第30話 何年、何十年と忘れていても、覚えている味
「へ、陛下!? どうされました!?」
がたたっと私は立ち上がる。ホートリー大神官もぎょっとしていた。
まさか、まさか、ハロルドったら、何か変なものを入れていないでしょうね……!? 私はあわててコップを手に取った。
「お水! お水を飲まれますか!?」
「大丈夫よ、ごめんなさい。……少し、思い出してしまっただけなの」
そっと涙を拭いながら、サクラ陛下が言った。
「ああ、なんて懐かしい味なのでしょう……。もう、何十年も忘れていた味だわ……」
私がすぐさまハンカチを差し出す。受け取ったサクラ陛下が、目頭を押さえながら嬉しそうに微笑んだ。
「甘くて、でも優しくて、懐かしい味……。園子ちゃんが作ってくれたぼたもちを思い出すわね……」
「ソノコ……さま……ですか?」
誰かしら? 聞いたことのない名前にホートリー大神官を見たが、大神官も知らなかったようで、ふるふると横を首に振っている。サクラ陛下は続けた。
「園子ちゃんはね、私がまだあちらにいた頃のお友達よ。私のたったひとりのお友達。私がひどい環境でもなんとかやってこれたのは、幼なじみの園子ちゃんがずっと励ましてくれたからなのよ……」
言いながら、サクラ陛下の目はアイに注がれていた。
アイはサクラ陛下が泣き出したことにびっくりして目を丸くしていたが、きょときょとしながらも、陛下の視線をまっすぐ受け止めている。
「本当に懐かしいわ……。園子ちゃんはよくぼたもちを作ってくれたの。しかも、本当はうるち米ともち米を混ぜなきゃいけないのに、『全部もち米の方がおいしいでしょう?』って言って、頑なにもち米だけで作っていたのよ……」
“ウルチマイ”。そういえば、商人が勧めてきたものの中にそんな名前の米もあった気がするわ。
でもハロルドが断固として断っていたのよ。正しい作り方も大事だけれど、それよりはアイの記憶の中にある、思い出の味を優先したかったのですって。
「あなたは再現したと言ったわね。このぼたもちの作り方を、どこで?」
聞かれて、私はアイのスキルのことを説明した。
「そう……。アイちゃんが作ってもらったぼたもちなのね」
それから陛下はしばらくじっと考え込んだ。
「……アイちゃんは、そのぼたもちを作ってくれたおばあちゃんのお名前を憶えているかしら?」
その質問に、アイが困ったように首をふる。
それも仕方ないわ。だって子供は大人に、名前など聞いたりしないもの。
「エデリーン、あなたが見たという女性の、外見的特徴を覚えているかしら?」
「それ、は……」
今度は私は言いよどんだ。
きっと、サクラ陛下はアイにぼたもちを作ってくれた人が、ソノコさまではないかと思っているのでしょうね。けれど、顔を覚えていると言えば覚えているものの、残念ながら特徴らしい特徴を説明できそうにない。
快活そうな女性とは言えても、それ以上の細かいことはなんと言ったらいいのか……。ものすごく顔に特徴があれば話は別なのだけれど……。
私の戸惑いを感じとったのだろう。サクラ陛下はそれ以上深く追求してこなかった。
「……いえ、考えすぎね。もち米だけでぼたもちを作る人は、きっと他にもいるもの。ごめんなさい、今のは忘れてちょうだい」
「申し訳ありません、お役に立てなくて……」
「いいのよ。謝る必要はないわ。少し、懐かしくなってしまっただけなの」
言いながら、サクラ陛下はもうひとくちぼたもちを食べた。
幸せそうに目がきゅっと細められ、目尻に皺が寄る。横に座っているアイが、もじもじとした。
「あら、ごめんなさい。私としたことが気が利かなかったわね。どうぞ、みんなで一緒に食べましょう。年寄りには、少し多すぎるもの」
即座に私はお言葉に甘えた。黒文字で一口サイズに切ったぼたもちを、アイの口に運んでやる。
あーんとお口が開かれ、噛むたびにぷくぷくほっぺを膨らませながらアイが言った。
「やっぱりもちもち、おいしいねえ」
無邪気な声に、サクラ陛下がふふっと笑う。
それは、桜のつぼみが開くような、柔らかで美しい笑みだった。
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