第4章 ハッピーエンドの条件
第66話
暑さは少しマシになったと言うものの、秋雨前線なりの影響で雨が降る九月三日。月曜日。
夏休みが終わった。今日から二学期だ。
駅から学校までの通学路では僕と同じく電車通学の生徒達が、傘を差しながらも久しぶりに会う友人と談笑しながら登校している。
中には一人で歩く生徒も見かけるが、彼ら彼女らも四十日ぶりの教室で友人と再会することだろう。学校と言う、学生にとって当たり前の日常が戻って来る。
去年の僕は、そんな相手三枝しかいなかったし、そもそも夏休みに誰かに語って聞かせられるようなこともしていたかった。
今年は違うと、思っていたんだけど。
三枝に野球部のことを話したり、井坂に合宿での思い出を語ったり、理世と花火大会のことを振り返ったり。確かに出来る。夏休みの思い出とやらを誰かと共有することが、今の僕には出来るし、その相手もいる。
でも、僕が一番話したいと思う彼女は、それを共有してくれるのだろうか。分からない。分からないから、ちゃんと事情を聞く。どうしてあの日来れなくなったのかはもういい。ただ、部活を辞める理由だけは、絶対に話してもらう。
どこで聞くのがいいだろうかと考えを巡らせながら信号で立ち止まると、向かいの歩道に見つけた。雨の飛沫を浴びた黒く長い髪と、ピンと真っ直ぐな背筋。儚さすら感じさせられる表情で歩く、白雪桜を。
「白雪っ!」
叫び、思わず信号が赤のまま飛び出してしまいそうになる。すんでの所で踏みとどまったが、突然大きな声を上げた僕を、同じ蘆屋高校の生徒達が訝しげな目で見てくる。しかし白雪はこちらを一瞥したのみで、立ち止まることすらなかった。
信号はまだ赤だ。横断歩道は渡れない。気持ちだけが急いてしまうも、白雪はその間に学校への道を進み僕との距離を離していく。
まだか、早くしろ。
交通ルール云々の前に、車の通りが多いここでは信号無視なんて出来るはずもない。
漸く信号が青に変わったその瞬間、コンクリートを蹴る。全力で走らずとも追いつく距離なのに、僕の両足は前へ前へも貪欲に進もうとする。
お陰で彼女の背中はみるみるうちに近づいてきて、後ろから声をかけてもまた無視される恐れがあるからそのまま行く道を塞ぐように、前に回り込んだ。
「ちょっと、待ってくれてもいいだろう······」
「······その理由が私にないわ」
情けなくも息を上げ両手を膝につき、傘を力なく地面に向ける僕を、白雪は鋭い目つきで睨む。
そこに篭っているのは、明確な敵意。
つい数週間前まではなかった見えない壁が、僕と白雪の間に聳えているようだ。
息を整え、傘を差しなおして、彼女の瞳と相対する。
「君になくても、僕にはある」
「そう。残念ながら私には関係ないことね」
「どうして、文芸部を辞めるんだよ」
「······」
返す言葉はなく、ただ僕を睨む目が一層細く鋭くなっただけ。それが言外に告げていた。
もう自分に関わるな、と。
それでも僕は、その視線に怯まない。ここで怯んで、退いてしまっては、本当に終わってしまう気がするから。
「文芸部だけじゃない。ラインのアカウントまで消して、僕たちだけじゃなくて君の友達の井坂にまで連絡を絶って。なあ、理由を教えてくれないか」
「どうして、あなたに教えないとダメなの? あなたはただのクラスメイト。それだけの存在のあなたに、その理由を教える必要がある?」
「それは······」
否定できるだけの材料が存在しない。事実として、今の僕は白雪のクラスメイトに過ぎない。友人でもなければ、家族でもない僕に話す理由なんて、白雪にはないのだ。
「話はそれだけ? あまりにも惨めな姿が視界に入ったから足を止めたけど、時間の無駄もいいとこだっわね」
冷淡な口調で告げ、これ以上話すことはないとばかりに視線を外される。通学途中の生徒達の注目を集めながら、白雪は僕の隣を通り過ぎていく。
「ごめんなさい、夏目」
今日は通常授業もなく、始業式とその後のLHRが終われば学校も終了となる。
久しぶりに入った教室は、夏休み前からなにも変わることなく。クラスメイト達は夏休みの思い出を語り合っている。しかし、そんな中で沈んだ空気を醸し出している席が三箇所。
そのうちの二つは言わずもがな、僕と三枝だ。通学路での会話を先に登校していた三枝に報告したのだけど、彼は沈痛な面持ちでそうか、とだけ言い、それ以降なにやらずっと考え込んでいる。
ではあとの一つは誰なのかと言うと。白雪の友人、のはずだった井坂だ。彼女も白雪のラインのアカウントが消えたことを、延いては彼女の様子がおかしいことを知っていたので、なにかあったのかと尋ねに行ったのだろう。
だが結果は、机に突っ伏する井坂を見たら分かる通り。僕にも向けていた、あの敵意のこもった視線を受けて、最早会話すら出来ることなく撃沈していた。
教室内の出来事ではあったけど、クラスメイト達が白雪の視線を見ていたわけではない。寧ろ、彼らにとっては不機嫌そうな白雪の方が馴染み深いだろうから、白雪が変わったようには見えていないだろう。
「どうしたもんか······」
呟いてみるものの、良い案が思い浮かぶわけもなく。勿論、放課後にでも再び話しかけに行くつもりだ。拒絶される未来しか見えないのが悲しいけど。小梅ちゃんや楓さんとコンタクトを取れない以上、白雪本人からなんとか事情を聞くしかない。
問題は、どうしたら彼女が話す気になってくれるかだけど──。
「とーもーきーくんっ」
「ひうっ!」
思考に耽っていたら、不意に耳元で声がした。突然すぎるそれに大きく肩を震わせ、無意識のうちに俯いていた顔も無理矢理上げさせられる。
なににびっくりしたって、耳にかかる微かな吐息とか急に香ってきた良い匂いとか、まあ色んなものに。背中のあたりがなんかぞわぞわした。
奇声を上げた僕に一瞬だけクラスメイトの視線が向けられるが、直ぐに逸らされる。いや、と言うよりも、僕よりも興味の惹くものへと移される。
その視線を集める先、僕の背後へと体ごと振り返ると、茶色いウェーブがかった髪を揺らし、ニッコリと笑顔を浮かべた制服姿の灰砂理世が立っていた。
「おはよ、智樹くん」
「おはよう、理世。びっくりするからいきなり耳元で呼ばないでくれ」
「あはは、智樹くんの悲鳴、可愛かったよ?」
「嬉しくない褒め言葉をどうもありがとう」
皮肉げな笑顔とともにため息を落とし、初めて目にする理世の制服姿をチラリと見る。
胸元の第一ボタンは開いていて、リボンもちゃんと結んでいるわけではないのか、ダラリと垂れ下がっている。制服の隙間から覗く鎖骨が眩しい。
スカートは校則ギリギリまで短くしており、そのスカートの裾と膝上まで上げられた黒のニーソによる絶対領域は最早一種の芸術品だろう。
白雪の黒いタイツもいいけど、ニーソもなかなか······。
「視線」
「ごめんなさい」
全然チラリとじゃなかった。ガン見しちゃってた。
秒速でこうべを垂れる僕。情けない。
「それで、うちのクラスに何か用か? て言うか理世って何組?」
「私は五組だよー。言ってなかったっけ?」
「聞いてないね」
「まあ、そんなことは今はどうでもよくて。どう? お話出来た?」
コテンと小首を傾げて尋ねられる。どうやら、変に心配を掛けてしまっていたらしい。気分転換に花火大会や家へ連れてって貰ったりしたから、理世には申し訳なくなる。
「いや、ダメだったよ。取りつく島もないってやつだ」
「そっか······うん、なら私に任せて!」
「えっ」
僕がその言葉の意味を理解するよりも早く、理世は教室後方へと向かう。
一番後ろの窓際の席。そこでひとり、読書をしている白雪。教室内の誰もがそこに踏み込むことはおろか、近づこうともしない。
そんな白雪姫のテリトリーに、シンデレラが土足で侵入した。
クラスが違うからただでさえ目立つのに、その行動で更に教室内の注目を集める理世。教卓の前の席に座る三枝が、どう言うことだと視線で問うてくる。そんなこと僕が聞きたい。
任せるってなにを? 白雪と話すってことか? そもそも理世は、白雪と面識があるのか?
疑問ばかりが浮かび上がる間に、理世は人懐っこい笑顔で白雪の席へとたどり着いていた。
どうか何事もありませんように······!
「白雪さん、ちょっといいかな?」
「······なにかしら」
いつものように、白雪の視線は手元の文庫本に落とされたままだ。少しも理世の方を見ようとしない。
「智樹くんのことで、お話があるんだけど」
「そう。興味がないわね。さっさと自分の教室に帰りなさい」
「なんで文芸部やめちゃったの?」
「あなたにも夏目にも関係ないことよ」
「私は兎も角、智樹くんには関係あるよね? だって彼、文芸部の部員だよ?」
「同じ部員だったから、退部の理由を説明しろと? 馬鹿馬鹿しい」
「智樹くんはあなたのことで、夏休み中ずっと悩んでたんだよ?」
「それで? 夏目がずっと悩んでたから説明しろと? 理由になりえないわね」
「ねぇ、どうしてそこまで頑なに教えてくれないの? それにもなにか理由があるの?」
はぁ、とため息をつき、パタンと文庫本を閉じた白雪が、顔を上げて理世と視線を交錯させる。笑顔の理世と対照的に、白雪は無表情を貫いている。眼前の相手を睨むでもなく、ただ見ているだけ。無色透明な無表情。
そして開かれた桜色の唇は、こちらを凍てつかせるような、冷え切った声と言葉を紡いだ。
「飽きたのよ」
「飽き、た······?」
「そう。飽きたの。お遊びのつもりで入ったけど、私よりも劣ってる下等な三人が鬱陶しくなって来たってのもあるわね。ただでさえうちのクラスはギャーギャー騒ぐだけしか取り柄ない虫以下の存在しかいないのに、放課後まであんなのと関わってると、私まで馬鹿になっちゃうもの。だから辞めた。どう? これがあなたたちの望んだ回答だけど」
教室の時間が止まった。凛としてよく通る白雪の声は、この場の全員に届いたのだろう。そして、それを受け入れられたのは、その内の何人ほどか。
文化祭を通して、クラスメイト達の白雪に対する評価は変わっていた。孤高の存在から、れっきとした『クラスメイト』として扱われていたのだ。
だけど、今の白雪の言葉は。
文化祭で積み上げた全てを崩壊させるのには十分すぎた。
「調子に乗りやがって······」
誰かがボソリと呟く。マズイ。僕がそう思った頃には、しかしすでに手遅れだ。
誰が放ったかも分からないその言葉を皮切りに、秘めるつもりもない囁き声が伝播する。
「やっぱり、心の中では私達のこと見下してたんじゃない」
「ちょっと可愛いからってお高く止まるなって感じよね」
「文化祭の時は猫かぶってたってことかよ。最低だな」
「おい、お前ら落ち着けって」
三枝が制止の声を掛けるも、一瞬にして燃え広がった炎は沈静化するわけがない。それどころか、三枝にまで責め寄るやつまでいる。あんなことを言うやつを許すのか、お前の彼女も馬鹿にされてるんだぞ、と。
こうなった人間、及び集団というのは酷く厄介なものだ。自分達に正義があると思い込み、それを免罪符に個人を徹底的に叩く。そして事実、白雪の放った言葉は紛れも無い誹謗中傷の類だ。その真意がなんであれ事実は変わらない。
僕はどうするべきだろうか。みんなを止めるか? もしくは、白雪に声を掛けるか? どちらにせよ、僕はなにを言えばいいんだ?
分からない。どれだけ頭を悩ませても、答えが出ない。ここはきっと、動かなければいけない場面だ。行動を起こすべき状況だ。
なにをすればいい? なにを言えばいい? なにを──。
「白雪さん」
「なに······っ!」
パシン、と。乾いた音が鳴った。特別大きな音でもなかったのに、それひとつで騒めいていたクラスがまた静かになる。
音の発生源。教室最後尾の窓際。それを、理世が白雪の頬を思い切りビンタする様を、全員が見てしまったから。
叩かれた白雪の方が痛いはずなのに。叩いた理世が、どうしてか痛そうな、泣きそうな表情をしていて。
悲哀を滲ませた声色で、理世が言葉を絞り出す。
「私、あなたみたいな人、大嫌い」
「嬉しいことを言ってくれるわね。私もあなたみたいな女は大嫌いよ」
今日初めて見た白雪の笑顔は、相手を嘲るようなものだった。心底から相手を侮蔑し、見下し、馬鹿にしたような笑み。
その表情になにも返すことなく、理世は踵を返して教室を出て行った。
残されたのは、理世のお陰で怒りの矛先を見失ったクラスメイト達と、一先ず安堵したように胸をなでおろす三枝に、友人を気遣わしげに見つめる井坂。
そして、打たれた方の頬を右手で抑え、痛みに耐えるように歯をくいしばる白雪。
僕は何も出来ずに、ただ呆然するだけだった。
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