れば、白雪のこともどうにか出来るかもしれないと。
その質問の意図がイマイチ掴めないのか、もしくは理世自身も答えが分からないのか、眉を顰めながらではあるけど、彼女の考えを口にしてくれる。
「登場人物が幸せなら、それはハッピーエンドじゃないの?」
「なら、その幸せってのは、どうやって定義すべきなんだろうね」
「幸せ、か······」
物語の中には悪役に相当する登場人物だって勿論いるし、よくある恋愛小説やラブコメなんかだと、ヒロインが複数出てくるような作品もある。
その全員が全員、物語の結末に幸福が待っているわけではない。
「私にはよく分からないけど、その幸せがなんなのかって言うのを見極めることが、条件なんじゃないかな? 人によって幸せの定義って変わるものだし、物語の中よりも、現実なら尚更」
「じゃあ、理世にとって幸せって?」
「うーん、お金?」
「えぇ······」
流石の僕もその一言には引いてしまった。いやまあ、確かにお金があれば幸せかもしれないけど。ここで真っ先に出てくるあたり、流石は理世としか言いようがない。
「冗談だよ」
「そうは聞こえなかったけどね······」
あはは、と笑い飛ばしているけど、お金って言った時の理世は割と真顔だった。何割から本気が含まれていたかもしれない。
「私は、仲のいい友達と遊んだり、お父さんと過ごせるだけで、案外幸せだよ? ほら、今みたいに」
「そいつはどうも」
「でも、そう言うのじゃないんだよね?」
日々の幸せではなく、結末に待っている幸せ。同じようで、少し違う。
理世は顎に手を当ててまた考える。やがて答えに行き着いたのか、彼女はこちらを見てにこりと微笑んだ。それがまた可愛くて、けれど次に飛んで来た言葉に、僕は理世の笑顔に見惚れることすら忘れてしまう。
「智樹くんが私の彼氏になってくれたら、それは私にとってハッピーエンドかもね」
声も出なかった。その返答が予想外すぎて、思考すら全て吹き飛んでしまうほどに。
いや、これはまた僕を揶揄っているだけなのだろう。いつもと同じように。だって僕達は友達で、彼女だって僕のことを友達だと思ってくれてるはずで。
「······冗談でもそう言うことは言わないでくれ。うっかり惚れちゃってはどうしてくれるんだ」
「これは、冗談なんかじゃ、ないよ?」
今度こそ本当に、何も言えなかった。すぐ隣にいる理世は、さっき抱き寄せた時よりも顔を赤くしていて。けれど、大きな瞳は決して僕から逸らさずに。
冗談なんかじゃ済まされない言葉を、嘘偽りなく、告げる。
「だって私、智樹くんのこと、好きだから」
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