第94話

 究極的に疲れた。野球部で冬場の走り込みをする数十倍は。主に精神面の疲労が大きい。

 そんな清水寺観光が終わってから数時間が経過し、僕達は現在、大阪のホテルまでバスでやって来ていた。部屋は基本的に二人部屋、一部三人部屋となっている。僕は三枝と出雲、班員の二人と同じ部屋だ。

 このホテルはJR大阪と地下で直結しているため、二日目以降の移動が大変楽だ。ただ、大阪梅田の地下と言えば、東京の新宿と並ぶくらいの大迷宮だと聞く。そんな迷宮に明日明後日と挑まなければならないと考えれば、落ち込んでいる気分が浮上してくることなんてない。いや、普通に一階で外に出て地上から向かえばいいだけの話なんだけど。


「夏目、随分疲れてるね」

「ああ、聞いてくれるか出雲……」


 割り当てられたこの部屋に着くなり三枝はどこかへ消えてしまったので、ここには僕と出雲しかいない。夕飯は十九時からだから、まだ時間はあるものの、ちゃんとそれまでに帰ってきてくれるのだろうか。女子も合わせた班ごとの席に座らせられて、全員揃ってからじゃないとご飯食べられないんだけど。その辺りわかってるのかあいつは。


「いや、聞かなくても大体分かる。お前が清水寺で女子三人に振り回されてたのは、俺以外にもほぼ全員が見てたから」

「じゃあ僕の苦労がわかってくれるだろう」

「分かってたまるかリア充爆発しちまえ」


 どうしてそうなるんだよ、と言いかけて呑み込んだ。まあ、普通はそういう反応になるよね。僕だって他の誰かがそんな事になっていたら、同じことを思うに違いない。

 ただし、当人からすると堪ったもんじゃたいけど。


「取り敢えず、着替えたらどうだ? いつまで制服のままでいるつもりだよ」

「そうするかぁ……」


 ベッドに投げ出していた体を起き上がらせ、適当に放り投げていたカバンを弄って着替えのジャージを探す。

 そもそもの荷物が少ないから、ジャージ自体はすぐに見つかった。見つかった、のだけど……。


「夏目? どうした?」

「いや……」


 おかしい。僕はたしかに、これとは別のジャージを持ってきていたはずなのに。どうしてこれがここにあるのか。いや、単に僕が間違えただけなんだろうけど。どうしてその間違いに気づかなかったのか。

 洗濯はちゃんとしてあるし、あの日からはかなりの時間が過ぎた。故に今更気にしてもしょうがないのだけれど。彼女がこれを着ていたという事実は、残念ながら残っている。

 そう、僕が持って来ていたジャージは、一ヶ月ほど前に白雪に貸したものだった。


「や、なんでだよ……」


 本当になんでだよ。あれか、最後に確認しなかったのが悪かったのか。確かに適当に引っ掴んでカバンの中に入れたけど。よりにもよってこれかぁ……。

 しかしカバンの中を覗いても、当たり前のように部屋着はそれしか持って来ていなくて。

 ……うん、着るしかないよね。これしかないんだから。これはあれだ、所謂不可抗力ってやつだ。だってこれの他に持って来てるのって、制服のカッターシャツの替えくらいだし。まさかそれを部屋着にするわけにもいかない。白雪の部屋着にしてもらうならありだけど。彼シャツ、いいよね。萌え度が高い。

 白雪の彼シャツ姿を妄想しながら白雪が着ていたジャージに着替える。字面だけ見れば僕は立派な犯罪者だけど、今行なっているのは単なる着替えだ。それ以上でも以下でもない。

 無事に着替えを終え、再びベッドへダイブする。因みに、この三人部屋はベッドが二つとソファベッドが一つで、早々にどこかへ消えてしまった三枝は問答無用でソファベッドが割り当てられている。この場にいないあいつが悪いのだ。


「そう言えば出雲ってさ」

「なに?」


 寝転んだ状態で、隣のベッドに腰掛けている出雲に首だけを向ける。出雲は持参したらしいライトノベルを読んでいて、僕に声をかけられたことで顔を上げた。


「白雪のこと、どう思ってる?」


 井坂は出雲のことがきな臭いと言っていた。そして白雪は、その事ならもう大丈夫だと豪語していた。白雪の言葉を疑うわけではないけど、探りを入れておくに越したことはない。

 だから取り敢えず、あまりおかしくない質問をしたつもりだった。白雪のクラスでの立場と、僕と白雪の関係を考慮すれば、僕からこの質問が出てくるのも不思議ではない。なんなら聞いて当たり前くらい。だと思っていたのだけど。


「そっか、夏目はやっぱり気づくよな……」


 悲しげに目を伏せた出雲の口には、自嘲気味な笑み。

 ちょっと待って、これ僕が期待したのとちょっと違うあれだ。


「俺さ、実は白雪さんのことが好きなんだよ」


 あ、やっぱり。待って出雲、そんなこと別に聞いてないから。修学旅行での恋バナはお約束とは言っても、それ深夜の消灯後に声を潜めてやる類のやつだから。


「前も、手紙を書いて渡したんだよ。体育祭のちょっと前。丁度、お前達文芸部が部誌出した頃かな。でも白雪さん、全く反応もなくて、俺のことなんか本気で知らなかったみたいでさ」


 あ、あー! あれか! 白雪が僕の目の前で破り捨てたあれか! そ、そっかー出雲からの手紙だったかー。

 マジかぁ……。これ、教えるべきなのかな……。いや教えたところで追い打ちにしかならないか……。

 当時のことを思い出して哀れみの感情に包まれていると、こちらを見据えた出雲から、予想外の言葉が飛び出した。


「なあ夏目。俺、聞いちゃったんだけどさ。お前、白雪さんに罰ゲームで告白するんだろ?」

「罰ゲームのつもりは、もうないけどね」


 しかし、自分で思っていたよりも素早く、その返答が口から出た。僕自身も驚くほどに。

 つまりそれは、僕の心の底からの本心という事だろう。白雪からの問いに答えは出た。だから罰ゲームなんてものに縛られる謂れはもうない。ただ、彼女から罰ゲームをちゃんとやり遂げろと言われたから、形式上そうするだけで。


「お生憎様、僕は自分でもどうかと思うくらい、白雪のことが好きらしいんだよ。人によっては重いとか言われてもおかしくないくらいには」

「そっか……。じゃあ、俺が入り込む隙なんて、最初からなかったんだな……」


 それは、どうだろう。例えば。例えばの話、僕が四月のあの時、三枝にババ抜きで勝っていれば。もしかしたら、今彼女の隣にいるのは、僕じゃない他の誰かだったかもしれない。それは、この出雲だって可能性のあることだ。


「今度ちゃんと、白雪さんに謝ることにするよ」

「謝る?」

「うん。俺、ちょっと卑怯なことしようと思ってたんだ。それも実行する前に、白雪さんに潰されたんだけどさ」


 出雲が一体なにをしようとしていたのかは知らないけど、その顔を見れば、酷く後悔しているのは如実に伝わった。


「まあでも、話しかけるなって言われちゃったから、謝るのすら難しいかもだけど」

「そんなことないと思うぜ? もう一回チャレンジしてみれば、案外ふつうに話してくれるかもだ。白雪はああ見えて、人懐っこいところあるからね」

「白雪さんが? 冗談だろ」


 などとこの後も、白雪について出雲と話していたのだけど。暫く経ってから僕のスマホがラインの着信を知らせた。アプリを立ち上げてみると、今まさしく話題の中心人物からで。


『ご飯食べたら一階に集合』






 バイキング形式の夕飯が終わり、時刻は二十時前。頃合いを見計らって部屋を抜け出し、僕は一人、一階のフロントまで出てきていた。ここのホテルは一階にコンビニとスターバックスがあって、待ち合わせはスタバの中という事になっている。

 特に使用を禁止する旨を伝えられたわけではないけれど、本当に入っていいんだろうか。内心ビクビクしながら店内へ入ると、奥の席に彼女を見つけた。他に客は見当たらない。うちの生徒はおろか、他の宿泊客ですら。

 カウンターで適当にブレンドコーヒーを頼み、それを持ってあちらへ向かう。


「ごめん、待たせた?」

「そうでもないわ。私も今来たところだから」


 そこに座っていた白雪は、優雅な動作でカップを口元へ運び、その中の飲み物を嚥下する。

 またカフェオレかなんかだろうかと思い、テーブルに置かれたカップを見てみるも、予想は外れていた。


「これ、なに?」


 て言うか、白いホイップみたいなのが上から掛かってて全く分からなかった。


「ココアにホワイトモカシロップを追加してもらったのよ」

「また甘そうな……」

「あなたは相変わらず、なんの面白みもないただのコーヒーなのね」

「面白みは求めてないからね」


 僕が求めてるのはカフェインのみだ。


「で、またなんで僕は君から呼び出しを受けたんだ? て言うかここ、使っていいのか?」


 ラインでは時間とこの場所だけしか伝えられていなかったので、白雪が僕を呼び出した理由を全く知らない。まさか、昼間に理世と二人で回っていたことを咎めるようなことはされないだろうし。もしくは、音羽の滝での井坂のアレだろうか。そっちの方が可能性高そう。

 だが真実は僕の予想から大きく外れていて。


「ここを使っていいのは大黒先生に確認とったわ。あなたを呼び出したのは、そうね……昼間は二人きりになれなかったから、とかじゃダメかしら?」


 とても魅力的な笑顔で、そんなことを言うのだ。照れたような素振りは全くなくて、ただ本心からそう思っているかのような笑顔で。

 かのような、ではない。本当に、そう思ってくれているのだろう。それが分かってしまうから、僕の頬は際限なく熱を持ってしまって、その笑顔を直視出来なくなる。


「まあ、ダメじゃない、けど……」

「そう? なら良かったわ」


 必死に絞り出した言葉は、かなり掠れていたけど。白雪にはちゃんと届いたようで、クスクスと揺れる鈴の音のように心地よい笑みが僕の耳を撫でる。

 白雪も、修学旅行という事で少しテンションが上がってるのだろうか。


「それよりも夏目」

「ん?」

「そのジャージの着心地はどうかしら?」

「んぐっ」


 やっぱり気づいてらっしゃいますよね。夕飯の時はなにも突っ込まれなかったから、てっきり気づいてないもんだと思ってたけど、そんなことないですよね。

 ニヤニヤとイタズラな笑みを貼り付けた白雪が、僕の顔を覗き込んでくる。必死に顔を逃そうとするも、白雪の視線は逃がしてくれない。


「まさかそれを持ってくるなんて思わなかったわ。もしかして、洗濯せずにずっと置いてたとかじゃないでしょうね。もしそうだとしたら、私は今すぐあなたをこの世から戸籍ごと消さなければならないんだけど」

「安心してくれ。洗濯なら三回くらいしてるから。一度も着てないのに」

「それはそれでどうなのよ」

「それに、これを持ってきたのは単なるミスだ。確認せず適当に持ってきたらたまたまこれだっただけで、他意はない」

「でも、着替える時想像しちゃったでしょ? 下着もつけずにそれを着てる私のこと」

「……」


 完全に図星だった。いやだってしょうがないじゃん。白雪の言う通り、あの時の白雪は下着も洗濯に出してたからこれを直接肌に当てていたわけで。そんなの想像するなって方が無理なわけで。

 黙り込んでしまった僕を見て、白雪の笑みがより一層深くなる。このままマウント取られっぱなしはあまりよろしくない。僕の精神的に。ただでさえ今日はガッツリ疲弊しているのだから。


「君の方こそ、自分が着ていたものを僕が着てるってのに、よく平気でいられるな。あの日の君がなにをしていたのか、僕は全部知ってるんだぜ?」

「なんのことかしら?」


 ほほう。惚けるつもりとはいい度胸。自分へのダメージも大きいが、そんなこと言っていられない。ここは、ヤマザキ春の蒸し返し祭りといこうじゃないか。春じゃないけど。


「膝枕してる時」

「……っ⁉︎」

「僕の手を握った挙句」

「ま、待って。待ちなさい夏目どうしてあなたが」

「頬にキス」

「それを知ってるのよっ……!」


 先程までの笑みは完全に消え失せ、白雪は目を丸くして驚いている。その頬も、とても赤くなっていて大変可愛らしい。まあ、僕も似たようなものなんだけど。


「実はあの時起きてたとか言ったら?」

「あなたの家にあるコーヒー全部カフェオレにすり替えるわ」

「やることがえげつないな」

「そんなことどうでもいいのよ! お、起きてたならなんで目を開けないの馬鹿じゃないの⁉︎」

「どうどう。落ち着けよ白雪。実行に移したのは君なんだぜ? 僕はなにも悪くない」


 そもそもあんな状況で目を開けろと言われても無理な話でして。

 そんなにバレていたのがショックだったのか、白雪はテーブルに突っ伏して顔を隠してしまった。けれど、真っ赤になった耳はばっちり見えてしまっている。


「もうやだ……なんでバレてるのよ……お嫁にいけない……」

「その時は僕が貰ってやるから安心しろよ」

「そのつもりに決まってるでしょバカ……」


 お、おう……。軽いジョークのつもりで行ったんだけど、そのつもりに決まってるんだ……。


「しかし、文化祭の時なんかマウストゥーマウスだったくせに、今更なにをそんなに」

「あの時とは色々と違うでしょ……」


 まあ、確かに。あの時とは色々と違うことがある。それは例えば、体育祭前のゴタゴタを経験していたり。お互いがお互いの気持ちに気付いてしまっていたり。

 自分の気持ちに気付いたばかりの僕と、妹への歪んだ感情を吹っ切れていない頃の彼女とは、今の状況はあまりにも違いすぎる。


「そ、そんなことよりっ!」


 バッと勢いよく顔を上げた白雪が、少し強めの語調で叫んだ。あんまり大きな声出すなよ。公共の場所なんだから。


「あなた、昼間は随分と他の二人に鼻を伸ばしてたじゃない」

「気のせいだ」

「嘘。翔子が使った柄杓、凄い眺めてたくせに」


 バレテーラ。なんで女の人ってそう言うところの嗅覚鋭いんですかね。


「可愛い女の子が使った後なんだから、男だったら僕じゃなくても気にしちゃうよ」

「私の前で他の女を可愛いだなんていい度胸ね。道頓堀に沈めるわよ」

「君が一番可愛いから安心しろ」

「そ、そう……?」


 自分で言わせといて照れるなよ。こっちまで調子狂うじゃないか。


「でも、だとしても、よ。あなたにはちゃんと、私だけを見ててもらわないと困るんだから。罰ゲーム、ちゃんとやり遂げるためにも、目移りなんてしてたらダメよ」

「分かってるよ」


 その、僕への好意と僕からの好意をを前提とした発言に、冷めたはずの熱が復活する。

 自分で言うには問題ないんだけど、白雪から言われるのはやっぱり照れてしまう。

 それに、言われるまでもない。今更他の女の子に目移りだなんて、出来るわけもない。だって今まさしく目の前にいる女の子に、今までずっと、僕の視線は釘付けにされてきたのだから。

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