第38話 しょうがないとは言え、会いたくなかったわね

「ご、ごめん……。もう一度言ってもらえる?」


 私が申し訳なさそうに尋ねると、アイがすうっ! と胸いっぱい息を吸い込んだ。……そんなに長い息、必要になる?


「あのね! シャイニーキュアミルキィハッピーミューズフォーチューンブロッサムマジカルアクアフローラサニーリーチェショコラ!」


 えっと、気のせいかしら……順番変わってない? というよりさっきよりちょっと伸びてるわよね? 何かしらこの呪文。聖女だけ使える魔法とかなの?


 試しに私はそっとアイの肩に触れてみたけれど、うんともすんとも反応はない。新しいスキルが宿ったわけでは、なさそうね。


「えっと……全部覚えられないから、もうちょっとだけ短くしてくれないかしら? できればこう、単語一つぐらいにしてもらえると嬉しいわ」

「うーん……じゃあ、ショコラ?」

「うんうん、とっても素敵な名前ね! しばらくはそれで行きましょう!」


 よかった。ちゃんと短い名前になってくれた! それに意味を知ってか知らずか、“ショコラ”なんて、とってもおしゃれな名前じゃない。黒猫ちゃんにぴったりだわ。


 ……って危ない危ない、まだ飼い主を探してみないといけないというのに、気付けば私もすっかり黒猫を飼う気になってるわ。


「アイさまっ! 王妃陛下!」


 遠くから聞こえるのは、双子騎士のオリバーとジェームズだ。回り道を使って合流してきたらしい。私が二人に向かって「ここよ」と手を振ったその時だった。


「……エデリーン? もしかして、エデリーンなのか?」

「えっ?」


 気にかけていなかった方向から男性の声が私を呼ぶ。

 今は王妃さまやエデリーンさまと呼ばれることがほとんどで、私をエデリーンと呼び捨てにするのはユーリさまだけ。だから一瞬ユーリさまかと思って振り向いたら、そこには全然違う人が立っていた。


 さらさらの金髪に、少し濃い目の青い瞳。いかにも貴族ぜんとした、男性にしては細い立ち姿に甘い顔立ち。


「やあ、久しいね、エデリーン」

「マクシミリアンさま……」


 そこに立っていたのは、忘れたくても忘れられない、かつての婚約者マクシミリアン・デイル伯爵だった。


 最後に会ったのは、三年前かしら? その時と変わらずの美男っぷりを発揮しながら、マクシミリアンさまが微笑む。


「ずっと君がどうしているのか気になっていたんだ。もちろん、君がこの国の王妃に収まったのは知っていたけれど……こうして元気な姿を見れてよかった」


 私は軽く微笑んで、サッと鼻血を拭って手で髪やドレスを撫でた。今さらながら、先ほど生垣をくぐってボロボロになったのを思い出したのよ。


 ああ、できれば違う時に会いたかった。元婚約者と対峙するなら、女性としてもっと美しく着飾った姿を見せたいじゃない?


 そこへ、双子騎士のオリバーとジェームズが駆け寄ってくる。ここぞとばかりに、私は彼らの後ろに引っ込んだ。警戒をあらわにするふたりに、マクシミリアンさまが「おっと」と、安全性をアピールするように両手の平を見せてみせる。


「すまない。他意はないんだ、ただ君を見つけて、懐かしくなって」

「確かに懐かしい……ですわね」


 私はそっけなく言った。


――彼、マクシミリアンさまとは、私が十二歳から十七歳までの実に五年間、婚約者として過ごしていた。


 恋もよくわからない幼いうちの婚約で、互いに恋愛感情はなかったように思う。

 そもそもが家同士の釣り合いを考えて結ばれた婚約だったもの。成長して、マクシミリアンさまはずいぶんとお顔がいいのねと思ったけれど、やっぱりそれ以上の感情はなかった。それより、彼は他の乱暴で浮ついた若い令息と違って落ち着いていたし、誠実だと、思っていた。


 そこに燃えるような愛情はなくても、彼と穏やかで優しい家族を築いていけたら……そう思っていた矢先だったのよ。


 『エデリーン、心から愛する人ができた。婚約解消してくれないか』


 と彼に言われたのは。


 その時の衝撃と言ったら、人生で初めて寝込んだものよ。そこに愛はなくとも、五年間の間に築き上げた情は確かにあったんだもの。


 もちろん、お父さまがこれでもかというくらい慰謝料をふんだくったみたいだけれど、それでも私の傷は癒えなかった。彼のことを締め出し、社交界のことを締め出し、ひたすらに家に閉じこもって絵を描いていたものだわ。


 ……あの頃描いた絵を見返すと本当に狂気としか言いようがなくて、できれば今すぐ燃やしてしまいたいわね。妹たちが「これは将来高く売れる!」って言ってすべて持って行ってしまったけれど。


 三年経ってもう彼のことを思い出すことはほとんどなくなったとは言え、やはり楽しい記憶ではない。

 昔のことを思い出していると、マクシミリアンさまが口を開いた。


「もしかして彼女が、噂の新しい聖女かい?」


 彼の目は、アイに向けられている。私はさっと、その視線から守るようにアイを抱きしめた。


「ママ、このおじちゃんだあれ?」


 だらーんと脱力した黒猫を縦に抱えたまま、アイが無邪気に聞いた。


 おじちゃん、という言葉にマクシミリアンさまが目を丸くする。

 そうよね、アイにとっては二十歳をすぎればみんなおじちゃん。二十二歳のマクシミリアンさまも当然おじちゃんだものね。本当はちゃんとした呼び名を教えるべきなのだけれど……アイ、今だけはもっと言ってやって!


 私は心の中で戦闘態勢を取りながら、表面上は涼しい顔で言った。


「アイ、この方はマクシミリアンさまよ。ママの……昔の知り合いなの」

「初めまして、聖女さま」


 マクシミリアンさまがアイに優雅に一礼して見せる。


「まくしゅ……まくしゅみにゃん……」


 アイがむにゃむにゃと発音する。ふふっ。どうやら五歳には少し発音が難しかったみたい。思わぬかわいい発音に、私はうっかり和んでしまった。それはマクシミリアンさまも一緒だったみたいで、彼も微笑んでいる。


「噂には聞いていたが、本当に可愛らしい聖女さまのようだ。これは将来が楽しみだね。……そして、今は君が育てているのだとか?」


 聞かれて私は答えた。


「ええ。アイは私とユーリさまの子なんです。……血は繋がっていないけれど、本当の子だと思っていますわ」

「そうか……。君は昔から、よく妹君たちの面倒を見ていたものな。きっと、いい母親になるのだろう」

「ありがとうございます。……そしてごめんあそばせ、そろそろ戻りませんと。サクラ陛下を待たせているので」


 私はにっこりと社交辞令用の笑みを浮かべながら言った。


「引き留めて悪かった。また今度、ゆっくりお茶でも?」

「……そうですわね、その時はぜひユーリさまたちもご一緒に」


 本当は全力でお断りしたいところだったけれど、マクシミリアンさまのご実家はそこそこ力のある伯爵家。ユーリさまの良き部下になる可能性もまだ残されているし、無下に扱うのもよくないと思ったのよ。


 それに、自分を捨てた男だからこそ、かけらほどの未練も見せず、毅然と、余裕のあるところを見せたかったの。女の意地ってやつね。


「それではごきげんよう」


 私はアイの手を引いて、マクシミリアンさまに背中を向けた。

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