第20話
テスト期間が終わったことにより、放課後の文芸部は通常運転へと切り替わっていた。昼休みに懸念していたみたく、神楽坂先輩に通知表を見せて罰ゲーム即執行、と言うことにはならず。僕と三枝は執筆に勤しみ、神楽坂先輩は受験勉強の片手間で校正などを行ってくれる。どうも三枝は終わりかけのようで、早ければ今週中に終わるとのことだ。特に締め切りが設けられているわけでもないけど、自然と僕も焦ってしまう。
勿論焦ったからと言っていい文章が出てくるわけもなく、僕の心とは裏腹にパソコンはさっきから一文字も入力されていない。
さて、僕たち三人はこの通り、いつもの部活動に励んでいるわけだが。では新入部員の白雪はどうしているのかと言うと。
「また手が止まってるわよ。国語で100点取ったその脳味噌は飾り? 授業の内容を活かせないんじゃ勉強できても全く意味がないわね。そんな調子で文化祭までに間に合うのかしら」
例によって読んでいる文庫本から顔を上げるどころか視線を外すこともなく、僕の進捗状況を詰って来るのだった。
こっちをチラリとも見ていないのに、どうして手が止まってることが分かるのか。実は超能力者だったりしないだろうな。
「間に合わせるよ。間に合わさなきゃダメだからね。そもそも、僕がここまで悩んでるのも······」
「なによ」
「······いや、なんでもない。話してる暇があるなら手を動かすことにするよ」
君のせいだろ。と言いかけて、辞めた。
別に、今書いてる小説はそれっぽい言葉を羅列させてそれっぽい文章をでっちあげれば、今すぐにでも完成はするのだ。
傍目に見たらそれは小説の体をなすだろう。神楽坂先輩から誤字脱字や細かい添削などがあるかもしれないが、それでも完成させるだけならなんら難しいことではない。
それでも未だ完成していないのは、白雪にあんなことを言われたからに他ならない。らしくなく本気で悩んで、この一作を書くためだけに数多くの参考資料を漁って頭に叩き込んだ。
またあの時みたいに、たった一度の出来事だけで全てが台無しになるかもしれないのに。
それを誰よりも恐れていた僕が、今こうして執筆作業に全力で臨んでいるのだから、白雪からの数年越しの皮肉かと思いたくなる。
「でも夏目君。この前からあんまり進んでないっぽいね」
勉強の手を止めた神楽坂先輩から、心配そうな声を掛けられた。それに次いで三枝もパソコンから顔を上げ、揶揄うような口調で話し出す。
「ま、智樹は最近小説どころじゃなかったもんなぁ」
「そんなことはない。君こそ、色々と大変だったんじゃないか? 色々と」
ケラケラと笑う三枝に対して、僕はハハッと乾いた笑いしか出てこない。
いやはや全く。女と言うのは怖いものだ。僕と三枝では対象に向ける感情に差異はあれど、この場にいる二人の女子のおかげで執筆が手につかなくなっていたのだから。
「ちょっと休憩しに自販機まで行って来ます。三枝、なにかいるか?」
「コーラで」
「了解。神楽坂先輩は?」
「わたしは紅茶をお願いしようかな」
「分かりました。白雪、やる事がないんだったら手伝ってくれ」
あまり不自然にならないようなタイミングで立ち上がり、不自然にならないように白雪を誘って先輩と三枝を二人きりにしようとする。どうやら白雪も僕の意図に気づいてくれたようで、文庫本に栞を挟んで長机の上に置いた。
「仕方ないわね。カフェオレ一本で手を打つわ」
「奢らないからな」
先輩と三枝にも後で金は返してもらうし。そもそも、僕が自販機でもう一度あの甘ったるい飲み物のボタンを押すなんてことがあれば、明日は世界の終わりとなってしまうだろう。
二人並んで移動した先、図書館横の自動販売機。あの二人の分は後から買うとして、取り敢えずブラックコーヒーを購入してプルタブを開いた。
「美味い······」
「あなた、本当にそれしか飲まないのね」
呆れたように言いながら、白雪も自販機に小銭を投入する。
と言うか、ブラックコーヒーを飲まない僕なんてそれは最早僕ではないのではなかろうか。そりゃ僕だってお茶とかスポドリとか、適当なジュースとかは飲むけど、こうして自由な選択肢があると言うのにブラックコーヒー以外を選ぶなんてあり得ない。
「あら、新商品あるじゃない」
白雪はなんとカフェオレを買わず、その新商品とか言うコーヒーを購入した。確か、クラスの男子が苦かったとか言ってたのを覚えている。実際僕も一度飲んで見たのだけど、僕にとっては十分過ぎるほどに甘いものだった。
極度の甘党である白雪が飲めばどうなるかなんて分かりきっているが、なんか面白そうなのでそれは教えてやらない。
「なによ」
「いや、なんでも」
込み上げてくる笑いをなんとか抑えながら、スチール缶に残っていたコーヒーを飲み干す。空き缶は放り投げるなんてことせず、ちゃんと直ぐそこのゴミ箱まで歩いて行った。
空き缶を捨てて振り返ったそこには、やはり予想通りの表情をした白雪がいて。可愛い顔を思いっきり顰めて、購入したコーヒーの苦さを言葉以上に表していた。
「苦い······」
「良かったじゃないか。これを機に、君も少し糖分を控えたらいいよ」
「無理。なにこれ、めちゃくちゃ苦いじゃない······。夏目、上げるわ」
「え、いやいらないんだけど」
僕の意見は完全に無視なのか、白雪はスチール缶を無理矢理押し付けて新たにカフェオレを買う。
手渡されたスチール缶の飲み口をまじまじと意味もなく見つめてみるも、さてはて、こいつをどうするべきか。
「甘美味ぁ······」
「これ、どうしたらいいんだよ」
「あなたに上げるって言ったんだから、飲んだらいいじゃない」
蕩けた表情でカフェオレを美味しそうにチビチビと飲む姿は、どこか幼くも見える。
よくもまあ人前でそんな顔を晒せるもんだ。正直言って若干間抜けな顔とも言えるし。それを横目で眺めつつ、渡されたスチール缶を傾ける。喉を通る液体はやっぱり甘くて、これを苦いと言える白雪の味覚を疑わざるを得ない。
「間接キスね」
「······」
唐突に放たれたその言葉に、つい胡乱な目を向けてしまった。白雪は悪戯っぽい笑顔を浮かべていたが、僕にその視線を投げかけられてムッとした表情へと変わる。
「なによ、その目は」
「いや、別に」
「この私と間接キス出来たんだから、もっとなにか反応ないの?」
「間接キスごときで反応を示すなんて中学生くらいだ、みたいなことを言ってたのは君だろう」
「そうだったかしら?」
至極どうでも良さそうに、白雪はまたカフェオレを喉に通す。実際どうでもいいのだろう。三枝が神楽坂先輩と間接キスしてしまったと言って浮かれたような慌てたような反応をしていた時も、彼女はその程度で何を大袈裟な、みたいなことを言っていたし。
僕だって、間接キス程度に何を思うわけでもない。その相手が校内一の美少女であったとしても。もしかしたら、一部の人間には羨ましがられるかもしれないし、この事を知られたら刺されるかもしれないけれど、僕にとっては特に価値のないただのスチール缶だ。
「その程度で一喜一憂出来てる三枝は、幸せなやつなんだろうな」
「恋は盲目、とも言うわね」
「盲目になれるくらい一途なんだろう。いい事じゃないか」
「······」
「なんだよ」
何か言いたげに僕を睨む白雪。まあ、言わんとすることは分からないでもない。かつての僕だって野球に一途すぎるあまり盲目になっていたのは否めないし。ただ、そう言う事を諦めたからと言って、なにも一途に頑張る人をバカにすることはないのだ。
それを説明してやろうかと思ったその瞬間、足元になにかが転がってきて、コツンと踵のあたりにぶつかる。
「······っ!」
「夏目?」
それを視認した瞬間、ぞわぞわと全身に鳥肌が立つ。暑さとはまた別の要因から汗が吹き出して、呼吸すらままならない。
それと同時にフラッシュバックされる、2年前の光景。車に乗っている両親と僕。横から猛スピードで突っ込んでくる大型トラック。衝撃と、激痛。握っていたはずのボールは車の中に落ちていて、嵌めていたグローブは僕の左手から外れていた。運転席と助手席は完全にひしゃげてしまって、安全のためのエアバッグは何の意味もなしていない。
僕の異変に気づいたのか。白雪は眉根を寄せてこちらを覗き込んでくる。
「白雪。悪いけど、そのボール。拾ってくれないか」
「あなた、凄い汗だけど。大丈夫?」
「······大丈夫だから。頼む」
半ば納得していなさそうな顔をしていたが、白雪は僕の言葉通り転がって来た野球ボールを拾い上げた。
目眩がする。吐き気、はない。手で触れていないからだろうか。でも、この前指先で触れた時は、あの時の光景がフラッシュバックされることなんてなかった。
次第に立っているのも辛くなって、図書室前へと続く扉に背を預けた。
「あの子」
「······」
ボールを転がした本人だろうか、野球部の部員がこちらに駆け寄って来た。腕にボールを大量に入れた籠を抱えているその部員は、見覚えのある顔だ。
白雪がわざわざ反応したのも頷ける。僕の後輩、樋山修二だった。自販機の近くには倉庫もあるから、そこにボールをしまいにいく途中なのだろう。
「こんちわす、智樹さん」
「ああ、久しぶり······」
幸いにも、小泉の姿は見受けられない。白雪がいるときにエンカウントしてしまっては、また面倒なことになりかねなかった。
樋山は白雪の手からボールを受け取り、お礼と謝罪の言葉を言う。こんな時に顔見知り、しかも樋山が来るのは、運がいいのか悪いのか。
やめておけばいいのに、僕はつい、彼に質問を投げかけてしまった。
「この前の試合、どうだった?」
「この前の······。ああ、ゴールデンウイークの時の試合っすね。代打で出してもらったんすけど、三球三振で終わりました」
先輩や顧問の先生からは、豪快なスイングだったと褒められましたけど。そう言う樋山は、その結果に満足していなさそうに苦笑した。僕にはそれがとても眩しく見えて。
目眩が、酷くなる。
「そうか······。まあ、頑張れよ」
「はい。じゃあ、失礼します」
人の良さそうな笑顔で会釈して、後輩は去っていく。
頭が痛い。片手で側頭部を抑えながら、その場に座り込む。いや、ひょっとしたら目眩が酷いあまり、平衡感覚がおかしくなって半ば倒れ込んだようだったかもしれない。それすら、判別がつかない。
「ちょっと、夏目⁉︎」
「ああ、悪い。大丈夫だから」
「どう見ても大丈夫じゃないでしょ! 保健室行くわよ。紅葉さんには私から連絡しておくから」
白雪の焦ったような声もどこか遠く聞こえる。目の前で携帯を操作する彼女の姿は、ぼやけてしまっている。どうしてだろう。
この前指先でグローブに触れた時は、こんなに酷くなかったのに。マシになったと思ったら、このザマだ。吐き気がないだけまだマシか。
あの時との差はなんだ?
足に当たったから? この前よりも長い時間触れてしまったから? 学校だから? 樋山と話したから?
もしくは、目の前に白雪桜がいるから?
「ごめん、白雪······」
「いいわよ。ほら、立てる?」
差し出された手を取る。
掴んだ右手は、思いのほか小さくて、柔らかくて、あたたかい。
ぼんやりとする頭の中で、それだけは確かに感じ取れた。
「君が僕に優しくしてるなんて、明日は季節外れの桜が咲くかもな」
「······」
「どうか、した?」
「どうして、泣いてるのよ」
「え?」
ハッとして頬に手を当てると、そこには確かに涙の流れた跡がある。
どうして。なにも悲しいことがあったわけじゃないのに。それどころか、樋山が一年生ながらにしてちゃんと試合に出れたと言う、喜ばしいとも言えることがあったのに。
どうして?
「······いい。やっぱり聞かないわ。ほら、保健室いくわよ」
「あ、あぁ······」
白雪に手を引かれて、保健室まで連れて行かれる。
目眩はもうしなかった。頭痛も治まった。
けれど、涙が止まる気配はなかった。
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