第35話 我の安寧を邪魔するものは許さない ◆――???
スッと、影から音もなく目の前に現れたのは、一匹の小さな黒猫だった。
滑らかな体毛はつやつやと黒光りし、ぽっかりと浮かんだ瞳は金色。闇夜に輝く月のような目をした黒猫は、にゃあと高い声で鳴いた。
「アネモネ、おまえに聖女の始末を命じる」
我の声に、アネモネの目が三日月のように細まった。ニィィッと裂かれた口から、可愛らしい外見には似つかわしくない醜悪な牙が覗く。鈴が鳴るような高い声でアネモネは答えた。
「聖女はどちらの方ですかぁ? ちびな方? それとも大きい方?」
「無論、ちびの方だ」
よみがえった聖女も厄介だが、それよりも新しい聖女の方が数倍厄介だった。
まだ成長途中であるにも関わらず、既に今まで見てきた聖女の誰よりも光が強くなってきている。これ以上成長する前に、危険な芽は摘まなければ。
我の答えに、アネモネがくつくつと笑う。
「そりゃあいいですねぇ。一度、人間が崇める聖女とやらを食べてみたかったんですぅ。しかも、ちびは肉がうまいと聞きますから。……もちろん、食べても構わないですよね?」
「この世から消せるのなら、手段は問わん」
それを聞くと、アネモネはまたニヤァッと笑った。かと思うと、瞬きする間もなく一瞬で姿を消す。
我は大きく息をついた。
これで、あとは奴がやってくれるはずだ。そしてまた安寧が訪れたら、我はその時こそ力を蓄え、我を捨てた世界に復讐ができる――。
そこまで考えて、我はふと鏡の方を見た。心の余裕が出たからだろう。今ならあの鏡も怖くない。
ずるり、べちゃっ、ずるり。
重い体を引きずって、鏡を覗く。
淡い光の中に、聖女がふたり。ちび聖女が大人の聖女の膝に座って、大きく口を開けていた。そのまま、まるで雛に餌付けするように、大人の聖女が棒に刺した黒い何かを食べさせている。
……あれは一体なんだ?
我はぐっと顔を鏡に近づけた。その勢いでびちゃっと粘液が飛んだが、紫の液体は鏡面に触れる前にシュウッと消える。鏡の発する聖なる光で浄化されたのだ。
我も顔を火傷しないギリギリの距離を保ちながら、食い入るように鏡を見つめる。
小さな棒に刺さっているのは、白い何かを黒い何かで包んだ謎の食べ物だ。こんなものは見たことがない。黒い部分は不可思議すぎて、ちっともおいしそうに見えない。
だと言うのに、それを口に入れたちび聖女は、このうえなく幸せそうな顔をしていた。もにもにとほっぺが膨らんで、そのほっぺをつつかれては笑っている。
おまけにけらけらと笑った拍子に口の中身がこぼれて、それを大人の聖女がハンカチで優しく拭っていた。
……ぐぅ、とまたもやお腹が鳴る。
我は舌打ちした。
これだから、鏡を見るのは嫌だったんだ。やつらは物を食べているだけで、もう味覚を失って久しい我には関係のない話。
にも関わらず、抑えきれない思いが我の中に生まれる。
あんな風に、ちょっと食べるだけで幸せになれるものは一体なんなのだ……? あの黒いのは、どんな味をしているというのだ……?
「主さま」
そばで見ていたアイビーが我を呼ぶ。
「それ以上近づくと、お顔を火傷いたしますよ」
ハッとして、我はあわてて鏡から離れた。
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