第6話

 目が覚めてからいつも真っ先に視界へ飛び込んで来るのは、タンスの上に置かれている、埃の被ったグローブだった。プロ野球選手だった父から譲り受けたもので、何度も何度も熱心に手入れをしたのをよく覚えている。

 昨日まではそれを見てもなんともなかったのに、今日、今まさしく起床してから目に映ったそれは、どうしてか酷く寂れて見えた。

 多分、一昨日の放課後が原因だろう。久しぶりに顔を合わせた後輩は、最後に見た時と変わっていなくて。小泉は小柄な身長に反して、相変わらず気が強いし、そんな彼女を隣で支えようとしている樋山も、礼儀を欠かさない野球少年だった。

 二年以上触っていないグローブに、恐る恐る手を伸ばしてみる。最後に触れたのは、父と母が死んだあの日、ここに置いた時だったか。二年も経ってしまえば、人の記憶なんて薄れてしまう。

 もうあとほんの数ミリでそれに触れると言うところで、指先がガタガタと震え始めた。それに構うことなく、チョンと触れると、背中から一気に嫌な汗が噴出された。咄嗟に手を離し、激しい運動をした後の様な過呼吸に陥る。

 このグローブをここに置いた時も、似たような反応が出てはそれを必死に我慢したものだ。その記憶はどうしてか、嫌でも脳にこびりついて離れない。

 どうしてこんな事をしようと思ったのかと思考をめぐらしてみて、最早考えるまでもなかった。今日は文芸部バザーに参加する日であり、そのバザーが開催されるすぐ隣の球場で、樋山達野球部が試合をする日なのだ。だからこれは、たんなる気の迷い。


「朝ご飯作るか······」


 額に流れる汗を拭って、部屋を出た。

 僕は現在一人暮らしだ。父と母が他界してからも、それまで住んでた家に一人で暮らしている。父は現役バリバリの一軍でも活躍していたプロ野球選手で、母は元アナウンサーと言う、まあよくあるカップルの一つだった。そのお陰と言うべきか、両親が遺してくれたお金は、正直学生の身には手に余るほどであり、三年経った今でも0までは程遠い。億を超える年俸を貰っていたくせに、こんな一般市民と同じようなさして特別広くもない普通の賃貸マンションで暮らしていたのも、お金が残りすぎている一因ではある。

 中学卒業までは母の妹、つまりは叔母が一緒に住んでいたのだが、高校に入ってからは完全に一人暮らしだ。


 洗濯物やらゴミやらが散らかってるリビングを経由してからキッチンへ。さて今日の朝食はどうしようかと頭を巡らせていると、ピンポンとチャイムが鳴った。朝っぱらから誰だと思いつつ、足場の少ないリビングをまた経由して玄関へ向かう。


「はいはい、今出ますよーっと」


 僕は通販を使うような人間ではないし、宗教や新聞の勧誘などもこのマンションの取り決めで禁止されている。ならそれ以外の訪問者となるのだが。果たして扉を開いた先にいたのは。


「えへへ、来ちゃった」

「死ね」


 ふざけた事を抜かしやがる身長180越えの大男だった。というか僕の親友だった。


「おいおい、親友に対して死ねとはなんだよ。もうちょい言い方があるだろ?」

「そうか分かった。分かった上でもう一度言う。死ね」


 そう言うのは神楽坂先輩のような癒し可愛い系の美少女がやるからトキメクのであって、男にやられても湧いて来るのは殺意のみ。こいつの頭をかち割るためならバットも握れるかもしれない。

 三枝をどう殺してやろうか本気で悩み始めていると、彼の後ろから二人の女子が姿を現した。


「やっほ、おはよう夏目君」

「おはよ」

「神楽坂先輩と、白雪······?」


 制服に身を包んだ部長と同級生が、何故かここにいた。全く状況が理解できず、頭の上ではてなマークが踊る。ブレイクダンスとかしてると思う。


「智樹。今何時だと思う?」

「何時って、そりゃまだ6時にもなってないだろ。僕はこう見えて早起きなの、君は知っていたと思うけど」

「そうかそうか。お前にはこれが六時に見えるか」


 三枝は徐にスマホを取り出し、そこに移された現在時刻を僕に見せる。それを見て、絶句してしまった。

 そしてそんな僕を見て、クスリと笑う女が一人。


「ねえ夏目、そこに表示されてる現在時刻、読み上げてみなさいよ」

「10時28分······」

「早起きは得意だなんて笑わせるわね。それとも、亀の歩みよりも早ければあなたの中ではそれが早起きなのかしら?」


 なおもクスクスと耳に届く嘲笑。今回ばかりは完全に僕が悪いから、何も言い返せない。どうやら、昨日徹夜して原稿に取り掛かっていたのが災いしたらしい。確か寝たのは三時を過ぎた頃だったか。お陰様でもう終盤近くまで書き進められたものの、今日こうして寝坊してしまっているのだから、あまり褒められたものでもない。


「それよりも! 夏目君、出来れば急いで準備して来てくれる?」

「あ、はい。すいません先輩」

「わたし達は下で待ってるからね!」


 扉を閉めて三人と一度別れ、急いで準備した。汗を掻いていたからシャワーを浴びようとも思っていたのだが、どうやらそんな暇はないらしい。

 制服に着替え終え、家の戸締りをしてからダッシュで階段を駆け下りる。お陰でまた汗を掻いてしまいそうだ。

 マンションの下に着くと、見覚えのある黒い高級車が止まっていた。そしてその前に立っている、燕尾服を纏った初老の男性。その人にも見覚えがあった。


「お待ちしておりました、夏目様」

「おはようございます中岸さん。すいません、僕の都合でうちまで寄って貰って」

「いえいえ、寝坊とは誰しもがしてしまう失敗の一つです。お嬢様から聞いたお話ですと、夏目様は小説の執筆をしていらっしゃるのだとか。慣れない事で疲労も溜まっていたのでしょう。反省すべきことではあれど、責められるようなことではありませんよ」


 どうぞお入りください、と言って二列目のドアを開けてくれる。開いた先には既に三枝が座っており、三列目ではニコニコした神楽坂先輩と、どこかソワソワしている白雪が乗っていた。


「君、緊張しすぎじゃないか?」

「し、しょうがないじゃない。こんな車に乗ったの初めてなんだから······」


 完全に借りて来た猫状態である。こうしていれば本当に美少女なのに、なんだか色々と勿体ないやつだ。


「中岸、出していいよ」

「かしこまりました」


 僕が乗り込み、中岸さんが運転席についたのを見て、神楽坂先輩が声をかける。

 そう、この高級車は神楽坂紅葉先輩の家のものだ。先輩は超がつくほどの大金持ちで、自宅はここ浅木市北側にある七麓壮と言う高級住宅街、その天辺を陣取っている。ご両親がなんの仕事をしているのかは知らないが、どこかの社長とかそんな感じなのだろうか。

 中岸さんには、神楽坂先輩に振り回される際毎度お世話になっており、今日で四度目くらいだろうか。お花見に連れて行かれたり、釣りに連れて行かれたり。まあ、神楽坂先輩については今はいい。


「で、なんで白雪がいるんだ? 君はいつの間に文芸部員になった?」


 車が走り始めたのを見計らい、後部座席に振り返って借り猫状態の白雪を見る。さっき玄関先で僕を笑っていた彼女はどこへ行ってしまったのやら。そんな姿を見せられると、逆にこちらが落ち着かない。


「まあまあ、そう言うなよ兄弟。別に白雪姫がいたって、特に支障はないだろ?」

「まあ、そうなんだけど」


 隣に座る三枝に肩を掴まれて、無理矢理前を向けさせられる。白雪姫と言う発言に突っ込まないあたり、今日の白雪はこの高級車のせいで本調子ではないらしい。もしくは、神楽坂先輩のせいで、と言うべきか。

 元々白雪に今日来ないかと誘ったのは僕だし、バザーに来ること自体にはなんら文句はない。問題は、なぜ今この段階で彼女がここにいるのかである。


「一昨日、カフェオレを奢ってくれたでしょう。その借りを返そうと思って、文芸部の手伝いをする為に学校に来たんだけど、夏目がまだ来てないって言うから」

「借りって······。律儀なやつだな。いちいち気にしなくてもいいのに」

「私が気にするのよ」

「君がそんな殊勝なやつだったとは驚きだ。もっと冷酷な人間かと思ってたよ」

「あら、お望みとあらば今すぐにあなたの息の根を止めてあげてもいいのよ? 丁度あなたの真後ろだし、ここからなら紐か何かで首を絞めることが可能ね」

「そう言うところを言ってるんだよ」


 僕と会話することである程度緊張が解れて来たのか、チラリと見た白雪はさっきまでみたいな借り猫状態ではなくなっていた。


「二人とも、仲良いんだねっ!」


 そんな俺たち二人を見て、唐突に神楽坂先輩が声を上げた。ああ、そう言えば失念していた。罰ゲームを言い出したのはこの人だった。そりゃそういう風に受け止めますよね。


「仲が良い? 私と、これが······?」

「これって言うな。せめて人として扱ってくれ」

「神楽坂先輩、幾ら三年生の方とは言え、私も怒ることはあるんですよ?」

「必死に否定してる辺りが益々それっぽいよなぁ」

「おい三枝、余計な口を挟まないでくれ」


 ケラケラと笑いながら、組んだ肩を更にグイッと引き寄せられる。無駄に力が強いので若干の痛みに顔をしかめると、三枝が小声で話して来た。どうやら、後ろでお話ししている女子二人には聞かせられない類らしい。


「白雪姫と仲良くなれてるのはいいことじゃねぇか。罰ゲームのこともあるんだしよ」

「今ここでその話をしないでくれ。真後ろにいるんだぞ?」

「それで、どこまで行ったんだ? 唯一無二の親友である俺に話してみろ」

「何も話すようなことはない。そんな事より、君こそ先輩とはどうなんだよ?」

「いいか智樹。男にはな、時にその場で停滞すると言うことも求められるんだ」

「つまり進展はなし、か······。二人きりになる時間なら十分あるだろうに」


 まあ、神楽坂先輩は結構天然と言うか、人の色恋──つまり僕の罰ゲームに関しては色々と気を利かせたりする癖に、自分の恋愛ごとについては全くの無頓着に見える。三枝がのらりくらりと躱されているだけかもしれないが。これはこれで、ある意味鉄壁の防御と言えるだろう。

 果たして親友の想いが報われる日が来るのだろうかと心配になっていると、後部座席から首が伸びて来た。


「二人でなんの話ししてるの?」

「うおっ!」

「いえいえ特に変な話はしてないですはい! な、三枝!」

「お、おう! そうだな智樹!」


 二人して必死に誤魔化す。僕の話は兎も角、三枝の方は神楽坂先輩に聞かせられない。いや、白雪がいる時点で、僕の話も聞かせられないけど。

 流石に必死過ぎたからか、神楽坂先輩は首を捻っているし、白雪からはシラーっとした目を向けられる。白雪だけに。ごめんなさいなんでもないです。


「放っておきましょう、神楽坂先輩。男二人で顔を寄せ合って話す内容なんて、碌でもないものに決まっています。ああ言うのは二次元だけでいいんです」

「そう? 夏目君も三枝君も、いっつも仲良いから、わたし偶に嫉妬しちゃうんだけどなー。そうだ、当てつけにわたしは桜ちゃんと仲良くしよう!」

「そ、その桜ちゃんって言うのは······。ちょっと、先輩? なんで抱きついてくるんですか? あっ、ちょっ、と。変なところ触らないでくださいっ······」

「桜ちゃんはやわこいのぉ〜」


 神楽坂先輩が白雪の体に抱きつき、豊満な胸が白雪の腕に押し付けられて形を変える。そして先輩の腕は白雪の足の方に伸びていっているのか、ここからでは上手く見えない。

 と言うか、なんか見てはいけないものを見ている気がして、直ぐに顔を前に戻した。別にジックリ見てなどいない。


「これ、なんて天国?」

「僕は寧ろ地獄だと思うぜ······」


 キャッキャウフフとゆりゆりしている後部座席に意識がいかないよう、僕は頭の中で小説の続きでも考えることにした。

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