第2章 救済と克服と自覚

第18話

 サラサラと、静かな部室にペンを走らせる音が聞こえる。開放された窓からは、いつも聞こえて来る吹奏楽部の演奏や運動部の掛け声などは聞こえてこない。風でカーテンが靡く音が精々と言ったところか。しかしその音は集中を妨げるようなものではなく、どころか心地のいいBGMとなっている。

 そんな部室で、新たなメンバーを迎えた我々文芸部はと言うと。一人は数学の問題集と睨めっこし、一人は英単語を覚えるためにひたせらノートに書き写し、一人は解き終わった物理の問題の答え合せをしている。そして最後の一人である僕は、パソコンの前で頭を抱えていた。

 気分転換にと思い、隣に座っている女子の方へと視線をやると睨み返された後、不機嫌そうな声が発せられた。


「ちょっと夏目」

「ん、どうした白雪?」


 解いていた数学の問題集がキリのいい所まで来たのか、昨日から我が文芸部に加わった新入部員、白雪桜がペンを机に置いて話しかけてきた。英単語を書き写していた三枝や、答え合せをしていた神楽坂先輩も顔を上げて僕たちに視線をよこす。


「あなた、勉強しなさいよ。その為に集まってるんでしょ?」

「残念ながら、僕は小説の執筆に忙しいんだ。終盤まで来たのはいいんだけど、そこから先が中々思い浮かばなくてね」

「テスト一週間前なのよ? 悲惨な点数取っても知らないわよ」

「安心してくれ。今度は君から1位の座を奪うなんてことはしないから」


 今の言葉にイラッとしたのか、白雪は片眉をピクリと上げて笑顔を浮かべる。目は笑ってないけど。怖いって。


「あー、白雪さん。智樹は別にいいんだよ。こいつ、テスト勉強とかしなくても毎回全教科90点以上取ってくるから」

「は?」


 三枝が助け舟を出してくれたが、白雪はその言葉を信じていないのか、訝しげに僕を見る。普段の授業をしっかり聞いていれば点数はそれなりに取れるし、特別高得点を、それこそ100点を狙っていないのだとしたら、テスト勉強なんて不要だろう。

 無意味だとは思わないが、そうやって頑張ることを僕自身は拒否している。それだけだ。


「そういう事だから。分かりきった問題を解くよりも、こうして執筆に時間を割いた方が効率的だろ?」

「今度のテストは本気出せって、私言ったわよね?」

「ご期待に添えないよう頑張る、と返したはずだぜ?」


 あの白雪桜が1位の座から引きずり降ろされた。当時はその話題で学年内はかなり盛り上がっていたし、果たしてそいつは誰なのかとも話題になっていた。白雪がどこから話を嗅ぎつけて僕を特定したのから知らないが、あんまり周りから注目を集めるようなこともしたくはない。

 このまま白雪には今回も1位を取ってもらおうと思っていたのだが、なんと彼女の側に予想外の援護射撃が。


「うーん。でも、一応勉強するって言うことで部室を使わせてもらってるし、夏目君も勉強した方がいいんじゃないかな?」


 人差し指を顎に当てながら言うのは神楽坂先輩だ。確かに先輩の言う通り、テスト一週間前で部活動全面禁止だと言うのに部室を使わせて貰っているのは、勉強する場所として提供してもらっているからに他ならない。

 だが僕の場合、前提が既に崩れているのだ。テスト勉強と言うのは、即ちテストでいい点数を取るためにするものであり、僕はそれをしなくても点数は取れる。だからこそ勉強はしていないし、しなくてもいい。と言うか、そもそもの問題としてあんまりやる気がない。


「あ、じゃあこうしよっか! 桜ちゃんと夏目君でテストの順位を勝負して、負けた方が勝った方の言うことを聞かなきゃダメ! これなら夏目君もやる気が出るでしょ?」

「あら、それでいいじゃない。私は夏目にひと泡ふかせる事が出来て、しかも下僕に出来る。一石二鳥ね」

「下僕って······」


 言うことを聞かなければならない=下僕はちょっと短絡的すぎやしないだろうか。その方程式が成り立つなら、僕は現在進行形で神楽坂先輩の罰ゲームに従わなければならない身なので、先輩の下僕と言うことになってしう。

 なによりいい笑顔でそんな事を言ってのけるのが一番怖い。


「て言うか、それって僕に拒否権ありますよね?」

「ないよ?」

「えぇ······」


 神楽坂先輩に心底不思議な顔でそう言われてしまえば、反論する気なんて微塵も湧いてこない。寧ろ呆れるばかりだ。親友に助けを求めようと視線を投げるも、やつはニヤニヤと笑っているだけ。まあ、基本的に三枝は神楽坂先輩の味方だし、そうなるのは当然だろう。


「あら、もしかして夏目。負けるのが怖いのかしら?」

「下手な挑発をどうもありがとう。悪いけどその手には乗らないぜ」

「なんだ智樹、やらないのか?」

「代わりに君が勝負したらどうだい、三枝。白雪姫の下僕になるチャンスだぜ?」

「俺にはそれが魅力的に聞こえないよ」


 それもそうか。三枝は神楽坂先輩の下僕になる方がいいだろうし。親友が好きな人の下僕になりたいとかいきなり言い出したら、流石の僕も止めるけど。僕じゃなくても止めると思うけど。

 僕が渋っているのは、なにも白雪の下僕になりたくないからではない。いや、勿論なりたくはないけど、一番心配してるのはそこではなくて。


「なあ白雪。もし君が負けたらどうするんだ?」

「勿論あなたの下僕になってあげるわよ。なんだって命令していいのよ? まあ、私が負けるわけないんだけど」


 ふふん、と得意げの言ってみせるのは結構だし可愛らしくはあるのだが、どうもこの様子だと自分が負けると言うのを想像していないっぽい。僕と接点が出来た原因を忘れているのだろうか。


「はぁ······。分かったよ。そこまで言うなら勝負してやる。どうも、拒否権はないみたいだしね」

「分かればいいのよ。ふふっ、どんな命令を下してやろうかしら。今から楽しみで仕方ないわ」


 やっぱり、自分が負けると言うのを微塵も考えていないらしい。こっちから命令を考えると言うのも面倒だし、これはわざと負けて潔く白雪の下僕になろうか。いやだから下僕じゃないって。

 なんて風に考えていると、最終下校時刻のチャイムが鳴った。いつの間にか18時になっていたようだ。つまり、放課後が始まってからの二時間、一文字も進まなかったことになる? うっそだぁ······。体感的には3000文字くらい書いたつもりだったのに。どれだけパソコンの画面を見ても、失った時間でなにも書かなかったと言う事実が覆るはずもなく。やはり一行どころか一文字も進んでいない。ゴールデンウィーク中はあんなに進んだのになんで?

 やっぱり勝負は適当に流して、執筆に集中した方がいいかもしれない。


「そんじゃ、そろそろ帰るかぁ。智樹、ラーメン食って帰ろうぜ」

「あ、ごめん三枝君。夏目君ちょっと借りていいかな?」


 体のコリをほぐすように伸びをする三枝だが、彼の言葉に神楽坂先輩が待ったをかけた。僕もラーメンは食べたかったのだが、はて、先輩は一体何の用なのか。


「大丈夫っすよ。智樹がダメなら白雪さん、一緒にラーメン食いに行かね?」

「行くわけないでしょバカじゃないの。コンクリート詰めてマリアナ海溝に沈めるわよ」

「おー怖い怖い。んじゃな智樹。ラーメンはまた明日ってことで」


 相変わらずケラケラと軽薄そうに笑いながら、三枝は一足先に帰って行った。残った白雪は僕と神楽坂先輩を交互に見る。先輩はニッコリと笑っていて、正直何を考えているのかは分からない。

 やがて無表情のままに僕たちから視線を外した白雪は、さっさと帰り支度をしてカバンを肩に掛けた。


「夏目、紅葉さんに変なことしたら社会的に殺すから」

「するわけないだろ」

「わたしがするかもね〜」

「それもダメですっ!」


 白雪にしては珍しく、声を荒げて必死に止める。差し詰め、大切な先輩が僕みたいなやつを相手にするのが許せないのだろう。随分とまあ、神楽坂先輩に懐いているようで。文芸部員同士仲が良いのは大変よろしいことではあるけど。


「冗談だよ、冗談」

「はぁ······。それじゃあ、お先に失礼します」

「うん、バイバイ桜ちゃんっ」

「また明日な」


 この様子を見ていると、懐いたのは白雪の方ではなく神楽坂先輩の方か。あの白雪姫が誰かに懐くと言うのも、あまり想像できないし。

 さて、白雪も帰宅して神楽坂先輩と二人きりになったわけだが、先輩から話を聞く前に、僕から尋ねなければならないことが一つ。


「さっきのあれ、なんですか?」

「テストのこと?」

「先輩には悪いですけど、あんまり乗り気じゃないんで適当に負けますよ」

「うん、それでもいいよ」


 見ているものに癒しを与えるような、ニッコリとした笑顔で、先輩は臆面も無くそう言った。まあ、そうだろうとは思ったけど。この人の狙いは大体予想がついている。


「正直、どっちが勝ってもわたしはいいんだけどね。夏目君が勝負に乗った時点で、わたしの目的は半ば達せられてるみたいなものだし」

「修学旅行での罰ゲームに向けてお膳立て、ってところですか?」

「ふふっ、やっぱり分かっちゃう?」


 この人の笑顔を見ていると、なんだか気勢が削がれる。無茶振りをされても責めようとは思わないし、先輩に言われれば、その通りについて行ってしまうような。不思議なカリスマの持ち主だ。

 流石は良いところのお嬢様、と言うわけか。まあ、先輩の家がなにをしているのかは知らないけれど。


「それで、先輩からのお話はなんです? 小説の進捗なら、まあ可もなく不可もなくってとこですけど」

「それも気になるけど、そうじゃなくて。今日はお話と言うよりはお願い、かな?」

「お願い?」


 神楽坂先輩からお願いを受けるなんてのは何も特別なことではない。部活の関係で色々と手伝いなどをお願いされたりする。だが、こうして二人きりになって畏まったように言われてしまえば、自然と身構えるのは当然と言えるだろう。

 しかし、こう言う役回りは本来親友に譲りたいものだ。それで二人の仲が急接近、なんてベタな展開を期待しているわけでもないけど。三枝の話を聞く辺り、最近はいい感じらしいし。


「まあ、話してみてくださいよ。先輩のお願いなら、断る理由なんてありませんし」

「う、うん。その、そんなに難しいことじゃないんだけどね······?」


 なんだか頬を赤くしている神楽坂先輩。胸の前で指をもじもじとさせていて、大変庇護欲を駆られる。どこかで見たような様子だなぁとここ最近の記憶を回想し、それがバザーの打ち上げでのことを聞いた時と同じなのに気づいたのは、先輩から衝撃的な一言を放たれたのと同時だった。


「わたし、三枝君のことが好き、かもしれないの」


 やったな親友。なんて思うよりも前に、ひとまず僕には脳内整理が必要だった。

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