第15話

 初恋は実らない。どこかで聞いたことのあるフレーズだ。実際、初めての恋なんてものを覚えてる人はとても少なくて。それが成就するとなるとさらに少なくなるのは事実だろう。

 そもそも、最近の子供達は妙にませているから、初恋が幼稚園だったり保育園だったりする子だっている。と、本で読んだことがある。

 だがそれは本当に恋と呼べるものなのだろうか。例えば、単なる憧れだったり。自分の理想を勝手に押し付けているだけだったり。本当に小さな子供達は、それすらも理解せず、その時抱いている感情は恋なのだと錯覚するのかもしれないし、その子達にそのようなことを説いたところで無駄なことだろう。


 そんな私の初恋は、中学生の頃だった。

 たまたま家族で立ち寄った野球の試合。そのマウンドで、目を輝かせる一人の少年。握る白球に全てを乗せながら、キャッチャーミット目掛けて思いっきり投げる。相手バッターの悉くを空振らせる力強いピッチングは、私を魅了するのに十分過ぎる魅力を湛えていた。

 そのギラギラと輝いた瞳に、私の初恋は奪われたのだ。


 それから何度も、彼の試合を観に行った。彼がマウンドに立っている姿を一目でいいから見たくて。試合の日程なんて、この時代ネットで調べればいくらでも出てくる。

 フェンスの向こうの彼とは話したこともない。だから彼は私を知らない、完璧な一方通行の想い。

 それが本当に恋と呼ばれるものだったのかは分からない。前述したように、それに似た違う何かだったのかもしれない。けれどあの頃の私にとっては、正真正銘初めての恋だったのだ。そこに第三者の意見など求めない。私の感情は、私が知っていればそれでいいのだから。


 彼のその瞳を見るたびに、一生懸命野球に打ち込む姿を見るたび、淡い想いは強く増していって。人知れず、私の胸の中だけでそれを育んで来た。


 そして2年前の5月4日。彼はその日以降、マウンドの上から姿を消し、私の初恋は唐突に終わりを告げた。







 私の家は、自身が通っている蘆屋高校からかなり近い。徒歩5分圏内の一軒家。もしかしたら五分もかからないかもしれない。

 さっきまでいた夏目の家からは決して近いとは言えず、電車に15分ほど揺られて最寄駅まで辿り着き、そこからバスで10分以内。正確な時間は測ったことがないから知らない。

 約30分ほどかけて帰宅した我が家には、芳ばしい香りが漂っていた。お母さんが夕飯の準備をしているのだろうか。


「ただいまー」

「おかえり、桜。もう少しでご飯出来るからね」

「分かった」


 キッチンから母の声を受け、二階の自室へと一度戻ろうとして、リビングを見渡してみる。

 多分、なんの変哲も無いリビングだと思う。他人の家と言うのを、今日見てきて夏目の家くらいしか知らないからどうとも言えないけど、そこら辺の一般家庭と比べてもおかしな所は無いはずだ。

 強いて一つ、特色すべきものを上げるとするなら、壁際に並べられたトロフィーや表彰状達か。そのどれもが可愛い可愛い我が妹のもので、私にとっても自慢できるもの達だ。

 そこに自分のものが一切並べられていない事については、既に諦めがついている。いや、他の誰でもない、私自身がそうするように仕向けて来たのだ。

 それに今更何を思うでもなく、今度こそ二階の自室へと足を向けた。


 部屋に入ると、どうしてか部屋着に着替えるような気力は湧いてこなくて、服がシワになるのも構わずにベッドへと身を投げる。

 私は体力があまりないから、疲れているのかもしれない。運動方面は昔からからっきしだったけど、でもだからと言って、買い物に行った程度で疲れる程だっただろうか。

 頭の中で首を横に振る。ならばこの疲労の原因は、明らかにあの男だ。

 夏目智樹。私を学年トップから引きずり下ろした憎き男。いや、違う。彼にテストの順位で負けたことなんて、最早どうでもいい。

 学校で初めて会った時は、確かにそれもあったけど。今もあの男に一矢報いてやりたいとは思っているけど。私の心がこんなに疲弊しているのは、そんなものが原因ではない。


 初めて彼を見た中学時代。あの頃の彼と今の彼はまるで別人みたいで、正直悪い夢だと思うことも多々ある。

 寝転んだまま視線を動かしてみれば、とある写真が目に映る。こんなものを残しているのがとても女々しくて、思わず自嘲気味な笑みが漏れる。私だって彼のことは言えない。まだ諦めきれていないのだから。

 そろそろ起き上がって着替えようかと思うと、部屋の扉がノックされた。私の部屋に入る時ノックするのは、妹の小梅だけだ。お母さんはそんなものせず遠慮なしに入ってくるし、お父さんはそもそも近づこうとしない。

 まあ、小梅もノックはするだけで、返事をする前に入ってくるんだけど。


「お姉ちゃん、今ちょっといい?」

「ええ。私も小梅に丁度お話があるから」

「あははー、なんのことかなー」


 白々しい棒読みで明後日の方を向きながら苦笑いを浮かべている。どうやら、なんのことか察しがついているらしい。当たり前でしょうね。今日は折角妹とのデート、じゃなくてお出かけかと思えば、なぜかその妹本人からあんな仕打ちを受けたのだから。


「それで、どうして勝手に帰ったりしたのかしら?」

「えー。だってお姉ちゃん、いっつもお兄さんのこと家で話してるじゃん。妹として応援しないわけにはいかないじゃん?」

「応援ってなんの話よ······」


 あの男との間に、応援されるようなことは何もないんだけど。それを言ったところで、小梅は素直に受け取らないだろう。

 けれど勝手に椅子へと座る妹は、どうやら私が思っていたこととは全く違うことを言っていたようで。


「お姉ちゃんが、ちゃんと諦められるための応援だよ」

「······」

「いや、ちょっと違うか。諦めることを諦められるように、かな?」


 それを聞いて、思わず顔を逸らしてしまった。

 何かを諦めようとして、結局それを諦めきれていない状況と言うのは、よく見てる人間からすれば分かりやすいものだ。例えば、夏目智樹が私や三枝秋斗に分かりやすいように。私も、妹の小梅には分かりやすく映ってしまっている。

 何を諦めようとしているのか理解している人には、と注釈はつくが。


「原因を作ったあたしが言えた義理じゃないのかもだけどさ。周りからの好意を、周りへの好意を諦めるなんて、土台無理な話なんだよ、お姉ちゃん」

「そうなのでしょうね······」


 人間である以上。感情を持つ以上。誰かに好意を抱いてしまうこともあれば、誰かから好意を抱いて欲しいと思うこともある。それは人間という動物にとっては必要不可欠な欲求であり、感情と理性を同時に併せ持つ人間の特権とも言える。

 事実私は、未だ彼に。夏目に期待してしまっているのだし。裏切られると分かっていながら。見向きされないと知っていながら。

 それでも諦めきれない私は、彼が書いていると言う小説に縋り、彼の過去に縋る。みっともない女だ。その自覚はある。


「だから、諦めることを諦めて欲しい。ずっと言ってることだけどさ、今日お兄さんを見て、余計にそう思うようになっちゃったよ」

「どうして、そこで夏目が出てくるのかしら?」


 全く脈絡がないわけではないけど、そこであの男が出てくることが納得いかない。私が一体、あの男にどれだけ掻き乱されていると思っているのか。


「お姉ちゃんの話を今まで聞いててさ、実際に見て、話して、確信出来たって言うかな。あの人は、信じてもいい人だよ、って」


 一体小梅は、あの短い邂逅で夏目智樹と言う人物の中に何を見たのだろうか。我が妹ながら、私とは違って対人能力に秀でているから、私には到底理解出来ないのかもしれない。


「きっとお兄さんと一緒にいると、お姉ちゃんにとってもいいことが沢山あると思うんだ。それが何かはあたしにも分からないけど、でも間違いないと思う」

「夏目と一緒にいたら、諦めきれるってこと?」

「うん」


 そこだけは、力強く頷かれた。

 良いのだろうか。この私が、誰かの好意を期待しても。未だ忘れることのできない、あの時の感情に縋ってしまっても。


「どうせだから、お姉ちゃんがやる気出るような感じで言うとね」


 そこで言葉を切った小梅は、勝気な笑みを浮かべて。自分で言うのもなんだけど、それは随分私と似たような笑顔だった。


「初恋が実らないなんてロマンのかけらもないことを言うリアリスト達を、ギャフンと言わせてみようよ」


 なるほど確かに、私のやる気が出るには十分で。それになにより、妹からの言葉とあれば、それを無碍にすることは出来ないのが私だ。

 あの時の初恋を思い出すなんて大層なことは言わない。ただ、ほんの少しだけ。彼に踏み込んでみよう。踏み込んでもらおう。


「じゃ、頑張ってね」

「ええ。頑張るわ」


 部屋を出て行く小梅を見送り、机の引き出しからA4サイズのプリントを取り出す。

 脳裏にあの三人の姿を浮かべながら、ペンを走らせた。

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