after18 夏の日の出会い
八月の下旬。夏休みもそろそろ終わりが見えてきたこの頃。自己主張の激しい太陽は沈みかけ、部活動に勤しんでいた生徒達はみな帰宅しようとしている。
蘆屋高校のグラウンドは広い。少なくとも、野球部、サッカー部、陸上部が同時に練習出来るほどには。たまに野球部やサッカー部のボールが他の部活の方に飛んでいくこともあるが、それで無用な争いになることもない。そもそも、その程度で争いに発展するのなら、あの先輩から情け容赦なく運動部は類人猿の集まりの烙印を押されてしまう。
さて、そんなグラウンドに。いまだ残って走り続ける陸上部員が一人いた。
姉と違って短い髪を靡かせながら、女子とは思えない速さで駆ける一年生。
白雪小梅。あの白雪先輩の妹さんだ。
私達野球部の練習は終わって、陸上部の練習もそれに少し遅れてから終わったと言うのに、あの子はそれからも自主練を続けている。
私とあの子の間に接点はない。白雪先輩との会話で何度かその名前は出て来ているけど、直接会話したことなど一度もなかった。
けれど、この夏休みはおろか、それ以前から、毎日のように残って自主練をしている彼女を見ていると、どうしても放って置けなくて。
私はこの日、野球部が終わってからもずっと、その子の自主練を見守っていた。
修二とは最近、一緒に帰ることはおろか、会話すらまともにしていないし。今日は夏目先輩と白雪先輩も来ていなかったから、時間ならある。
クラウチングの構えから一気に駆け出す彼女のフォームは、美しいの一言に限った。陸上は門外漢だけど、それでもあの子が相当な才能を有しているのは、一目見て理解できる。
やがて何度目かの100メートルを走り終えた彼女が、私に気づいた。不思議そうな顔をしながらも、こちらに近寄ってくる。
やがて目の前に立った彼女は、当然のように私よりも背が高くて。
「えっと、中学生の子、かな? お姉ちゃんかお兄ちゃんを待ってる感じ?」
白雪先輩。あなた、妹の教育を間違ってますよ。
「これでも一応、あなたの先輩なんだけど」
「えっ」
「野球部マネージャーの二年、小泉綾子。名前くらいはお姉さんから聞いてない?」
「あ、あー! あなたがあの!」
「ごめん待って、白雪先輩からなんて聞いてるの?」
あの、ってなに。私、なにか変なことした? ちょっと白雪先輩本当に妹とどんな話してるんですか。
「えっと、お兄さんの元ストーカーで、ちっちゃくて可愛くて、なんか放って置けない後輩、って聞いてますね」
「ストーカーじゃないんだけどっ!」
あれは私が悪いわけじゃなくていつまでも意固地になってる夏目先輩が悪いんじゃん! 後半の変なデレもその一言で台無しなんだけど!
今度白雪先輩とは、ゆっくりお話する必要があるかもしれない。
「それより、自主練はそろそろ終わり?」
「いえ、まだ続けるつもりですよ?」
「やめておいた方がいいと思うわよ。たしかに走るフォームは綺麗だったけど、徐々に崩れて来てる。それで変な癖がついたら本末転倒、おまけに怪我でもしたらお姉さんにどやされるから」
陸上は門外漢だが、同じスポーツという意味では野球とそう変わらない。練習のしすぎは、かえって体に毒だ。これでもスポーツ医学の道を志しているから、最低限の知識は頭に叩き込んでいるし。
「へー。お姉ちゃんとかお兄さんの言う通り、綾ちゃん先輩ってそっち系の才能あるんですね」
「綾ちゃん先輩……?」
「うん、そう言うなら今日はここまでにしておきます。綾ちゃん先輩の言う通り、怪我したらお姉ちゃんになんて言われるか分からないし」
いや、その前に、その綾ちゃん先輩って言うのはどうにかならないのか。初対面なのに図々しくない? あんな姉がいてこんなコミュ力高い妹になるの、本当訳わからないんだけど。
「今日はじゃなくて、これからも。過度な練習は控えること」
「うーん、そう言うわけにもいかないんですよね」
あはは、と困ったように苦笑する後輩は、自販機にでも行きませんか? と言って歩き出した。その後ろについて歩き、辿り着いた自販機でスポドリを二本買って、片方を渡す。
「ありがとうございます」
こうやって後輩に飲み物を奢るの、ちょっと憧れてた。夏目先輩がたまに奢ってくれてたから。
なんか、先輩って感じがしていいな、これ。部活は違うけど、そんなの些細な問題だ。
「本当はこっちのカフェオレの方が良かったけど」
「文句言うなら返してもらうわよ」
「冗談ですよー」
ああ、この子は間違いなく白雪先輩の妹だ。運動を終えてすぐにも関わらずそんなものを飲もうとするとことか、図々しい物言いとか。これで口の悪さまで出て来ないことを祈ろう。
「それで、えーっと……」
「あ、小梅でいいですよ?」
「小梅は、なんであんなに残って練習してたの? あなたくらいだと、あの練習量は逆効果だって分かると思うけど」
例えば。筋肉というのは、筋繊維が一度切れ、それが治ることで更に強靭になっていく。それが筋肉痛だったりするのだが、小梅の練習量は明らかにおかしい。走りすぎだ。
たしかに自らの体や気持ちを追い込むことによって、更なる上達は見込めるけど、それはやり過ぎていいことじゃない。
治って強靭になるより早く、ガタがくる。
「別に、無理してるつもりはないんですけどねー。だってほら、期待されたらそれに応えないとダメで、応えるためには努力が必要。当たり前のことじゃないですか?」
ケロっとした顔で、まるで今日の天気について話すように言ったその内容は、まるで常軌を逸している。
当たり前なんかじゃない。全ての人間が可能なわけない。人間には適度な休息というのが絶対に必要で。それどころかプレッシャーを掛けられすぎると、どこかでなにかが狂ってしまって。それは一人の例外もない。自分では大丈夫だと思っていても、必ずなにかの歯車が噛み合わなくなっている。
これは持論だけど、プレッシャーに強いというのはある種のランナーズハイのようなものだと思っている。本番が良くても、その後どうなるか分からない。
「あたしはお姉ちゃんの妹だから、もっと頑張らないとダメなんですよ。目指せ全国、みたいな」
「そんなの、おかしいでしょ……」
だと言うのに、まるでこの子は、すでに狂ってしまっているみたいで。
先輩達は気づいているんだろうか。多分気づいていて、なにも出来ないんだと思う。この子は白雪桜の妹として、色んな面で期待されているから。白雪先輩がなにか手を打ったとしても、それは逆効果になりかねないから。白雪先輩と恋人としてだけでなく、生徒会長としても名前が広がっている夏目先輩も同様に。
「あー、一応言っておくと、そこらの有象無象からの期待なんて、どうでもいいんですよ。鬱陶しいだけですし。いい口実として利用はさせてもらってますけど」
「じゃあなんで」
「あたしはもう、一人でも大丈夫だって、証明しないとダメだから」
笑顔だったはずなのに、その切れ長の目が鋭く細められる。その先に見据えているのは、大きすぎる姉の背中だろうか。
白雪先輩と小梅のおかしな姉妹関係は、多少話を聞いていた。一応、私も関係者のようなそうでないような、微妙な立ち位置にいたから。それが解決されたこともまた、夏目先輩から聞いている。
「まあ、周りの期待に応えるって言うのも、中々爽快で楽しいですよ? だってその先に待ってるのは賞賛の嵐。高校に入ってからは特にそう。良くやったな。さすがは白雪の妹だ。姉よりも優れてるんじゃないか。まだ一年の一学期が終わったばかりだってのに、嫌ってほど聞かされましたよ」
大人は誰も、彼女を白雪小梅として見ない。白雪桜の妹として、小梅のことを見ている。それがどれだけ彼女の心を軋ませるのか、今の冷え過ぎた声音を聞けば、嫌という程分かってしまう。
皮肉げに歪められたその顔は、お兄さんと慕うあの人から譲り受けているのか。見飽きた表情だ。あの人が腑抜けていたあの頃に。
ならこの子は、一体なにを諦めたんだろう。
「小梅は小梅でしょ。あなたは白雪先輩にはなれないし、白雪先輩の代わりにだってなれない。白雪桜の妹である前に、あなたは白雪小梅なんだから」
少しくらいは、彼女の心に届いただろうか。
姉とよく似た無表情を浮かべる小梅の心情は、私では計り知れない。そもそも、そういった機微に疎いのが私だから。
小梅もきっと、この理不尽な世界に歪められ、変えられた人間の一人。
移り変わる周囲の環境、自分を取り巻く人間関係、そこからかけられる期待とプレッシャー。それらに変えられた。変えられざるを得なかった。
それは紛れもなく、無駄な変化だ。必要のないものだ。周囲が小梅に期待しなければ、この子はただの姉が好きな妹としていれたはずなのだ。
「もし、お姉さんや夏目先輩に言えないことがあったりしたら、私に相談しなよ。居残りの自主練だって、私なら付き合ってあげるからさ」
だから、私はこの子の味方をする。
この理不尽な世界に抗うためか、それともただ、小梅が心配なだけか。どちらかは自分でも分からないけど。
「綾ちゃん先輩、部活違うんだから、そこまでしてくれなくてもいいと思うけど」
「私がしたいの。小梅が残って自主練続けてるの見つけたら、断られても一緒に残ってやるから」
「そっか……。じゃあこれからは、綾ちゃん先輩にめいいっぱい甘えちゃおうかな!」
小梅が浮かべた笑顔は、私にはとても眩しくて、魅力的なものに見えて。少なくとも、それが心の底からの笑みだと言うのは、ちゃんと分かった。
私はこの子に、信頼された。
ならそれに応えるだけだ。後輩が出来ているのだから、私が出来ない道理なんてない。
「まずは親交を深めるために、今からファミレス行こう! 綾ちゃん先輩の恋のお悩みとか、あたしも聞いてあげるよ〜?」
「はぁ⁉︎ べ、別に恋の悩みとかないから!」
「隠さなくってもいいのに〜。お姉ちゃんから色々聞いてるんだよ」
「あの人は……!」
まあ、なんにせよ。まずは後日、白雪先輩とゆっくりお話しないとダメなのは決まったようだ。
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