第78話

 なんかもう色々と大変だった土曜日が過ぎ去り、日曜日は久し振りに野球部へと顔を出して前日の諸々を解消して明けた翌週。

 今週末、金曜日からついに体育大会だ。運営委員の仕事も残るはテントや入退場門の設営、それから本番当日のみとなっている。だから今日から水曜日までの三日間、運営委員はお休みだ。会長達はまだ細かい調整やらなにやらで仕事が残っているらしいけど、まあ、休ませてもらえると言うのなら休ませてもらおう。


「コーヒー、コーヒー、と······」


 登校してすぐに自販機へ向かうのは、僕の生活の中でのルーチンワークの一種。ここでコーヒーを飲んでおかないと、一日の授業を乗り切れないから。

 小銭を自販機に投入し、おじさんの顔が印刷されたいつもの缶コーヒーを購入。プルタブを開けるカシュッ、と言う音は耳に心地よい感触を残す。


「ふぅ······」


 口の中に広がる苦味を味わいながら、土曜日のことを思い返してしまう。

 あの日あの後、目が覚めた白雪は本当になんでもないような顔をして、雨宿りのお礼と言って晩御飯を作ってくれた。一ヶ月ぶりに食べる彼女の料理は相変わらずの美味だったけど。

 冷静にあの日のことを思い返してみると、頭から火が噴き出そうだ。いきなり白雪がやって来たと思ったら風呂を貸す羽目になり、ジャージも着られ、ほんのわずかとは言え、一糸まとわぬ姿の彼女が見えてしまいそうになり、挙句膝枕で頬にキスされる。


「なにやってんだろうな、僕ら······」


 本当に。なにをやってるんだか。付き合ってもない男女が二人、恋人みたいな真似をして。ああ言う時間を、蜜月の、なんて言うんだろうか。いや、この言葉は確か新婚したての時期を指すのだっけ。

 けれど、蜜のように甘い一時と言う意味では、なにも間違っていないように感じる。


「そこ邪魔だから、買ったんなら早く退いてくれる?」

「······」


 抑揚のない平坦な声。聞こえてきた背後に振り返れば、いつもの無表情を浮かべた白雪が。その髪には、ここ最近毎日付けている髪飾りが当たり前のように存在している。

 土曜日のことで勘違いしそうになるけど、この声音とこの表情が彼女のデフォルトだ。


「おはよう夏目。今日は後ろから声を掛けても驚かないのね」

「おはよう白雪。もういい加減慣れただけだよ。君、一日の最初に話しかけてくる時は絶対に不意打ちだからね」


 呆れたように肩を竦めると、白雪からクスリと微笑みが漏れた。最近の白雪は、よく笑うようになった気がする。


「あら残念。日頃の楽しみが減ってしまったわ」

「勘弁してくれよ。君はあれか、好きな子に意地悪したくなる小学生男子か」

「似たようなものかしらね」

「それでいいのか······」


 白雪と入れ替わるように、自販機の前から一歩横にズレる。なるべく自分の顔を見られないように。まさか肯定の言葉が返ってくるなんて思ってなかったから。

 あまり今の会話は深掘りしないようにしよう。藪をつついてドラゴンとか出てきそうだし。


「そう言えば白雪」

「なに?」

「君、体育大会本番はどの競技に出るんだ?」

「借り物競走、らしいわよ」

「らしいって、君な······」

「翔子に適当に決めてもらったんだから、仕方ないじゃない」


 カフェオレを購入してプルタブを開けながら、心底他人事のように言う。

 まあでも、妥当なところだろう。白雪は運動苦手らしいし、借り物競走なら例えそうだとしても特に問題はないだろう。生徒会の人たちがお題を用意してたから、変なやつが入ってるとも思えないし。


「あなたは?」

「僕はふつうにクラス対抗リレーだよ」

「夏目って足速いの?」

「五十メートルなら六秒ちょっとだったと思うけど」

「結構速いわね······」


 嘘である。本当は6.5秒だけど、ちょっと見栄はってしまった。まあ、大体高校二年生男子の平均くらいではなかろうか。速くもなく、遅くもなく。


「僕より速いやつならうちのクラスにも結構いるよ。確か、三枝のやつもそれなりに足は速かったと思うぜ」

「あいつ、運動出来るの?」

「中学の時は空手やってたよ」

「それ足の速さ関係ないじゃない」


 呆れたように言って、缶を煽った。どうでも良いけど、女子がなにかを嚥下する時の喉元の動きって、どうしてこうも色っぽく見えてしまうんだろうか。不思議だ。断じて僕が変な性癖を拗らせているとかではない。

 カフェオレを飲み干したのか、白雪は缶を振って中身が空なのを確認し、カフェオレをもう一つ購入した。まだ飲むのか······。


「私も、もう少し運動出来るようになりたいんだけど」

「別にその必要はないと思うけどね」

「クロックアップとかラディカルグッドスピードとか使えたらリレーでも大活躍なのに」

「なにを言ってるのかは分からないけど、それ絶対運動関係ないだろ」


 どうやら新しく購入したカフェオレはここで飲まないのか、白雪はそれをカバンの中にしまう。僕も残ってるコーヒーを飲み干して缶を捨て、二人揃って昇降口へと向かった。


「一度でいいから、小梅みたいに走ってみたいのよ」

「小梅ちゃん、そんなに凄いのか?」

「ええ。それはもう、この世に存在するありとあらゆる生物の中で一番と言っても過言ではないわ」

「間違いなく過言だろ」


 どうやら、あんなことがあったからと言って白雪のシスコンが治ったわけではないらしい。どころか悪化してるのではないだろうか。


「勉強しか出来なくて可愛げのない私と違って、小梅は可愛くて運動も勉強もできる。もはや最強よね。私と違って」

「その自虐ネタに僕はどう返したらいいんだよ」


 理世もそうだったけど、どうして自虐ネタに昇華するまでがこんなに早いのか。僕が困るからやめて欲しい。


「そう言えば」

「ん?」


 下駄箱で上履きに履き替えていると、白雪が思い出したように口を開いた。そちらを見てみると、白雪は下駄箱から上履きと一緒に封筒も取り出している。

 あれは、あれか。所謂ラブレターとか言うやつか。そう言えば、白雪ってめちゃくちゃモテるんだよな。前に一度僕の前でも告白する猛者がいたし。あいつとあのストーカー野郎はその後どうなったんだろう。

 しかし白雪はそのラブレターを一瞥もせず、持っている右手でクシャクシャに握りつぶしてしまった。


「いや君、それ、いいのか······?」

「なにが?」

「その手紙。ラブレターとか言うやつだろう? もしくは校舎裏に呼び出しとか、そんなのじゃないのかよ」

「正々堂々真正面から直接言う度胸のないやつの気持ちなんて受け取るに値しないわよ。手紙じゃないと伝えられないってことは、つまりその程度の気持ちってことでしょ。わざわざ読む必要なんてないわ」

「そ、そっか······」


 手紙で告白するのだけはやめよう。うん。

 それよりも、と仕切り直した白雪は、手近なゴミ箱にその手紙を捨てた。どこの誰かは知らないけど可哀想に。


「体育大会当日、あなたお昼ご飯は用意しなくていいわよ」

「それまたどうして。新手のイジメか?」

「違うわよ。お母さんが夏目の分も作るからって張り切ってるの」

「楓さん、来るんだ」

「ええ。高校生にもなって親が体育大会来るなんて、ちょっとどころじゃなく恥ずかしいんだけど」


 白雪の場合、なまじ小梅ちゃんのような妹がいるから、他の生徒とはまた違った恥ずかしさを覚えるのだろう。もしくは、どうしようもない負の感情すら抱いていたかもしれない。

 けれど今の白雪はそんなことはないらしく。言葉とは裏腹に、表情は至極穏やかなものだ。まあ、よく見ないと分からないくらいには無表情に近いのだけど。


「そう言うことなら、当日はありがたくご相伴に預かろうかな」

「運動会で親と一緒に昼ごはんなんて、小学生までだと思ってたわ」

「去年も親と昼ごはん食べてるやつらは結構いたぜ?」

「別々で食べるよりかは家計的にも楽だしねー」

「そうそう。節約は大事······って」


 明らかに白雪とは違う声が混ざったと思ったら、いつの間にか背後に理世が立っていた。ふつうにビックリしたんだけど。なに、最近の女子は気配を絶つの必須スキルなの?


「おはよう、智樹くん、白雪さん」

「おはよう理世。いつからそこにいたんだよ」

「白雪さんが智樹くんに体育大会当日のお昼誘ってるあたりからかな?」

「もしかしてストーカーかしら」

「白雪さんには言われたくないかなー。中学の時、智樹くんのストーカーしてたんでしょ?」

「あれはストーカーじゃないわよ!」


 声を荒げて訂正する白雪だけど、それよりも気になる点が。


「なんで理世が白雪の中学時代知ってるんだ?」

「あー、それならねー」


 理世がカバンからおもむろに取り出したのは、僕たちの部誌である『雪化粧』だ。確か、神楽坂先輩が土曜のうちに学校に置いて来ると張り切っていたけど、まさかもう手に取って読んでる人がいるとは。


「これ、最後のやつ。白雪さんの実体験でしょ?」

「······なんのことかしら」

「嘘つくの下手なんだね」


 分かりやすく視線を逸らせば、そりゃ白状してるのと同じだろう。理世はニマーっと満面の笑みを浮かべて、なおも白雪を詰る。


「いやー、まさか白雪さんと智樹くんの馴れ初めをこんな形で知れるなんて、なんだか得した気分だよ」

「馴れ初めにもなってないと思うぜ、それ。なにせ当時の僕は白雪の存在なんて知らなかったんだし」

「因みに、綾子ちゃんと修二くんもこれ持って帰ってたよ」

「······チビにまで知られるのはちょっと癪ね」

「いや、小泉も樋山も殆ど知ってるみたいなもんだと思うけど」


 小泉は中学時代の白雪を見ているわけだし。樋山も、小泉から話くらいは聞いてるだろうし。

 しかし、改めてその部誌が色んな人の手に渡っていることを知らされると、妙なむず痒さを覚えてしまう。以前はそんなことなかったのだけど、今回は白雪が書いた小説と、その続きを僕が書かなければならないと言う事実があるからだろうか。


「それで、これの続きって書くんだよね?」

「あー、一応僕が書くことになってるけど」

「智樹くんがってことは、高校に入ってからのお話だ」

「まあ、そうなるわね。そこから先は夏目のお手並み拝見ってわけよ」

「へー、楽しみだねっ」

「無駄にハードル上げないでくれ」


 女子二人からの微笑みが今は苦しい。どうして僕を詰る時だけ、二人は意気投合するのか。僕抜きでも仲良くやって欲しいものだ。

 いや、逆か。僕がいない方が本来は仲良くやれてる可能性もあったのか······。うーん、改めて考えると、僕の立ち位置ってかなり複雑だな。


「そうだ理世。今日も野球部の方、顔出させてもらっていいかな?」

「全然大丈夫だよ。でも文芸部は?」

「どうせ当分やることないわよ。私も、他の二人連れて観戦にでもいこうかしらね」

「じゃあ後で新井くんに伝えとくね」


 二年生の教室のある四階に辿り着いたところで、理世はまた放課後にねー、と手を振って自分の教室に向かった。


「水曜までは野球部に行くの?」

「そのつもりだよ。後で神楽坂先輩にはライン入れておくけど」

「ふーん」

「······なに、どうかした?」


 なにやら胡乱な目で僕を見る白雪。なにか機嫌を損ねるようなことでも言っただろうか。全く自覚ないんだけど。

 やがて僕から視線を外した白雪は、歩くスピードを速めて先に教室へと入って行く。


「なんでもないわ。精々頑張りなさい」

「ちょ、待てよ白雪」


 一体なんだと言うのか。こう言うのを、乙女心が分からない、とか言うのかね。

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