第39話 ほんとちょろいわねぇ ◆――アネモネ(ショコラ)

 フッフッフッ。ほーんと、人間ってちょろいわねぇ……。


 皆が寝静まった深夜二時。すらっとした黒猫、もとい、あたいはむっくりと起き上がった。


 かすかに開いたカーテンの隙間から、細い月の光が差し込んでいる。それは寝ているちびな聖女と、それからその保護者らしき人間の顔を照らしていた。


 ふたりとも、ぐっすり寝ている。その穏やかな寝顔は、昼間拾った猫が実は魔物だなんて、夢にも思ってもいない。……まあ実際には、ちょっとだけ怪しまれていたみたいなんだけれど、そこはあたいの演技力で“ただの人懐っこい猫”だと思わせたってわけ。


 でもおあいにくさま。ショコラなんていかにも人間が好きそうな名前をつけられたけど、何を隠そう、あたいは主様のしもべであり、上位魔物のひとりであるアネモネさまよ。


 そりゃあね? あたいがこの国に踏み入れたとき、確かにぴりっとした聖女の力を感じたわよ? でも、それが通用するのはそれなりの魔族まで。あたいのような上位魔族にはぜーんぜん効果なんてないのよ。人間なんて、自分たちの都合のいい思い込みで生きている動物。騙すのは簡単だったわ。


 あたいはニヤッと笑った。


 目標を見つけてすぐ襲うのは、三流の仕事。あたいは一流の魔族だから、じっくり、ゆっくり、確実に仕留められるチャンスを狙うのよ。その方が労力も少ないし、何より人間どもの絶望する顔を拝めるんだから!


 あたいはぺろりと口を舐めた。相変わらず目の前では、ふたりがぐっすりと眠っている。


 よしよし、あたいは慎重派だから、手柄も欲張らないわ。大人の方は放っておいて、目当てのおちびちゃんをぱくっと一飲みするだけでいい。そうすれば簡単に任務完了よ。


 舌なめずりすると、暗闇の中であたいの体はみるみる膨らんだ。小さな黒猫から、馬ほどの大きさの獅子に。翼があり、尾には蛇もいるこの形こそ、あたいの本当の姿ってわけ。


 真の姿に戻ったあたいは、カパッと巨大な口を開けた。巨大な牙がぎらりと輝く。ああ、早く、早くこのやわらかそうなちび聖女をあたいのお腹に……!


――その時、シューッと鋭い音がして、あたいは動きを止めた。


 先ほどの音は馴染みがある。尾の蛇があげる警告音だ。

 何事? と顔を上げたあたいが見たのは、ゆらりと立ち上がった、女の姿だった。


 なっ、なんで!? この女、さっきまでぐっすり寝ていた聖女の親よね!?


 あたいは珍しく、警戒して一歩下がった。

 だって、音も気配もなく突然起き上がっていたのよ!? このあたいの目の前で! 一体どういうことなの!?


 見れば女は、騒ぐでも攻撃するわけでもなく、ただ不自然にゆらゆらと揺れている。

 腕はだらんと力が抜けており、まぶたも閉じられていた。けれどその動きは獲物に狙いを定める蛇の動きによく似ていて、そのせいかあたいの尾の蛇がシャーーッと威嚇している。


 しかし、女は何の反応もない。ひたすらにゆらゆらしているだけ。


 も、もしかしてだけど、この女、寝ぼけてるの? ……なら、このままちび聖女を食べちゃっても大丈夫よね?


 気を取り直して、あたいがあーんと口を開けた瞬間だった。

 ちりっと、ヒゲを素早い何かがかすめる。


「何っ!?」


 あたいは思わず声を出していた。見れば、後ろの壁にペンがビィィンと刺さっている。同時に目の前の女が手を伸ばしていた。


 まさか、投げたのっ!? 今の一瞬の間に、どうやってペンを!?


 あたいが一歩後ずさりするのと――決してビビったわけじゃないわよ――女の口からコォォオ……という不気味な音が漏れたのは同時だった。それから、カッと目が見開かれる。


 その瞳を見た瞬間、あたいは全力で後ろに飛びすさった。


――女の様子が、一変していた。


 昼はおだやかだった、そこらへんによくいるただの人間だった女が、打って変わって信じられないほどの気を発していたのだ。それは例えるなら、子熊の危機に瀕した母熊の気迫そのもの。


 ビリビリとヒゲを焼く強い殺気に、あたしは四肢をふんばった。


 ヒゲも尾も、全力でヤバイと訴えている。油断したら、まちがいなくパンチで全部持っていかれるわ……!


 まさか彼女が、こんな力の使い手だったなんて……でもそうよね、聖女の守り手だものね。これくらいの使い手を置いていて当然だわ……!


 じり、とあたしはまた後ずさりした。

 夜とは言え、ここは聖女の部屋であり王宮。騒がれでもしたら、あっという間に強者たちが集まってきてしまうだろう。そうなると、さすがに面倒ね……。


 ここは、あれしかない。


 私はぺろりと唇を舐めると――次の瞬間、また小さな黒猫に変化した。


「みゃお~ん」


 媚びるように可愛らしい声で鳴いて、さも無害そうな顔でちび聖女の隣に潜り込む。それから大げさなほどすやすやと寝息をたててみせた。……そう、寝たふりよ。


 ここは事を荒立てるよりは、立て直して次のチャンスを探すべきだと思ったの!


 そうしてしばらく寝たふりを決め込んでから、あたしはちょっとだけ薄目を開けて――ビクッと震える。


 見開かれた水色の瞳が、闇夜の中、至近距離でじっとあたしのことを見ていたのだ。


 ヒッ! あ、あたいは寝ています、あたいは寝ています、寝ているったら寝ています! 今のあたいは無害な子猫ちゃんです! 決して母熊さんと戦おうなどと思っておりませんからぁあ!


 カタカタと歯が震える。あたいとしたことが、なんてこと……! でも母熊はマジでやばいって!


 そのままあたいは、ただただ時が過ぎるのを待った。やがてフッ……と気配が消え、胸を撫でおろす。


 ……なんてこと。このあたいをこんなに怯えさせるなんて。あの人間、やるわね……! 明日から、もっと慎重に正体を見極めなければ。そしてあの人間がいない時に、確実に聖女を食べてやる!


 あたいは決意を胸に、ひとまず今日は、ちび聖女の脇の下に潜り込んだ。すぐさまうとうと、心地よい眠気が襲ってくる。


 う~ん。子どもって、体温高くてあったかいのよね……。


 そんなことを考えているうちに、いつしかあたいは夢の中へと落ちていった。

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