第21話

 気がついた時には、保健室のベッドで横になっていた。白雪にここまで連れてこられたのは覚えているけど、ここに着いてからはイマイチ覚えていない。


「起きた?」


 聞こえてきた穏やかな声の方にゆっくりと首を動かしてみれば、長い黒髪を揺らす白雪が文庫本から顔を上げ、僕の顔を覗き込んでいる。いつも視線は本に固定されているのに、彼女が読書を適当に中断するところなんて始めて見た。


「白雪······」

「随分と魘されてたみたいだけど」


 見れば、座っているパイプ椅子の横には僕と彼女のカバンが置かれている。一度部室に戻ったのだろうか。

 上半身を起き上がらせ、いつものように皮肉げな笑みを浮かべる。多分。ちゃんとその表情を作れてると思う。


「魘されてたってことは、悪夢でも見てたんじゃないかな。例えば、君が出てくる夢とか」

「私みたいな美少女と夢でも会えたのに悪夢なんて、面白いことを言うのね」

「夢でも君の罵詈雑言を聞かされたら、それは悪夢だろうさ」


 頬になにかが乾いた感触がある。どうやら、ここに来る前に泣いていたのは夢ではなく現実らしい。

 保健室の先生や保健委員は見当たらない。ここにいるのは、僕と白雪の二人だけのようだ。

 今が何時くらいなのか気になって外を見てみれば、空は赤く染まっていた。


「大丈夫?」


 らしくない気遣わしげな声。視線を彼女の方に戻せば、これまた白雪らしくない心配そうな顔。いや、誰だって目の前で知り合いの様子がおかしくなれば、心配くらいするだろう。

 白雪は別に、血も涙もない冷徹な人間などではなく、普通の女の子なのだから。


「悪い、心配かけて。別に体調は普段通りだから。部活は?」

「二人には先に帰ってもらったわ。あなたの様子を見に一度ここにも来たんだけどね」


 カバンはその時に持ってきてもらったらしい。二人には後で謝っておかないと。三枝は多分、なにがあったのか察しているだろう。僕の事情は知っているから。神楽坂先輩には、悪いことをした。折角二人きりにしたのに、僕がこんな調子なのだから。


「ねえ、夏目」


 その声色は、やっぱり白雪らしくなくて。いつもハッキリと言いたいことをなんの衒いなく口にするやつなのに、この時はどうしてか、それを言葉にしていいか迷っているみたいだった。

 口を開いて、閉じて、また開いてはなにも言えずに閉じてしまう。


「昔のことを、思い出したんだ」


 やがて先回りするように、僕の方から切り出した。あのまま待っていては埒があかないから。それに、別に隠すようなことでもない。進んで人に話そうとは思えないけど、白雪になら話してもいいと。そう思ったから。


「いや、思い出したってのは、ちょっと違うかな。俗に言うフラッシュバックってやつだよ」


 白雪は何も言わない。それを先を聞く意思があることだと捉え、僕は続きを話す。

 ただ、僕はそれを語る上で、あまり多くの言葉を持っていない。


「中学の試合に行くのに、珍しく休みだった父さんの車に送ってもらった。僕が後部座席に乗っていて、父さんが運転して、母さんが助手席。で、なんの脈絡もなく、唐突に、事故に遭った。その時のことをね」

「······そう」


 口にして話してしまえば、たったそれだけ。たったそれだけの事件で、僕は父も、母も、野球も、全てを失った。


「端的に言えば、トラウマってやつだよ。精神科の先生には、PTSD、心的外傷後ストレス障害だって判断された。お陰でボールはおろか、グローブやバット、スパイクにだって触れない。だから、諦めた。諦めたくもないものを。たった一度の事故。たった一度の不運で。全てを失った」


 こうして話しているだけでも、指先が震えているのがわかる。無理にあの時のことを思い出すのは避けるように言われているけど、彼女に話すのは、どうしても避けられない。

 白雪があの頃の僕と今の僕を知っているのなら。話さないわけにはいかない。


「あれだけ馬鹿みたいに、一心不乱に、それ以外考えずに打ち込んできたものが、それだけで失われるんだよ。そうやって理不尽に何もかもを奪われるんだ。全て無意味になるんだ」


 野球が出来なくなったのは、勿論トラウマだけが原因じゃなくて。今は完治しているとは言え、あの時の僕の怪我は酷いものだった。暫くは車椅子生活を余儀なくされる程だったし。

 でも、怪我は完治して、こうして普通の暮らしも出来ていて。ただ、野球をすることだけがどうしてもダメだ。見る分には構わない。でも、関わろうとすればするほど、僕の心は悲鳴を上げる。


「そんなたったひとつの出来事だけでなにもかもが無くなるんだったら。あの時の喪失感をまた味わう羽目になるかもしれないんなら。最初からなにも頑張らない方がいいに決まってるだろ?」


 だから、諦めた。野球に関することだけじゃない。なにかに打ち込むと言うことを。なにかを必死に頑張ると言うことを。

 僕は結局、怖がっているだけなのかもしれない。そうやって積み上げた大切なものを喪うことに、恐怖しているだけなのかもしれない。

 本当に、子供のわがままみたいだ。


「まあ、君の言う通り、野球に対する未練はタラタラなんだけどさ」

「······夏目は」


 やっぱり言葉が見つからないのか、もしくは言っていいものか判断しかねているのか。白雪は続く言葉を紡げずに俯いてしまう。前髪が顔の前に垂れてきて、彼女の表情は伺えない。

 予想通りの反応だ。こんな話を聞かされたって、どう返していいのか困るだけ。

 話をやめたからか、指先の震えは止まっていた。息を一つ吐き出して、ベッドから出て立ち上がる。


「帰ろう。もうそろそろ最終下校時刻だ」

「待って」


 カバンを取るためにしゃがみ込もうとしたら、白雪に制服の裾を摘まれた。いつだかも同じようなことをされた気がする。確かバザーでフィギュアのお金の礼を言われた時だったか。その仕草はどうにもいじらしくていけない。

 白雪に先ほどまでの逡巡した様子は見られず、いつものようにキッとこちらを見上げていて。ともすればそれは、睨んでいるようにも見えて。


「ならどうしてあなたは、私のお願いを聞いてくれたの?」

「······」


 そんな問いを投げかけてきた。

 彼女からのお願いなんて、ひとつしかない。本気で書いた小説を読ませてくれと、ゴールデンウィーク前に言われた。僕はそれを引き受けて、今もなお頭を悩まして執筆している最中だ。

 でも僕は、この質問に対する答えを持っていない。単なる気紛れだったのかもしれないし、ちゃんとした理由があったのかもしれない。わからないというのが僕の正直な気持ちだ。けれど。


「理由は上手く答えられないけど。でも多分、君にお願いされなかったら、僕はその気にはなっていなかったよ」

「······」

「だから、強いて理由をでっち上げるなら。白雪桜にお願いされたから、としか言いようがない」

「そう······」


 その言葉で納得してくれたのか、僕の制服から手を離して立ち上がる。浮かべているのはいつもの無表情。なにを考え、なにを思っているのか、そこからは読み取れない。


「職員室にいる保健の先生には私から報告しておくから、あなたは先に帰りなさい」

「僕もついて行くよ」

「いいわ。さっさと帰ってさっさと休みなさい。ただでさえ原稿が進んでいないんだから、これ以上遅らせる要因を作るわけにもいかないでしょう」

「······わかった。なら頼む」


 今度こそカバンを取って、二人で保健室を出る。職員室は昇降口の隣に位置しているから、そこまでは取り敢えず一緒だ。

 けれど僕達の間に会話は一つもなくて、保健室からそう離れているわけでもない昇降口へは直ぐにたどり着いた。


「夏目」


 別れの挨拶をして帰ろうと思った矢先、白雪の方から声を掛けられる。

 振り向いた先の彼女は、穏やかな笑みを浮かべていて。浮世離れした美しいその微笑みに、心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥る。


「ありがとう。ああ言ってくれるのは、嬉しかったわ」


 本当に嬉しそうに。まるで宝物を抱きしめるように、白雪は胸の前で両の手を重ねて言ったのだ。

 なんのことかと考えを巡らせるて、先程の小説を書く理由についてなのだと思い至る。

 そしてその言葉の真意を問いただすよりも前に、白雪は職員室へと姿を消した。


「また明日くらい、言わせてくれてもいいじゃないか」


 もう目の前に白雪の姿はないと言うのに、彼女の笑顔は網膜に焼き付いてしまって、暫くは脳裏にこびりついて離れそうになかった。

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