第72話
九月はまだ日の落ちる時間が遅い。八月ほどではないが、十七時であればまだ明るいと言えるだろう。
キン、と言うバットの甲高い音がここまで聞こえてくる。野球部は今日も元気に練習中のようだ。理世がいないからってやる気なくなってなきゃいいけど。まあ、そんなやつがいたら、小泉が喝を入れてくれることだろう。
時間を見つけてまた野球部に顔を出そうか、なんて考えてしまっているのは、多分現実逃避しているから。
学校から徒歩五分以内の白雪家には、当然のようにすぐついた。心の準備なんて勿論する暇もなく。
「いらっしゃい、夏目君。久しぶりね」
「ど、どうも······」
極度の緊張状態に陥っている僕を出迎えたのは、柔和な笑顔を浮かべた白雪の母親、楓さん。夕飯を作る最中だったのか、エプロンを着用している。
「桜は?」
「中で縛ってるわ」
「上出来や」
「さ、取り敢えず上がって頂戴」
気のせいだろうか、今ものすごく不穏な言葉が聞こえた気が······。
戦々恐々としながらも、堂々と家の中に入って行く大黒先生の後ろについていく。そして通されたリビングの光景を見て、僕は唖然とした。
「ちょっと小梅! これ解きなさいよ!」
「それ解いたらお姉ちゃん逃げるでしょ?」
「当たり前よ! 私今こんな格好なのよ⁉︎ これで夏目と会えるわけじゃない!」
「折角だし、それでお兄さんを誘惑しちゃったら?」
「今更そんなこと出来るわけないでしょ。どのツラ下げてって感じじゃない」
「うん。まあもう遅いけどね」
「はい?」
こちらを向いた、椅子に縛られている白雪と目があった。
彼女は制服から着替えて、タンクトップにハーフパンツ、メガネにポニーテールと随分ラフな格好で椅子に座り縄で後ろ手を縛られている。てか、マジで縛ってたんだけど······。白雪家怖い······。
取り敢えず目があったからには、何かしら話しかけた方がいいよな······。
「······お母さん」
「なに〜?」
「これ、解いて」
僕が言葉を探しているうちに、白雪の方が先に口を開く。呼ばれた楓さんは白雪の背後に回り込み、素直に縄を解いた。なんで人を縛るのに丁度いい縄なんてものが置いてあるのかは、考えないことにしよう。
「逃げたらだめよ?」
「逃げ場塞いだくせによく言うわね」
実の母親を思いっきり睨む白雪だが、楓さんはそれを意に介さず、あら怖いと微笑んでいるだけだ。
そしてその鋭い視線は、次いで大黒先生へと向けられる。
「そこのニコチン中毒者も。あとで覚えときなさいよ」
「内申点どないなっても知らんぞ」
「教師失格ね」
いや本当だよ。内申点を人質に取るなよ高校教師。
「夏目」
久し振りに、名前を呼ばれた気がした。
その睨むような鋭い目つきと、そこに込められた敵意は相変わらずだけど。ただそれだけのことで、開いてしまった彼女との距離を実感させられる。
「ん、どうした白雪」
「ついてきなさい」
縛られていた手首を抑えながら、彼女は踵を返して二階に繋がる階段へと足をむける。
二人きりやからって変な真似すんなよ、なんて馬鹿な声が聞こえてきたが、それを無視して白雪の後を追う。
階段を上がって左手側にある扉を開け、その中に入っていく白雪。扉を閉めないと言うことは中に入れと言う事だと解釈して、僕もその部屋に入る。
「凄い部屋だね······」
「適当に座って」
ケースの中に飾ってある大量のフィギュア。壁に掛けられた、アニメのポスターやタペストリー。本棚にはライトノベルが所狭しと並んでおり、大きなゲームモニターの前には可愛らしい丸机が鎮座している。
なんかもう、凄いオタクっぽい部屋だった。同じ女子の部屋でも、理世の方がまだ女子の部屋っぽい。
言われた通り、適当な場所に腰掛けながら本棚の方に視線をやると、ある物を発見した。
それを見て、理世の言葉はやっぱり正しかったんだと確信を得る。
「さて」
ベッドの上に腰を下ろした白雪が、床に座っている僕を見下すようにしながら口を開いた。
今の彼女は今まで見て来たどの姿よりもラフで無防備な格好だから、こんな時だと言うのに場違いにもドキドキしてしまう。
「何をしに来たのか、は聞かなくてもわかるわね。そしてあなたの言葉対する私の返事も、聞かなくても分かってるでしょ?」
「さて、どうだろうね。少なくとも僕をここに招いた時点で、君は話を聞くつもりがあるってことだろう?」
「お母さん達の前だとやり難いだけよ。あなたが壊れた機械のように同じ戯言しか吐かない馬鹿なら、今すぐにでも追い出すわ」
「そうか。なら喜べよ、今日はちょっと、違うことを言いに来た」
「聞くだけ聞いてあげるわ」
切れ長のその目に滲ませているのは、近寄るものを皆遠ざけようとする敵意。本当に聞く気があるのか疑わしいほどの。
まずはその敵意を削ぐとこから始めようか。
「色々考えたんだよ。君のこと、小梅ちゃんのこと、文芸部のこと、僕自身のこと。どうして君は僕達から離れて、どうして僕達は君をこうまで引き止めようとするのか」
「私についてはもう言ったと思うんだけど」
「さて、心の篭ってない罵倒以下の捨て台詞なんてもう忘れたね。君ともあろうものが、あんな生温い言葉で毒を吐いたつもりになってるなんて」
「······なにが言いたいのよ」
白雪の片眉がピクリと吊り上がった。彼女が怒ってる時のサイン。
選ぶべき言葉は慎重に。なにも僕は、白雪と喧嘩しに来たわけではないのだから。
「そうやって自分を傷つけてまで意地を張るもんじゃないぜ。白雪姫が自分から好き好んで毒林檎食べてどうするんだよ」
言葉はない。ただ僕を睨んでいるだけ。そこから決して目を逸らさず、続ける。
「君と小梅ちゃんのことは聞いた。君が小梅ちゃんに対して抱いてる感情も、理解出来る。でも、それは小梅ちゃんに寄りかかっていい理由にはならない」
少し責めるような、キツイ言い方になってしまった。白雪からは、睨み返されているように見えているかもしれない。
「······じゃあ」
瞑目して、ため息がひとつ。
再び開かれたその瞳から敵意は抜け落ちていて。
「じゃあ、どうすれば良かったのよ」
ああ、その表情は。その声色は。僕も知っている。全てに落胆して、全てを諦めた、そんな人間のものだ。
なるほど、自分では分からないものだけど、こんな酷いものなのか。
白雪の端正な顔が、イビツに歪んだ笑顔に変わる。そんな笑顔、君に浮かべて欲しくなかった。
「私は小梅が好きで、大好きだから、大好きなのに、なのに羨ましいとか、妬ましいとか、それだけじゃなくて、いなくなればいい、なんて······!」
らしくない辿々しい口調で、ポロポロと言葉が溢れる。メガネの奥にある黒い瞳は揺れていて、今にも雫が落ちそうだ。
「もっと私を見て欲しかった! 小梅だけがいつも褒められて、その後ろにいる私には、誰も見向きもしなかった! ねえ、どうしてよ、なんで······」
誰も私を見てくれなかったの、と。
ともすれば子供の癇癪となんら変わりないように思えるそれ。本当に、拗らせてるな。僕も人のことを言えた義理ではないのだけど。
「どうやっても、そんな気持ちが消えないのよ······。なら消えないそれは誤魔化して、無理矢理見て見ぬ振りするしかないじゃない。私はお姉ちゃんなんだから、私よりも優れた小梅のために······」
「それが小梅ちゃんに寄りかかってるって言ってるんだよ」
「知ってるわよ! 小梅のためだなんて言いながら、結局は自分の醜い部分を隠すために小梅を利用してるだけ!」
「それが分かってるなら······!」
「それが分かってるからっ! ······分かってるから、自分に失望しちゃうんじゃない。こんな、私みたいな人間は、あなたたちに相応しくないって······」
どうやらひとつ、勘違いをしていたらしい。彼女が独りになろうとするのは、小梅ちゃんへの感情が起因していると思っていた。だから、自分は必要ない、必要とされるべきではない、そう考えているのだと。
事実として、そうだったのだろう。昔、まだ僕が彼女と出会う前は。
けれど今は違う。文芸部と言う心地の良い居場所を手に入れた彼女が、再び小梅ちゃんへの劣等感を呼び起こしてしまって。そんな自分に、失望して。小梅ちゃんはあくまでも、丁度いい口実に過ぎなかったんだ。今より幼かった中学の頃は、嫉妬や劣等感に振り回されていただろう。もう少し大人になれていれば、それらとの付き合い方も身についているかもしれない。
けれど僕達は、子供と言うには大き過ぎて、大人と言うには小さ過ぎる。
振り回されることなく向き合っても、正しい向き合い方を知らないから。
だから白雪は諦めた。自分を悩ます煩わしいこと全てを。小梅ちゃんへの負の感情も、僕達への親愛の情も、全て諦めて殻に閉じこもり、考えることを放棄した。
「だから私には、あの場にいていい資格なんてない。諦めるしかないのよ······」
神楽坂先輩も三枝も、優しい人達だ。けれど白雪には、その優しさこそが毒になる。自分自身がそれを享受していい人間だと思えないからこそ、与えられた優しさに心を蝕まれる。その優しさを受け入れる資格なんてないと、諦める。
「資格なんてなくても、君があの場にいないといけない理由はある」
「······ないわよ、そんなもの」
「なら僕が理由を作ってやる。他の誰でもない、白雪桜じゃないとダメな理由を!」
つい荒げてしまった声のせいで、喉がヒリヒリと痛む。自分で思っているより語調が強くなっていたのだろうか、僕を見つめる白雪の目は、少し怯えたようにも見えて。
そんな彼女の瞳の中に、僅か。縋るような色を見る。
なんだよ、やっぱり諦めきれてないんじゃないか。
深呼吸をして落ち着かせ、出来る限りの優しい声音を意識して、彼女を繋ぎ止めるための言葉を紡いだ。
「責任を果たすんだ」
「責任って······」
「自分の放った言葉の、だよ。君は言っただろ。僕の努力を拾い上げてくれるって。君が無駄にはしないって」
僕はその言葉に救われたんだ。君がいてくれるなら、君がいてくれたから、また頑張ろうと思えたんだ。
それに。
「なにより、ご褒美だなんて言ってあんな呪いを押し付けた、その責任を」
メガネの奥の瞳が、揺れる。
あともう一押し。彼女をこちらに連れ戻すために。そう思って思い出したのは、この部屋に入った時に見た、本棚に置かれてあるあれ。
徐に立ち上がって許可も得ずそれを手に取り、彼女に笑いかけた。
「こんなもの置いてあるってことは、まだ諦めきれてないんだろ? だったら意地張ってないで、帰って来たらいいんだよ」
本棚の中で大切に眠らされていたのは、文化祭で発行した僕達の部誌。白雪が拾い上げてくれた、僕の、僕達の努力の結晶。
本当に諦めたいのなら、こんな未練がましい真似はしないはずだ。全く同じことをしていた僕が言うんだから、間違いない。
「私、は······」
じわりと、揺れる瞳に溢れる涙。それが頬を伝って膝を濡らす。
彼女の泣き顔を見るのなんて初めてで。それすらも美しいと感じてしまうのは、僕が彼女を好きだからだろうか。
「私は、あそこにいても、いいの?」
「いてくれないと、僕が困るね」
「そう······」
メガネを取って涙を拭う白雪。
それでも落ちる雫は止められず。構わずに浮かべた表情は、僕のよく知る、自信に溢れた勝気な笑みで。
「なら、果たしてあげる。あなたのファーストキスを奪った、その責任を」
折角曖昧な表現にしてやったのに、そんな直接的な表現はやめてくれよ。なんて抗議の声は、どうしても出なかった。
泣きながら笑う白雪が、あまりにも綺麗だったから。
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