第87話

 気持ちの整理には、少し時間が必要だった。何度だって、誤解だ勘違いだ聞き間違いだと自分に言い聞かせていたのに。でも、思っていたほどのショックを受けなかったと言うことは、心のどこかで分かっていたんだと思う。

 それでも私は、ただ夏目が私を騙していただけだなんて到底思えない。

 これまで彼と過ごしてきた思い出もあるのだけど。それよりも、あの時の夏目に感じた僅かな違和感が。

 例えば、三枝秋斗があの場面を目撃していたなら。らしくないと親友を蹴り飛ばすだろう。

 もしくは、小泉綾子がこの話を聞いたなら、数ヶ月前に逆戻りしているようだと先輩に嘆くだろう。

 あるいは、灰砂理世が私と同じ立場であれば、その場で即座にその違和感の正体を探るために想い人へ詰め寄るだろう。

 彼を知っている人間が見れば一目瞭然だろう。だって、あんなにも必死になって、私との関係を繋ぎ止めようとしたのだ。自惚れなどではなく客観的な事実として、いつもの夏目智樹ならば。あの場で肯定の言葉以外にも、なにかを続けていた筈だ。それが例え、見苦しい言い訳だったとしても。

 恐らく、私のあの場でのリアクションも、彼がおかしかった一因となっているのかもしれないが。


 さて。白状してしまえば、罰ゲームだのなんだのは正直どうでも良い。それで私が夏目を嫌いになる程、私の彼に対する好意は小さなものではない。

 重ねて言うが、ショックであったのは間違いないし、情けないことに少し泣いてしまっていたのも事実だ。

 だけどそんなの、一過性のものに過ぎない。中学の頃から抱き続けてきたこの初恋を崩すには、もっと凄まじいものを持ってきてもらわないと不可能だろう。

 ならば何故、夏目の誘いを断ったのか。

 端的に言うならば、気に食わなかった。

 あの場で素直に認めてしまう、全くらしくない彼の姿が。あんな男の誘いに乗るのは、ちっぽけなプライドが許さなかった。

 勿論、罰ゲームを肯定されたショックで勢いのあまり、と言うのもあるけれど。

 残念ながら、私が好きになった夏目智樹とはあんな男ではない。みっともなく見苦しくても諦めずに足掻く、そんな彼のことが好きで。だから彼の努力を、無駄にしたくないと思った。

 あの違和感の正体がなんなのかは分からないけれど、分からないならそれを究明して叩き直してやる。








 文芸部の活動において、部室内に会話が存在しないと言うのは、殊更珍しいものではなかった。そもそもの活動が小説やエッセイの執筆と言う、あくまでも個人で執り行うものだからだ。

 現在は部誌に向けて何か書いてるわけでもないのだが、それでも各々が勉強したり読書をしたりしていると、当たり前のように会話なんてなくなる。

 いつもと同じ無言の空間。だからこそ、僕は困惑するほかなかった。いや、そもそも、白雪が部活に出ること自体にも驚いていたのに。あろうことか、あんなことがあった後でも以前までと同じ態度でいるなんて。

 最早白雪が一体なにを考えているのか、全くもって理解出来ない。僕の顔なんて見たくないとか、思われていても仕方ないはずなのに。


「そういやお二人さん」


 僕が頭を悩ませながら全く読書に集中出来ていないでいると、長机の向かいで今日の宿題を片付けている三枝が口を開いた。それに顔を上げたのは僕だけで、白雪は未だ活字を目で追っている。


「修学旅行はどうするんだ?」

「どうするって、なにを?」

「ほら、デートとか行かねぇのかと」


 この男、なんと白々しい。昨日自分でけしかけた癖してどのツラ下げてそんな質問を飛ばすのか。

 多分三枝は、当たり前のように昨日僕がちゃんと誘えたと思って言っているんだろう。しかしその思惑には乗らない。て言うか乗れない。だって僕は、彼女に拒絶されたのだから。

 その筈だったのに。


「デートかどうかは知らないけど、三日目は夏目と周るわよ」

「えっ?」


 耳を、疑った。彼女は今、なんと言った?


「おっ、やっぱりか。いいなぁ。俺も紅葉さんと旅行とかしてみてぇ……」

「紅葉さんの受験が終わってから誘ってみればいいじゃない」

「いや、さすがに実際誘う度胸はねぇよ」

「相変わらずヘタレなのね。そんなんだと一生童貞のままよ」

「仮に誘ったとしても、多分あの人のことだから白雪さんと智樹も一緒に、とか言い出すぜ」

「あり得そうなのが嫌ね……」


 二人の話について行けない。何故。どうして。僕は昨日、確かに白雪から言われた筈だ。そう言うことなら断らせてもらう、と。

 この一日でなにか、心境の変化があったと言うのか?


「私、用事があるから先に帰るわね。そう言うことだから夏目、三日目はちゃんと空けときなさい。どっかの灰かぶりに誘われてもほいほいついて行かないように」

「あ、ああ……」

「それじゃ、また明日」

「おう、お疲れさん」

「また、明日……」


 部室を去っていく白雪の背を、ただ呆然と見送る。頭の中は疑問符だらけだ。しかしその疑問を解消してくれる唯一の存在は、たった今部室を出てしまった。

 いや、白雪にどのような心境の変化があったかは知らないが、結局三日目を一緒に回ることになったのは、素直に嬉しい。けれど、あまりにも心変わりが早すぎやしないだろうか。


「さて親友」


 呼ばれた声に、ハッと我に帰る。僕の様子がおかしいことに気がついたのか、三枝は至って真剣な顔で問うてきた。


「お前、白雪さんとなにがあったんだ?」

「なにかあったのは前提か」

「あんな顔してりゃ俺じゃなくても気づく」


 どんな顔だったのかは、聞かないでおこう。自覚は一応あるのだし。

 思わず漏れそうになったため息を飲み込み、代わりに出たのは事実を端的に羅列しただけの言葉。


「罰ゲームのことが、白雪にバレた」

「……マジで?」

「マジだよ。こんなことで嘘を吐いてどうする」


 それから僕は、体育大会終了後から昨日の放課後までの事のあらましを三枝に聞かせた。

 男二人が部室に残り、どんよりした空気で向かい合う。青春と言うには些か以上にキツイものがある。

 そして白雪が泣きながら帰って行ったところまで話すと、三枝はなぜか眉根を寄せてすぐにこう言った。


「お前らしくないな」

「は?」


 僕らしくない? どう言う意味だ? 僕は僕らしくいつものように、出来る限りの事を全力でやって最後の最後に全てが水の泡。実に皮肉の効いた僕らしい顛末だったと思うんだけど。

 数分前の白雪の言葉で、その限りではなくなっているけど。


「いや、ある意味お前らしいんだろうよ。そうやって無駄な事でひとりネチネチ悩んでるあたりなんかは、特にな」

「言い方。言い方もうちょっと気をつけようぜ? さもないも君の大切な友人の心が砕け散ることになる」

「だけど、今はそのお前らしさを発揮していい時じゃない。もっと別のところが、夏目智樹らしくない」

「聞けよ」


 てか、なに。白雪と関わった人間はみんな、彼女の毒舌が感染するのか? 最近の僕の周り、僕に対してあたりが強くない?

 このバカな親友にオブラートに包むなんて高技術を期待しているわけでもないけど、前まではもうちょい迂遠な言い回しで僕のことをバカにしてたのに。


「お前、なんでそんなに、罰ゲームに拘ってるんだよ」

「なんでって……」

「いつもの智樹なら、白雪さんを傷つける可能性が少しでもあるなら、変なこだわりなんて直ぐに捨てて、この場で告白くらいしそうなもんだけどな」

「さすがにそんな度胸はないよ」

「そこだよ智樹」


 肩を竦めて返して見せれば、強い言葉が僕を刺した。


「例えば、体育大会前のことを思い出してみろ。お前は白雪さんをここに連れ戻すのに、度胸がどうかとか考えたか? いや、考えなかったはずだ。俺の親友は、そんなもん振り切ってやることをちゃんとやる男だからな。それが好きなもの、ましてや好きな人のためなら尚更。さらにその上、井坂からは白雪さんを泣かせるなって釘を刺されていたのにも関わらず、あんな事を言った。らしくないにも程があるぞ」


 この親友は僕のことを実に理解している。おそらくは、僕自身以上に。

 そんな三枝の言葉は、まさしくその通りではあるのだと思う。あの時は、細かいことなど一々考えていられなかった。ただ、白雪をあのまま放って置けなくて。黙って僕たちから離れるのを見過ごせなくて。

 なら今は? これではまるで、僕自身から白雪のことを突き放しているみたいじゃないか。


「お前がやったのは、数ヶ月前までのお前と同じことだよ。これまでの努力やらなにやらを全部丸っと捨てて、諦めたんだ。それは何故だ?」


 分からない。そもそも僕に、諦めたつもりなんて微塵もなかった。白雪に拒絶されたとしても、この気持ちはちゃんと伝えるつもりだった。

 なら僕は、一体なにを諦めたんだ?


「まあ、これが俺の感じた違和感。お前自身がなにも分からないってんなら、こっちもお手上げだ」

「……悪いね、三枝」

「いいってことよ。面倒な親友に付き合うのは慣れてるからな」


 重い空気を払拭するように、三枝の明るい笑い声が部室に響く。それを聞いていると、僕も肩の力が抜けて、思わずフッと頬を緩ませてしまう。


「さって、それじゃあ残った問題は……」

「出雲だね」


 井坂との会話を説明する上で、出雲のことも一応説明していた。ただ、出雲を連れてきたのは三枝だ。その三枝には、出雲がなにかを企んでいるようには見えないようで。


「俺は特になにも思わなかったんだがなぁ。そもそも出雲のキャラ考えたら、白雪さんと普通に会話出来ててもおかしくないと思う」

「まあ、彼についてはおいおい、だね。あんまり考えることが増えると、頭がパンクしそうだし」

「だな。んじゃ、俺らもそろそろ帰ろうぜ。折角だからラーメン食って帰るか」

「乗った。今日はどこのラーメン屋行く?」

「浅木戻ってから決めようぜ」


 修学旅行まで時間がない。白雪は三日目のことを了承してくれて。

 なら後は、自分の気持ちと向き合うだけだ。僕は一体、なにをしたいのか。








 未だ五時とは言え、十一月の空は茜色に染まっている。この時間になれば朝同様に冷えてくるので、持参しているマフラーを巻かないと割と寒い。

 家まで徒歩五分以内の私もそれは変わらず。首に巻いたマフラーにもふっと顔を埋め、脳をフル回転させながらも第三校舎から昇降口、続いて校門への道を歩いていた。


 考えるべきはなにか。

 罰ゲーム云々なんてのはどうでもいい。私がどうしたいのかも、すでに決めている。なら考えるのは、夏目智樹について。

 表面上のことは放って置け。肝心なのは、彼の根底に存在しているものだ。言い換えてみれば、夏目の行動原理。存在理由。アイデンティティやレゾンデートルなんて言い方でも構わない。

 昨日のあの場で、どうして彼らしくないあんな行動を取ったのか。その理由にも繋がるはずだ。


「と言っても……」


 ヒントが少ない。当たり前のように、私には人の心の中を覗けるさとり妖怪じみた真似は出来ないから、思考のみで推測を立てる程度しか出来ない

 さてどこに糸口を見つけようかと考えていると、


「白雪さん」


 聞き慣れない声に呼ばれ、ハッと我に帰った。気づけば校門。そして声は背後から。

 振り返った先にいたのは、修学旅行の班メンバーである、出雲秀行だ。


「やっ、ちょっといい?」

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