第41話 猫のお風呂なら任せてちょうだい

「わああっ! おみずちべたーい!」


 飛んできた水しぶきに、アイが悲鳴をあげて私の後ろに隠れる。


「エデリーンさま、申し訳ありません! お風呂にてこずっていて……キャアッ!」

「おねがい止まってえぇえ!」

「いたぁい! あたしお尻打ちましたぁ~!」


 ドタバタ、ツルッ、ドッスーン! なんともにぎやかな浴室内の様子に、私は苦笑いする。その中でカッと目を見開いて床をシャカシャカと走り回っているのは黒モップ――ではなく、濡れそぼったショコラね。


「ずいぶん大変なことになっているようね」

「あおおおおおおん」


 目が合うと、ショコラは助けを求めるようにすごい声で鳴いた。お風呂に慣れていないのなら……やっぱり飼い猫ではないのかしら?


 なんてことを思いながら、よたよたと立ち上がった侍女たちの手を借りて、私は重たいドレスをバサッと脱いだ。


 よし、寝巻の裾は濡れてしまうでしょうけど、これで少しは動きやすいわね。


 それからツカツカとショコラに近づくと、お腹の下に手を入れてガッと抱え上げる。用意された洗い桶の中にショコラを着地させると、私は侍女にサッと手を差し出した。気分は外科手術を始める医者よ!


「お湯」

「はい!」


 まず最初に左手でショコラの脇の下をガッチリと固定する。関節を固めてしまうことで、猫が逃げるのを防げるのよ。

 気づけばアイが、わくわくとした顔で私の後ろから顔を覗かせていた。私は渡された手桶のぬるま湯を少しずつゆっくりとショコラの体にかけていく。


「あおおおおおお」

「すごいこえだねぇ!」


 アイの言う通り、浴室によく響く独特の声だ。

 うんうん、猫にとってはお風呂って最初はただただ怖いわよね。でも大丈夫、うちにいた猫も慣れるまではそんな感じだったわ。それに爪を出したり噛んだりしてこないだけ、ショコラはとっても優秀ね。


 私はもう一度サッと手を出す。


「石鹸」

「はい!」


 たっぷりと水で濡らしたショコラに、今度は香りのない石鹸をこすりつけていく。強さは控えめに、でも痛くないように。


「あおおおお」


 ショコラはぷるぷると震えていた。そこに少量の水をかけて泡立ちを助けてやりながら、私は右手を使ってしっかりと泡立てていく。……と言っても意外と汚れているのか、全然泡が立たないけれど。


「よしっ、ここからね」


 私は石鹸を侍女に渡してから、わきわきと両手をうごめかせた。


「あお……?」


 何か感づいたのか、ショコラが哀れな目でこちらを見つめてくる。私はにっこりと微笑んだ。


「さあ、体をきれいきれいしましょうね」


 スゥゥッと滑らかな動きで両手をショコラの体に沿わせると、私はを始めた。はた目からは、ただ猫を洗っているだけのように見えるかもしれないわね。指を立て、指の腹で優しく強く、揉むようにして背中を洗う。


「あおっ!? あおぉっ……!?」


 ショコラが変な声をあげた。


 人間だって、汚れた頭を適度な力で洗われるのは気持ちがいいものよ。それは動物であってもきっとそんなに変わらないわ。


 私はショコラが痛がらないように細心の注意を払いながら、丹念にもみ洗いをした。かつて服をびしょびしょにし、お母さまに呆れられながらも猫を洗っていた記憶がこんなところで活かされるなんて、人生何事も経験ね。


 背中、お腹、尻尾の付け根、それに腕に肉球の隙間にと、まんべんなくマッサージしながら洗っていくうちに、ショコラの目がとろぉんとしてくる。


「ねこちゃん、ねちゃいそうだよぉ?」

「これはね、気持ちよくなってるのよ」


 アイに説明しながら、私は満足げに微笑んだ。

 うん。洗うついでに毛玉やおできがないかも探っていたんだけれど、そちらも大丈夫そう。


 私はショコラのあごの下に手を入れると、くいっと持ち上げた。既にうっとりしているショコラは、目を細めてされるがままになっている。……確かにマッサージは頑張ったけれど、それにしてもこの子、やたら順応性が高い気もするわね……?


 などと感心しながら手桶をもらい、上げた目や鼻に水が入らないようちょろちょろとかけていく。顔周りは繊細だから、お湯だけで十分なのよね。

 残りの体も全部洗ってすっきりすると、侍女たちが急いでタオルを持って拭き始めた。


「ねこなのに、あかちゃんみたいだねえ!」


 と言ってアイが指さしているのは、本当に赤子のようにおくるみに包まれたショコラの姿。逃げもせず、毛づくろいもせず、ほーん……と言う顔で侍女の腕の中に鎮座している。


「本当、ここまでぴくりとも動かなくなるなんて……。大丈夫かしら?」


 もしかして、刺激が強すぎたかしら?

 私が心配して覗き込むと、ショコラがハッとする。それから思い出したかのように侍女の腕から逃げ出し、ソファの上にじんどってそりそりと毛づくろいを始めた。


「アイもふいてあげるねえ!」


 小さなタオルをわけてもらったアイが、ショコラに駆け寄ってせっせと拭き始める。ショコラはそれを横目でちらりと見ながらも、されるがままになっていた。

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