第73話 それは、“未来”があるからこそできること
言葉の途中で入って来たのは、サクラ太后陛下付きの侍女だった。
私やアイ、ユーリ様は何度か会ったことがあるけれど、リリアンにはきっと初めましての方よね?
なんて思っていると、女官が頭を下げてうやうやしく言う。
「エデリーン王妃陛下。サクラ太后陛下がお呼びでございます。アイ様の家庭教師について相談したいとのことです」
「わかりました、すぐに行きます」
私はうなずいた。
サクラ太后陛下は今も離宮に住んでいるのだけれど、どうやらアイがかわいくて仕方ないらしく、最近は頻繁に遊びにくるようになっていたの。何日も泊っていくこともあって、せっかくだからアイの教育についても色々相談させてもらっていたのよ。
私は少し考えてから、アイに向かって言った。
「アイ。ママはサクラのおばあちゃまとお話してくるから、ここでお留守番していてくれる?」
「えぇー! ママ、あそんでくれないの?」
アイがぷぅと頬を膨らませると同時に、下唇がにゅっと突き出された。
これは最近見せてくれるようになった、アイが不満を表す時の表情だ。
本人はきっと一生懸命怒っているつもりなんだけれど……ふふっ。私から見ると、そのお顔すら天使のごとき可愛さなのよね。
ぷっくりしたほっぺのせいで、ますますまあるくなるお顔に、一生懸命吊り上げているけれど全然怖くないおめめ。そしてぷるんぷるんの唇。
アイには申し訳ないけれど、どこをとってもかわいい以外の言葉が出てこない。実はこの表情もとっても好きなのって言ったら、アイに怒られちゃうかしら?
私はくすくすと笑いながら、人差し指で丸いほっぺをぷにぷにとつついた。
「アイも来てもいいのだけれど、少し難しいお話をするから退屈させるかもしれないのよね……」
そこへ、空気を読んだ三侍女たちがすすすっと進み出る。
「でしたらアイ様! お留守番の間私たちと一緒に遊びましょう!」
「お絵描きをされますか? それともおままごとをされますか? あっそうだ! もしよかったら、私の髪を編んでくれませんか?」
「えっ! わたしもアイ様に髪を編んでほし~い」
きゃっきゃと賑やかな声に、アイの視線がちらりと三侍女に移る。
それから小さな鼻を膨らませてふんすっと息をついたかと思うと、アイは自慢げに胸を反らした。
「いいよ! アイがあんであげる!」
「えっ。アイが髪を編んでくれるの? ママもやってほしいわ」
思わずそう言った瞬間、三侍女たちがじとっとした目で私を見た。
……しまった。
せっかく彼女たちがアイの気を引こうとしてくれているのに、うっかり私まで乗ってしまったわ! だ、だってほら、この間髪を編んでくれたアイの真剣な表情がものすごくかわいかったからつい……!
心の中で言い訳を重ねながら、私はコホンと咳ばらいをした。
「ま……ママが帰って来たら、アイに髪を編んでほしいわ」
「いいよ! それまでアイ、いっぱいれんしゅうするね!」
すっかりやる気を出したアイたちに見送られながら、私はサクラ太后陛下の元へと向かった。もちろん、就任したばかりのリリアンも私の後ろをついてきている。
廊下を歩きながら、私はちらりと彼女を見た。
……それにしても。
アイを怖がらせなさそうな女騎士で、かつ腕も立つからという理由でリリアンを護衛騎士にすることに決めたのだけれど……まさか彼女があんな過去を持っていたなんて。
貴族も政略結婚はよくあることとは言え、娼館に売られそうになるのはまた全然別の話だ。
それに、彼女がどんな幼少期を過ごしたのかは想像でしかないけれど、リリアンは好きな食べ物を聞いても答えられないほどだったのよ。出身は辺境で、魔物に怯える日々だとも言っていたから、きっと相当過酷だったのでしょう。
それなのに私ったら、リリアンのユーリ様への態度ばかりを気にしていたなんて……いけないわ。王妃として、もっと視野を広く持たなくては。前に、お母様にもアドバイスされたことがあるもの。『あなたは王妃として、どっしり構えていなさい』と。うん、今こそその時よね!
私はぐっと手を握り、密かに自分へ喝を入れた。
そこへ、廊下の奥から見覚えのある背の高い人物がやってくる。
……噂をすればユーリ様だわ。
向こうからやってきたユーリ様も、私に気付いたらしい。無表情だった顔に、ふわりとした笑みが広がる。
「エデリーン。もしかして君もサクラ太后陛下に呼ばれたのか?」
「ええ。ということはユーリ様も?」
「アイの家庭教師について相談したいとのことだ」
言って、ユーリ様が私の後ろに控えるリリアンに気付く。
「そうか、今日から正式にエデリーンの護衛騎士となったのだな」
「はい。精一杯、エデリーン王妃陛下をお守りさせていただきます」
リリアンはまた、いつもの見た人全員を虜にするようなまばゆい笑みを浮かべた。それを見たユーリ様が真剣な顔でうなずき、短く言う。
「妻を頼んだぞ」
かと思うと、ユーリ様はまたパッと私の方を向いた。その顔には再度やわらかな笑みが浮かんでいる。
「最初はあんなに怯えていたアイが、とうとう師をつけて学ぶ時期になったのだな」
その口調はしみじみとしており、思わず私も同意するようにうなずいた。
ここにやってきた当初のアイは怯えて弱り切り、会話どころか、命があるだけよかったと胸をなでおろすくらいだった。
それが気づいたら声をあげて笑うようになり、自分の気持ちを伝えられるようになり、今は大人になるため――アイの“未来”のために、次なる一歩を踏み出そうとしている。
「勉強なんてただ面倒な義務だと思っていましたのに、その“面倒な義務”をさせてあげられることが、こんなにも嬉しいだなんて思ってもみませんでしたわ」
子は何のために勉強するのか。
親はなぜ子に勉強をさせようとするのか。
……それは、私が親になってみて初めて分かったの。
アイが将来生きていくために、少しでも生きやすくなるように、人生の助けになるように。
何より、いつか親である私たちがいなくなっても、
そしてそれは、アイたち子どもに、“未来”があるからこそできること。
そのことを私はしみじみと噛み締めていた。
「そうだね。アイがいつか独り立ちする時のためにも、私たちができるかぎりを伝えてゆかなくては」
「えっ? 独り立ち?」
その言葉に私は目を見張った。
てっきり、アイは聖女だからずっとこの国で私たちのそばにいると思っていたけれど、ユーリ様の口ぶりだと、まるでアイは大人になったらこの国を旅立っていくようじゃない……?
サーッと私の顔が青ざめた。
「ユーリ様……まさかアイを他国のお嫁にやってしまうおつもりですか!?」
がしっとユーリ様の腕を掴めば、彼はぎょっとした顔をする。
「そ、そんなわけないだろう。頼まれたってアイを他国になど連れて行かせないぞ!」
その言葉に私はほっと胸をなでおろした。
「ああ、びっくりしましたわ!」
「独り立ちという言葉が悪かったな、すまない。私が言いたかったのは、アイが大人になった時、アイ自身が外に出ることを望むかもしれないということだ。見聞を広めるために遊学に出たいというかもしれないし、市井を見に行きたいというかもしれない。その時、私はなるべくアイを応援したいと思っている」
「ユーリ様……」
まさか、ユーリ様がそんなことを考えていたなんて……。
自分の手元でいかにアイを可愛がって守り育てるかしか考えていなかった私は、自分の考えの浅はかさに顔を赤らめた。
「そうですわよね。女の子だからといって外に出てはいけないということはありませんものね。私も、アイのためになることなら何でもしてあげたいですわ」
「アイはこの国では聖女として扱われているし、私もそう扱ってしまうが……アイにはアイの、人生があるからね」
そう言って微笑んだユーリ様の瞳は、この上なく優しかった。控えめに輝く青の瞳からは、アイを深く思いやる気持ちが伝わってきて、見ている私まで嬉しくなる。
「アイは私たちの子である前に、ひとりの人間ですものね」
「ああ」
今はまだ私が抱っこできるあの子も、いつか抱っこできなくなるほど成長するのでしょう。小さな手だって大人のものへと変わり、もしかしたら背丈だって追い抜かされれるかもしれない。
成長したアイは、きっと美しく賢い、誰からも愛される少女になるのでしょうね。
まだ見ぬ未来のアイの姿を想像して、私は微笑んだ。
「ふふっ。もし将来アイが遊学に行ったら……他国で意中の人を見つけてきたりするのかしら?」
私がそう言った途端、ピタッとユーリ様の動きが止まる。
「あるいは、アイのことを好きになる男性が出てきてしまうのかしら? だってあんなに可愛い子ですもの。きっと引く手あまたですわ。ああ、どうしましょう! もし『アイ様を僕のお嫁さんにください』なんて男性がやってき――」
「絶対にやらん!!!」
被せ気味に言われた言葉は、驚くほど大きかった。
びっくりしてユーリ様を見ると、彼は先ほどとは打って変わって、憤怒の形相になっている。
「ゆ、ユーリ様?」
「アイを嫁になど、絶対にやらん!!!」
ゴッ!!! と、ユーリ様の背中で目に見えぬ炎が燃え上がった気がした。
「よく考えたら、アイをどこの馬の骨かもわからん男たちのいるところになど行かせられない……! 危険だ!!!」
ゆ、ユーリ様!?
先ほどと真逆のことをおっしゃっていますわよ!? このままじゃアイを独り立ちさせるどころか、一生お城から出さない勢いになっていますわよ!?
「ユーリ様、しっかりなさってくださいませ! 先ほど言っていたことと矛盾していますわ!」
私がバシバシとユーリ様の二の腕を叩くと、ようやく彼はハッと正気を取り戻したようだった。今度はくっと呻きながら、眉間を押さえている。
「す、すまない……アイが誰かの嫁に、と考えた瞬間、目の前が真っ赤になってしまった……」
そんなユーリ様を見て、私はくすくすと笑った。
ユーリ様は普段とても穏やかなのに、本当にアイのことになると途端にオロオロしたり、メラメラしたりしだすわね? こういうのをきっと、立派な親ばかと呼ぶのでしょう。
くすくすと笑い続ける私を見て、ユーリ様が気まずそうに咳払いしつづけていた。
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