after22 最初の一言と、最後の一言
それは、高校一年の三学期の話だった。年が明けてますます寒さが酷くなり、空っぽな自分を少しでも紛らわせようと定期テストで一位を取ってしまった時の話。
高校のテストなんて、所詮は授業の復習と教師による出題傾向を予測すれば、ある程度の点数を取れてしまう。
またつまらぬ点を取ってしまったか、なんて気取りながら、特に用事のない放課後を、特に目的もなく校内で過ごしていたのだ。
「俺らも部活とか入った方がいいのかねぇ」
「この時期に今更か? どこの部活に入っても、結局人間関係になじめず置いてけぼりくらうと思うぜ」
「それ、智樹だけだろ」
教室内で三枝と、毒にも薬にもならないような話を繰り広げる。僕とこの親友は、諦めた側の人間だ。諦めて、過去の栄光を全て捨てて、空っぽな自分を慰めるだけの人生。
三枝はそこまで拗らせていないかもしれないが、少なくとも僕にとっては、そんな高校生活を三年間送るつもりだった。
高校一年生がなにを悟ったつもりで、と大人は言うだろう。けれど、僕達は既にそれだけの絶望を味わって、今を生きている。
諦めたくもないのに諦めるしかない、あの喪失感と絶望感を経験して。
「本当に、今更だよ。なにかを始めようなんて、もう無理だろう」
「まあ、な」
諦めた先にしか見えない景色もある、かもしれない。
かつて目の前の親友が空手を辞めた時、そう言っていたのを思い出す。果たして僕は、野球という唯一の取り柄を捨てた今の僕は、なにかが見えているのだろうか。
答えは否だ。こうして目的もなく、自堕落に過ごしている放課後を見ればそれは一目瞭然。
「男二人で放課後の教室。可愛い女子が一人でもいれば青春っぽいんだろうがなぁ」
「ならナンパでもしてきたらどうだ?」
「馬鹿言うなよ。ナンパなら俺より智樹の方が向いてる」
「それこそ馬鹿な話だね」
フッと鼻で笑い飛ばして席を立つ。コーヒー買ってくると三枝に告げて、一人教室を出た。
校舎の中には生徒は殆どおらず、廊下には夕日が差している。伸びた影は教室の壁を這っていて、そこはかとなく不気味さを演出している。もう一時間もしないうちに、陽も落ちてあたりは暗闇に包まれるだろう。
そうなる前に家に帰りたいが、晩御飯の買い出しもしなければならない。帰ったら帰ったで洗濯物も溜まってるし、一人暮らしだとやることが多くて大変だ。叔母がいた頃はずいぶん助けられていたんだと、こんなところで実感する。
第二校舎の食堂、図書室と通り過ぎて外に出る。そこにある自販機に小銭を投入して、缶コーヒーを購入。
こうしてブラックコーヒーばかり飲むようになったのは、いつ頃からだったろうか。両親が生きていた頃は、まだこんな苦いもの飲めなかったはずだ。その頃の僕には、この世にこんな美味しい飲み物があることを伝えてあげたい。
プルタブを開け、一口喉に通す。
同時に、すぐそこのグラウンドから甲高い金属音が聞こえてきた。野球部が練習しているんだろう。ここからでは音しか聞こえないのは、不幸中の幸いと言うべきか。
もっとも、道具に触れない限りはなんともないのだが。
断続的に聞こえてくる金属音に耳を傾けながら缶を傾けていれば、キィ、と扉の開く音がした。
そちらに振り向いてみれば、そこにはいたのはひとりの女子生徒。
長い黒髪を寒風になびかせ、切れ長の目は視線のぶつかった僕を睨んでいるように見える。新雪のように白い肌と、幼さを残しながらも美しい顔立ち。
恐らく、この蘆屋高校に所属している生徒の殆どが知っているであろう女の子、白雪桜がそこにいた。
「気に食わないわね」
それが僕に向けられた言葉だと理解するのに、数秒の時間を要する。この場には僕と彼女しかいないから、それは当然なのかもしれないけど。しかし、僕には彼女からそのような言葉を投げられる謂れがない。
缶コーヒーを片手に持ったまま固まっていれば、白雪は言葉を続ける。
「私から一位の座を奪ったやつがどんなのか気になってたけど、まさかこんな間抜けな顔したやつなんて思わなかったわ」
透き通った声で発せられるのは、失望の色を滲ませた罵倒。
白雪桜が有名なのは、その類稀なる容姿と勉学における秀才ぶり、そしてマシンガンのごとく発せられる毒舌がゆえだ。
毒林檎が好きな白雪姫、なんてあだ名をどここで聞いたことがある。
なにより、一学期の中間から二学期の期末にかけて四度の定期テストで、一度たりとも首位の座を降りたことがなかったのだ。そう、二学期の期末までは。
先日行われた三学期の中間テストでは、ついに二位へと陥落してしまった。
うちの学校は順位を公表しているわけでもないが、人の噂とは恐ろしいもので、ソースが曖昧なままにその噂だけが広がってしまう。しかし実際、それは本当の話だったのだろう。僕は毎度二位やら三位やらを行ったり来たりしていたのだが、こうして一位になったのは初めてなのだし。
なにより、こうして彼女が僕に絡んできたことこそが示している。
「初対面の人物と会話するときは、はじめましてからだぜ。元学年一位様はそんなことも知らないのか?」
虫の居所が悪かったわけではない。けれど、懐かしい音を聞きながら、不意打ちに初対面の女子から馬鹿にされてしまえば、さすがの僕と言えど温厚な態度を保つことは出来なかった。
そこまで短気になった覚えはなかったのだけれど、なぜだろうか。
「お生憎様、人間には猿とのコミュニケーションが出来ないのよ。同じ霊長類の仲間だって言うのに、悲しい話よね」
「なら僕はさしづめ、人語を解することができる天才猿ってところか。そんな存在と関われるなんて、君は随分と幸運だな」
「まあ、たしかに。あなたはそこら辺にいる猿とは違うみたいだけど」
空のように澄み切った蒼の瞳が、僕を射抜く。まるでこちらの胸の奥底まで見透かさんとせんばかりに。
それが、癪に触った。
どうしてだろう。今日はどうにも、冷静じゃない自分がいる。
平々凡々と過ごしてきた高校生活。空っぽな自分を慰めるためだけに生きているこの時間。それはある種心地のいいものではあった。白雪桜がそれを壊そうとしていると、本能で感じ取ったのだろうか。
手元の缶を傾けて口内を潤せば、出てくるのは皮肉ばかり。
「白雪姫様にそう言ってもらえるなんて、猿も捨てたもんじゃないな。で、そんなたかが猿ごときに一位を奪われたお姫様は、僕に何の用があるんだよ」
「宣戦布告に決まってるでしょ」
「それはまた、随分といい趣味をしてらっしゃる。残念ながら、君のご期待には添えないよ。今回はただの気まぐれだからね」
「たまたま一位になれた、とは言わないのね」
言ってから失態に気づいた。ここは適当にはぐらかしておけば良かったのに、なにを僕はムキになっているんだ。
残っていた缶の中身を一気に飲み干し、加熱していた頭を冷やす。冷静になれば自然と思考に余裕が生まれ、この場から逃げることを考えはじめた。
「用はそれだけか? なら僕はそろそろ帰らせてもらうよ。いつまでも毒林檎の餌食にはなりたくない。白雪姫ってんなら自分で食べてくれ」
「逃げるの?」
「勝ち目のない相手に対しては現実的な戦略だろう」
「あなたのそれは、怯えや恐れから来るものでしょう」
キンッ、と。乾いた金属音が耳に届いた。
白雪の今の言葉は、ただの売り言葉に買い言葉。その延長線上にしかないものだ。
けれど、今の僕を糾弾されているようで。かつての僕と、比べられているような気がして。
それ以上言葉は返さず、白雪の隣を通り過ぎて校舎の中へ戻る。扉を閉める手は、少し乱暴になってしまっていた。
これが、僕たちにとって二度目の始まり。
誰がどう見ても険悪で、互いの名前すら呼び合うこともなく、ただただ皮肉と罵倒の応酬を感情のままに行なった、いわゆる若さゆえの過ちというやつ。
思い返してみれば、本当にどうしてあの時の僕はこんなにも機嫌が悪かったのだろう。
けれど、立派なターニングポイントであったには違いない。
この日からほとんど毎日、この自販機前で彼女に絡まれて。それが図書室、教室、部室、果ては僕の家や外出先までに広がっていって、それに連れて会話の中身も、その質を変化させていった。
そのどれもが、馬鹿馬鹿しくも愛おしい思い出だ。
「智樹」
不意に僕の名前を呼んだ声は、あの頃と比べるべくもなく柔らかなもの。キィ、と錆びた音を立てて開かれた図書室前の扉からは、ブレザーの胸ポケットに卒業生の証である花を添えた桜が。
「こんなところにいたのね」
「もしかして、みんな探してた?」
「いえ、それはないから安心しなさい」
「なにも安心できないんだけど」
「あなたがいなくても、みんな楽しそうに別れを惜しんでたわ」
「僕を傷つけるためだけの情報提供はやめてくれ」
小さく笑みを漏らしながら、桜は自販機でいつものカフェオレを購入した。
この場所でこうして、二人それぞれいつもの飲み物を飲んで言葉を交わせるのも、今日で最後となる。そう思うと、不思議とこみ上げて来る寂しさ。
これからは今までよりも、彼女と過ごす時間が増えるというのに、それは何故なのか。分かりきった問いだ。
「で? あなたはこんな日にこんなところで、なにをしてたのかしら」
「いや、特に何かしてたってわけでもないんだけどね。ちょっと、昔のことを思い出してたんだ」
「昔?」
「うん、君に初めて声をかけられた時のこと」
ああ、あの時の。懐かしそうに目を細めて言った桜の顔には、控えめながらも笑みが浮かんでいる。
本当、信じられないくらいに変わった。僕も、この子も。
こんな笑顔を隣で見れるだなんて、あの日の僕に言ったところで信じてはくれないだろう。
「まだ二年しか経ってないのに、もっと昔のことのように思うわね」
「ごもっともだ。あの頃の、触れるもの皆毒に犯す白雪姫様が、まさかこんな丸くなるなんてね」
卒業式の直後ゆえか、周りには誰もいない。みながみな、めいめいに別れを惜しんで、最後の時間を過ごしている。桜の花はまだ咲いていないけれど、それでも校内には、そこはかとない哀愁のようなものが漂っていた。
「それで、今の君から見て、今の僕はどうだ? 気に食わない?」
「わざわざ聞くの?」
「気になるからね」
そうね、と顎に手を当て、少し考える間を作る。コーヒーの苦味を味わいながらしばし待てば、桜色の小さな唇が開かれた。
「やっぱり、気に食わないわ」
「その心は?」
「偉そうに屁理屈やら皮肉やら返して来るのはあの頃と変わらないし、すぐそこら辺の女子に手を出すし、私よりも色々出来るし、そのくせ隙を見ては怠けようとするし、負けず嫌いで頑固だし。もう本当、あの頃よりも気に食わないわね」
矢継ぎ早に繰り出されるのは、この二年で彼女が知った僕の一面。こうして聞いてみると、なんだかんだで否定しきれないのだから悲しい。
「でも」
一呼吸置いた桜の表情が、華やぐ。控えめだった笑みが顔全体に広がって、珍しくも満面の笑顔を見せてくれる。
胸が高鳴った。久しく感じていなかった、あの高揚感。まるで彼女への気持ちを自覚した頃に立ち戻ったかのような、我ながら初々しすぎる感情。
「それでも、それ以上に。私はあなたのことが好きなのよ」
ああ、人って、同じ相手に二度も恋するんだな。
こんな綺麗な桜の花が咲いたんだ。これで少しは、僕たちの卒業も色づいただろう。
白雪姫は毒林檎がお好きな模様 宮下龍美 @railgun-0329
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